内田樹という迷惑・言葉の交換というコミュニケーション

「コミュニケーション」なんて、幻想だ。
人と人の関係は、コミュニケーションの不可能性の上に成り立っている。
会話をするということは、コミュニケーションをすることではない。コミュニケーションの不可能性を共有し合うことだ。
心を伝えるのではない。言葉を伝えるだけだ。愛してもいないのに、愛しています、といえば、愛の告白になる。風邪をひいてもいないのに、風邪で頭が痛いから今日はお休みさせていただきます、という。そういうことを成り立たせるのが言葉なのだ。
心を伝えることの不可能性を認識することの上に、言葉が成り立っている。
言葉は、心とは関係なく、それじたいとして成り立っている。心と言葉は別のものだ。だれもがそういうことを知った上で、言葉を使っている。
なのにわれわれは、ときについほろりとだまされてしまう。
われわれは、相手の心よりも、言葉のほうを信じているらしい。その言葉が、相手の心の表現であると信じてしまうのは、心を信じているからではなく、言葉を信じているからだ。
相手の心などわからないと思っているからこそ、言葉を信じるしかないのだ。
言葉を言葉として信じている。
心そのものではなく、「表現されたもの」を信じてしまう。それが心の表現であるのかどうかなどわからない。あくまで「表現」を「表現」として信じてしまう。
相手が泣いていれば、ついもらい泣きをしてしまう。それは、相手の悲しみがわかるのではなく、泣くという行為が悲しみの表現であることを信じているからだ。心を信じているのではない、泣くという「表現」行為を信じているのだ。そうやって自分も悲しくなってしまうのは、相手の心が伝わったからではなく、泣くという「表現」行為それじたいを信じているからだ。
赤ん坊の集団では、ひとりが泣けば、たちまちまわりに伝染する。それは、他者の悲しみがわかるからではない。悲しくなってしまうからだ。その「表現」行為によって、悲しくさせられてしまうからだ。
それほどにわれわれは、他者の「表現」を信憑している。
他者の心を信じているのではない。他者の「表現」を信じているのだ。
だから、ついほろりとだまされもする。
心と言葉は別のものだということはわかっているが、言葉が心の表現であるということを信じてもいる。相手の「心」などわからなくても、「言葉」を深く信じてしまっている。
相手の「心」よりも、「言葉」のほうを信じている。愛されてなんかいないのはわかっていても、「愛しているよ」といわれれば、その言葉のほうを信じてしまう。
愛し合わなくてもいいのさ、「愛しているよ」といえばいいだけさ・・・・・・それが、西洋の男と女の関係の流儀である。人と人は、そういうかたちでしか関係を持つことができない。それは確かにそうなのだ。
西洋人は、「心」なんか信じていない。それは、心と言葉が別のものだということがよくわかっているからだ。別のものである言葉をたくさん持っているというか、そういう言葉の構造になっているからだ。言葉が、心から離れて「意味=規則」として独立している。
しかしやまとことばは、心の動きそのものである要素が濃い。だからわれわれは、「心」を信じようとする。「愛しているよ」と言い合わないで、心そのものを信じようとする。言い換えれば、すべての言葉が心の表現で、「愛しているよ」というような、心から独立した概念的な言葉を持っていない。
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こんなたわごとを並べても誰も読んでくれないだろうな、と思いながら書いています。
とりあえず自分の考えをまとめるための覚え書きのつもりです。
われわれは、「愛する」というような能動性を持っていない。
「他者に気づく」ことが意識の始まり(発生)だと思っているから、愛しようがない。
レヴィナス先生言うところの「始原の遅れ」です。「愛する」という能動性を持つ前に、つねに「(他者に)気づく」という心の動きが先行している。意識は、先験的に他者との関係に浸されてしまっている。したがって、「他者に向かう」という心の動きは起きようがない。
