内田樹という迷惑・すみません

かんたんな道徳というか、エチケット・マナーの問題です。
「すみません」とあやまること。
内田氏はこういう。
昨日の自分と今日の自分は、べつの存在である。人間は、一日一日生まれ変わっている。根源的には、たしかにそういうことでしょう。だから、昨日のことを叱られても、ぴんとこない。そこで、さらにこういう・。
「自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことはいくらでもある(というか、それによって私たちの人生は満たされている)。それについて涼しく<すみません>と宣言すること。それは、過去の私の冒した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることである。それが倫理という言葉の意味である。(レヴィナス)老師はそのことを教えてくれたのである。」
そういうことなんだってさ。自分のことをまさぐるしか能のないやつの倫理観なんてこのていどだ、ということです。
レヴィナス先生が泣くぞ。
問題は、相手が怒っている、ということにある。怒っているのは、怒らずにいられないくらいやりきれない思いを抱えている、ということだ。そのやりきれない思いに対して、われわれはどういう態度を取ればいいのか、という問題なのだ。
昨日の自分と今日の自分が違うことも、よく思い出せないことも、関係ないんだよ。
相手のやりきれない思いが静まるもっとも有効な方法がとりあえず「すみません」とあやまることならそうすればいい、というだけの話だ。
自分がやったことであろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいんだよ。自分なんかどうでもいいんだよ。
「すみません」とあやまる自分を確認することが、「他者」の存在に深く気づくことなんだってさ。くだらない。
内田さん、われわれはあなたほどそうやって自分をまさぐってばかりしていられない生き方を余儀なくさせられているし、そんなえげつないナルシズムも持ち合わせていない。
そこにやりきれない思いを抱えて怒っている他者がいると気づくこと、問題は、そこにしかないのだ。
内田氏によれば、よく思い出せない自分こそ私の内なる「絶対的他者」なんだってさ。その「絶対的他者」に成り代わって「すみません」というのが「倫理」なんだってさ。
あほらしい。そんなもの「他者」でもなんでもない。たんなる「昨日の自分」さ。「今日の自分」と違おうと、自分は自分さ。くだらない。目の前のそこに他者が存在することの驚きやときめきや幻滅ややりきれなさは、誰だって生きてある「今ここ」において体験していることじゃないか。目の前に他者が存在すること、それだけがこの世界のすべてだと思ってしまう体験はあるじゃないか。相手がありったけの関心を自分に向けて怒っているなら、こちらだって「すみません」と言ってこたえるしかないときもあるじゃないか。
あるいは、「すみません」と謝ったらますます頭に乗って怒ってきそうで、怒り返すしかないときもある。怒る相手に対して切なく思うときもあれば、うんざりするときもある。そうして、黙りこくってしまうときもある。あなたには、そういう体験がないのか。
人さまざまさ。人生いろいろさ。
倫理なんか、おら知らん。そういう他者に対して、どこまで素直に反応できるか。われわれにとっては、それが問題だ。そこで悩んでしまう。
何が素直な反応であるのか、僕にはよくわからない。自分の倫理性に酔っていい子ぶってる余裕なんか、僕にはない。
とにかく、自分だろうと自分の内なる「絶対的他者」だろうと、どうでもいいんだよ。