内田樹という迷惑・女は世界の奴隷か?

「女は世界の奴隷か?」とジョン・レノンが言った。
子供を産んだり毎月の生理を抱えている女は穢れた存在である、と考える習俗は世界中にある、と内田氏が「こんな日本でよかったね」という新刊の中で言っています。
そして「穢れ」の語源についてのうんちくを語っているのだが、なに、ステレオタイプなたわごとです。
「穢れ」の語源は「毛枯れ」あるいは「気枯れ」というところからはじまっているのだとか。
「毛」は、「二毛作」といったりするように、作物の収穫のことだそうです。
学者連中のあいだでよく使われている手垢のついた解釈です。
で、こう結論づけています。
「<穢れ>というのは、すくなくとも発生的には、<不潔である>とか<汚れている>という衛生状態についての形容ではなく、<生産力が低下している>状態を指称したもののようである」と。
つまり語源までさかのぼれば、女は「不潔である」とか「汚れている」という理由で穢れているとされていたのではない、といちおう女をかばっているわけです。
しかし「生産力」が低い存在である、と暗に差別してもいる。
生産力が低い能力の劣った存在だから、穢れている、ということになっていたんだってさ。
しかしねえ、女が子供を産むということは、「生産力」そのものでしょう。「原始、女は太陽であった」と言ったフェミニストがいたそうだが、そのころ女は、「生産力の象徴」だったのだ。
氷河期のヨーロッパクロマニヨン人は、妊婦の彫像をつくってそれを拝んでいたという例もある。
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また、すくなくとも日本列島においては、縄文時代から弥生時代の農耕社会に移行するさい、女のほうが作物を生産する能力は高かったのです。女は、縄文時代には女子供だけの集落をいとなみながら、米をつくることをしていたし、漆の製法も心得ていた。そして、卑弥呼の例でもわかるように、天候や収穫高の予測は、女の能力だった。
それに対してその女だけの集落を訪ね歩いて暮らしていた男たちは、狩をすることしか知らなかった。
そういう両者がひとつ家に住んで農耕をはじめたのが、弥生時代です。
だから、この国の最初の農耕社会は、女の主導でつくられていったのです。
そうして、婚姻形態も「姉さん女房」というかたちからはじまっている。
女が「穢れている」とか「生産力が低い」なんて、とんでもない話だったのだ。
女が「穢れている」といわれ始めたのは、おそらく男中心の「国家」が生まれ、大陸から仏教思想や儒教思想が入ってきてからのことです。
しかし「穢れ」という言葉は、もともと神道の言葉であり、それ以前からあったはずです。おそらく、縄文時代からあった。
そもそも、語源を考えるのに「毛枯れ」だの「気枯れ」だのと、「意味=規則」性を持ち出すのは、いまや通用しないのです。そんな方法は、ソシュールで終わっている。ウィトゲンシュタインは、「言葉は意味=規則として発生したのではない、言葉を発することそれじたいの<ゲーム>としてはじまっている」といった。
「毛枯れ」だの「気枯れ」だのという「意味=規則」は、あとからくっ付けたものです。あとから、そんな字を当てただけじゃないか。
それでもこの国の多くの学者たちは、いまだに「意味=規則」で語源を語ろうとばかりしている。
世界の先端的な思想にも精通しているはずの内田氏ですら、そんな解釈を無造作にもてあそんで平然としている。
おまえら、それでも学者かよ。
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ことにやまとことばは、「意味=規則性」の希薄な言葉なのだ。
やまとことばの語源に「意味=規則」はない。
意味も規則もない、まず「けがれ=けかれ」と発声する体験(=ゲーム)があったのだ。
「け」は、「けっ」とふてくされたりするように、吐き捨てるように発声される音韻です。だから「蹴(け)る」という。そして「毛」は抜けるものであり、「気」は生まれてはたちまち消えてゆく心の動きやこの世界の気配のことです。「消す」の「け」。「けけし」とは、無愛想でよそよそしいこと。無愛想でよそよそしいことに対する感慨の言葉。
語源的な「けがれ」の「け」は、うんざりしたりがっかりしたりする心の動きの表象であろうと推測できます。
「かれ」は「彼」、ここにはいない第三者のことです。「・・・・・・するなかれ」と言うときの「かれ」も、否定・消去の感慨を含んでいる。もちろん「枯れ」も、消えてゆく状態のことでしょう。
「か」と発声するとき、一瞬体が温まるような心地がする。確かな、あるいは強く新鮮な心の動きとともに洩れてくる音声。
「れ」は、その逆に息がつまるような発声。停滞、終息、の感慨。
「かれ」とは、確かさや新鮮さがなくなってしまうこと。あるいは、現在が停滞してしまうこと。