先験的に他者との関係に浸されてしまっている心は、その鬱陶しさを解消するために、関係を解体しようとする。
「意識」とは、ストレスの別名である。
たとえば、まだ四本足で歩いていたころの原初の人類は、密集しすぎた群れの中でたがいの体がぶつかり合う鬱陶しさを体験し、うんざりしていた。そしてその鬱陶しさを解消しようと、あるとき二本の足で立ち上がった。二本の足で立ち上がれば、身体が占めるスペースが縮小し、それによってたがいの体のあいだに「空間」が生まれてぶつかり合わずにすむ。
このめでたさを止揚していったのが直立二足歩行の起源であり、ここに人間性の基礎がある、と僕は思っている。
他者とのあいだに横たわる「空間」を止揚してゆく・・・・・・これが、人間性の基礎ではないだろうか。
すなわち、「体がぶつかり合う」という「関係=コミュニケーション」を解体してゆくこと。われわれは、根源的にそういう衝動を持っているのではないだろうか。
電車の座席で、みんながちょっとずつ体をずらせ合いながらたがいの体がぶつからないようにする。われわれは、本能的にそんな行動をとっている。
密集しつつ、その密集という鬱陶しい関係を解体してたがいの体のあいだに「空間」をつくろうとする。それが人間の本能のようなものではないだろうか。
共同体という鬱陶しい密集状態にあえて身を置きながら、その鬱陶しさが解消されてゆくカタルシスを汲み上げようとする。
内田氏をはじめとする大人たちは、「忙しい、忙しい」と言ってよろこんでいる。また大人でなくとも、そういう鬱陶しさの中に身を置けば、プライベートな時間に恋をしたり気の合う友と酒を飲んだりするよろこびにひとしおのものがある。ストレスがないことを望んでいるのではない。ストレスを味わい尽くして、そこからカタルシスを汲み上げようとする。人間とは、そういうやっかいな生きものらしい。
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他者とコミュニケーションすることは、鬱陶しいことなのだ。相手の気持ちがわかったような気になるなんて、鬱陶しいばかりだ。
言葉は、相手の気持ちがわかったような気になってしまうものであると同時に、その鬱陶しさを解消する、いわば他者とのあいだに横たわる「空間」を確認するためのものでもある。
他者によって語られる言葉は、他者の心の動きの表現であると同時に、他者の心の動きとはべつの独立した機能でもある。
われわれは、他者の心の動きそのものよりも、「言葉」を信じている。他者の心の動きなどわからないのだ。言葉は心の動きとは別のものだから、安心してしゃべれもするし、何もいえなくなってしまったりもする。心の動きの表現でありつつ心とは別のものだからこそ、つい声高になったり饒舌になったりするし、何もいえなくなってしまったりもする。
言葉は、他者とのあいだの「空間」で生成している。
「私」の言葉は、他者に届かない。けっして思いがそのまま伝わるわけではない。他者が勝手にその言葉を聞き理解しているだけだ。他者の理解の上にしか成り立たない。
「私」が「りんご」と言っても、他者がそれを「みかん」のことだと思っていれば、「みかん」という意味にしか伝わらない。それは、伝わらなかったのと同じだ。
相手が外国人なら、言葉にすらならない。
われわれは、言葉を、他者とのあいだに横たわる「空間」に投げ入れているだけである。言葉は、そこで生成している。他者のところまで届けることはけっしてできない。
「私」が言葉を空間に投げ入れ、他者がその、空間から言葉を受け取る。
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たとえば、村と村の境界の峠に品物を置いておくと、相手の村人が来て受け取ってゆく。相手の村まで届けるのではない。「市(いち)」の起源、むかしの「交換」はそんなふうになされていたのであり、これを、人類学では「沈黙交易」というらしい。言葉の根源的な機能も、まあそんなようなことだ。
相手の村まで届けないのは、面倒だからではない。その「交換」という行為は、たがいの「境界という空間」を確認し、祝福するためになされていた。それは、コミュニケーションではない。コミュニケーションしないコミュニケーションなのだ。コミュニケーションを解体しようとする衝動を共有し合う行為なのだ。
「言葉」だって、たがいのあいだの「空間」を確認し祝福する機能として育ってきた。けっして相手に渡さない。渡せない。相手が「受け取る」ということをしてはじめて成り立つ行為。たがいのあいだにコミュニケーションが成り立たない「空間=裂け目」を持つことのよろこびがある。それが、言葉を育ててきた。
原始人は、相手のものが欲しくて「交換」をするようになったのではない。欲しいものは、自分が手に入れられるものだけだった。
子供が、ほかの子のもっているものを奪おうとするのは、手に入れられるものを手に入れようとする衝動だろう。それが相手のものだという意識などない。そしてそれが「奪う」という行為だと気づいたとき、その衝動を解体してゆこうとする。つまり、みずからのうちに他者とくっつき合いたくないという衝動がはたらいていることに目覚める。そうして、「交換」という行為を覚えてゆく。
ままごと、お手玉、おはじき、めんこ、ビーだま、こままわし、そして最近のポケモンカード、怪獣カード、それらはすべて、他者とのあいだの「空間」を確認し祝福してゆく行為にほかならない。そういう「空間」の戯れなのだ。ここに、「交換」という行為の基礎がある。
原始人は「交換」という行為それじたいがしたかったのだ。そこに「利潤」の追求という意識などなかった。
「交換」という行為によって、「利潤の追求」という意識が芽生えてきた。利潤を追求して「交換」をはじめたのではない。相手のものが欲しくなったのではない。たがいに自分のものを差し出し合う、という行為がしたかったのだ。そういうよろこびを発見したのだ。
そして、それこそがまさに言語行為の本質なのだ。
はじめに言葉という行為があった。「意味=規則」は、そのあとに生まれてきた。ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」と同じではないか。
「交換」の起源においては、「利潤」という「意味=規則」は存在しなかった。原始人は「交換」という行為そのものがしたかったのであり、そうやって他者とのあいだに横たわる「空間」を止揚していったのだ。
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「交換」の起源は「贈与と返礼」にある、と内田氏はさかんに繰り返しているのだが、お勉強ができるだけで想像力の貧困な人間はこのていどまでしか考えられない、ということだ。つまり、近代合理主義に冒された脳みそでは、どこまでいっても「贈与と返礼」という「意味=規則」をまさぐるしか能がない。それで、人間性の基礎を全部解説しようとする。その低脳さかげんがむかつく。
彼は、口ではかっこつけたことを言っても、ウィトゲンシュタインがわかっているようなことをいっても、実感として、他者とのあいだに横たわる「空間=裂け目」というものがわかっていない。そんなことくらいは、怪獣カードを見せ合っている子供でも知っているというのに。というか、子供のほうがずっと深くそのことを実感している。子供は、その実感それじたいを生きているのだ。
内田氏によれば、子供とは「人間になりつつある存在」であるのだとか。「大人」こそ「人間」なんだってさ。近代合理主義の思考の枠から一歩も抜け出せないその卑しい脳みそで自分を正当化することばかりしている人のせりふだ。勝手にやってろ。
人間性の基礎(本質)とは、われわれが失ってしまったものであると同時に、われわれの心の奥底になお息づいているものでもある。
人類の歴史は、「交換」が「贈与と返礼」という「意味=規則」性を帯びるようになり「利潤」に目覚めたことによって、「交換」の本質を見失った。
しかしわれわれが「交換=経済」という行為に向かうとき、どこかしらに無意識としてそうした「利潤」とは無縁のところで動いてしまうという本質が息づいている。