「けがれ=けかれ」とは、消えていったり停滞していることに対するがっかりした気分のこと。
そういう事態にたいする深い嘆きから生まれてきた言葉なのだ。うんざりした気分、と言い換えてもよい。
関西便の「・・・・・・してけつかれ」といえば「・・・・・・していやがれ」という意味。このときの「けつかれ」は、うんざりした気分の表象なのだ。
もしかしたら、語源的には「けっかれ」と発声していたのかもしれない。そうやって最初はたんなる消えてしまう現象に驚いたりがっかりしたりする感慨から発せられていた言葉が、やがて定住することの「停滞」の気分を指すように傾いてきて「けがれ」という発声になっていったのかもしれない。
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では、いったい何が停滞し、消えていったのか。
古代の人びとがもっとも強く意識した「穢れ」の対象は、「土」です。
縄文人は、土が穢れてきたといってしばらくすると別の場所に家を移すということをよくしていたし、古代の遷都も主な理由はそこにあった。家を建てる前に土を清めるという習俗は、現代まで続いている。神道の神官のことを「禰宜(ねぎ)」というのは、「根ほぐ」、すなわち根=土を清めることからきている。
古代の人びとにとって、土こそ生命力の源だった。
そうして、土の新鮮な生命力が消えてゆくことを「穢れ」と言った。
したがってそれはたしかに「不潔である」とか「汚れている」という意味も含んでいる。女の生理だって、不可避的にそういうことを連想させるわけで、そのことにおためごかしを言ってもしょうがない。たぶん、男社会になって、男がみずからの優位性を誇示するために、そういう通説を流布していったのだ。また、お産の穢れをいうのは、あられもない格好をして泣きわめいて「鬼」になってしまうからでしょう。
古代においてお産をするときは、そのための小屋を建てて、男には見せなかった。それは、お産が神聖な行為であるという領域を守るためでもあったはずです。
何が「生産力が低下している」か。お産は、生産そのものじゃないか。
土が穢れてしまえばたしかに「生産力が低下する」のであるが、「生産力が低下する」ことを指す言葉であるがゆえに、語源的には女のことを指すものではなかったはずです。
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女は、「女は穢れた存在である」という社会的通念に抗議をする権利がある。と同時に、女自身が、みずからの身体に対する「穢れ」を感じてしまう傾向を持っている。それは、一種の「デカダンス」の感覚である。そしてその感覚が、女のセックスに対する快楽を深くし、男よりも死を怖れない潔さにもなっている。
女は、穢れを自覚しているが、男に言われる筋合いはない。
だから、内田氏の次のようなおためごかしの言い方には、反吐が出る。
「女性の産穢や月経についての<穢れ>の感覚は<これから生まれてくるもの>の本源的他者性への畏敬を映し出すものであり、それは<すでに死んだ者>に対する畏敬の思いと鏡像的な関係になっているのではないか。」
何言ってるんだか。月経は、妊娠したとたん止まってしまうんだぞ。古代人にとっての月経は、お産とは対極にある生理現象だったのだ。<これから生まれてくるもの>を連想しない生理現象だったのだ。
内田さん、あなたの言っていることは、ただのこじつけの観念的なお遊びにすぎない。
「穢れ」は「穢れ」さ。汚れることさ。体のはたらきがよどんでしまうことさ。そしてそういう自覚を持ってしまうところに、女の女たるゆえんがある。
死体は腐敗するから「穢れ」というのだ。古代人がそう思っていたことは、古事記にちゃんと書いてある。妻であるイザナミの腐敗した死体を見てしまった夫のイザナギは猛烈な「穢れ」を自覚した、と書いてある。
「畏敬」の念は「穢れ」とは言わない。「おそれうやまう」と言う。「穢れ」とはけっして言わない。古代人の心模様は、そんな持って回ったおためごかしで成り立っていたのではない。
「穢れ」は、身体や世界を表象する言葉であると同時に、それらに対する心の動きが新鮮さを失ってよどんでしまうことも意味していた。
古代人は、穢れを自覚しつつそこから浄化作用を汲み上げてゆくという心の動きを持っていた。そういう緊張感とデカダンスを持って彼らは生きていた。彼らは、穢れを深く自覚していた。
「大人」になるとは、穢れてゆくことだ。内田さん、あなたの言説には、そういう緊張感とデカダンスがないのだ。あなたは、みずからの「穢れ」を自覚していない。そこにあなたの限界がある。あなたには、みずからの「穢れ」を見つめ、それを受け止めようとする視線がない。そうやって「穢れ」を「畏敬」というおためごかしの言葉にすりかえていい子ぶっているのが関の山だ。