経済の動きは、「利潤」という概念だけでは語れない。それが、現在の最先端の経済理論なのだ。
値上がりするはずのものが値下がりし、なんの価値もないと思われていたものが価値を持ってきたりする。そこには、「利潤の追求」の外部の無意識がはたらいている。
人間は、「利潤」を追求しようとする生きものではなく、「交換」しようとする生きものなのだ。どこかしらに、「利潤の追求」とは無縁の、純粋に「交換」しようとする無意識がはたらいているから、「利潤」かぶれした経済評論家を慌てさせる現象が起きてくるのだ。
たとえば、「ジュンク堂」という大きな書店は、8階建てのビルを構えていても、レジは1階の1ヶ所にしかない。そんなことをしたら持ち逃げしてしまう客ばかりになりそうなものだが、みんなおとなしくレジで金を払っている。それが日本人の国民性だから、という解釈だけではまだ足りない。
それは、「峠に品物を置いておく」という原始人の「沈黙交易」でもあるのだ。たしかにそれは日本だから可能なシステムかもしれないが、人間の根源的な「交換」しようとする衝動の上に成り立っている。そのとき客は、持ち逃げするという「利潤の追求」を放棄し、書店のがわも、何がなんでも金を払わせようとする意思表示を断念している。そうやって客も書店のがわも、ひたすら自分のものを「境界という空間」に「差し出している」のだ。その商品は、誰もいない境界の峠に置かれている。
ジュンク堂でお金を払うことは、「自分のものを差し出す」という原始的な「交換」の行為なのだ。サッカー選手が試合後にユニフォームを交換するのと同じ行為で、本質的には、客も書店のがわも、「利潤」のともなわない「交換」をしているのだ。そのシステムは、人間の根源的な「交換」しようとする衝動の上に成り立っている。
日本人は、幼稚で子供っぽい、とよくいわれる。そのとおりだ。しかしだからこそ、そのように、本質的な人間性の基礎の上に成り立ったシステムが可能になるのだ。
内田さん、子供はあなたの言うような「人間になりつつある存在」なのではない。彼らこそ、本格的な「人間」なのだ。あなたは、子供が実践している「交換」の本質に気づいていない。あなたのように「利潤」でしかものを考えることのできない人にはわからない世界の話だ。そんなあなたのような大人こそがまっとうな「人間」であるだなんて、まったく、考えることが意地汚く薄っぺらなのだ。
言葉は、内田氏がいうように「コミュニケーションの道具」として生まれてきたのではない。「コミュニケーションを解体する道具」として生まれてきたのだ。コミュニケーションを解体することが、コミュニケーションの本質なのだ。
言葉は、コミュニケーションを解体する。
「私」が発した言葉の意味は、「あなた」のもとに届かない。「私」と「あなた」のあいだの「空間」に宙吊りになっている。それでも「私」は、「あなた」に向かって語らずにいられない。それは、私自身が、他者の言葉を信じて受け止めるという体験をすでにしているからだ。その体験がなければ、言葉を発することはできない。
失語症とは、他者の言葉を受け止めることができないという病なのだ。言葉や、言葉の発し方を忘れてしまったのではない。受け止めることができないくらい、他者との関係に幽閉されてしまっている病なのだ。コミュニケーションができないのではなく、コミュニケーションを解体することができなくなってしまったから起きるのだ。
たがいに言葉を「空間」に投げ入れる。たがいに「空間」の言葉を受け止める。これが、会話という行為だ。そのとき「私」と「あなた」は、言葉によって引き裂かれた存在になる。たがいの言葉を信じあうその度合のぶんだけ引き裂かれ、言葉を信じあうその度合いの分だけ、引き裂かれてあることを祝福し合っている。
「私」は「あなた」を信じているのではない。「あなたの言葉」を信じているのだ。
峠という境界での沈黙交易のように、「交換」の根源的なかたちは、コミュニケーションしないコミュニケーションにある。他者の身体とのあいだにぶつかりあわない「空間」をつくろうとし、その「空間」を確認し祝福してゆくこと。そこから人類の言葉が生まれ育ってきた。