内田樹という迷惑・くそ暑い

このくそ暑さは、まだまだ続くらしい。
とうぶんは、このくそ暑さを受け入れて生きてゆくしかない。
くそ暑くて、太陽の光がまぶしい。
しかしそうやって世界に気づいていれば、自分が貧しいことも恋人がいないことも忘れていられる。
世界に気づいているとき、人は救われている。
うんざりすることもときめくことも、自分の存在が揺さぶられて、自分を忘れてしまうことだ。自分の存在が揺さぶられて、ほんとに疲れてしまう。
世界や他者に気づくことは、疲れることだ。
疲れ果てて眠りにつけるなら、それは、めでたいことだろう。
しかし、一日中クーラーのきいた快適な部屋で過ごせば、心も体も疲れない。疲れなければ、深い眠りもやってこない。それでいいのか。
夏は滅びの季節である、と言った小説家がいる。
夏のくそ暑さを味わい尽くした老人は、疲れ果てて夏の終わりに死んでしまう。
くそ暑さを避けて暮らした老人が、秋を迎えられる。だがそうやって生き延びることは、ほんとうにめでたいことだろうか。
人間は、疲れなければ、生き延びることができる。それは、めでたいことだろうか。
この世界や他者との関係が快適なものであれば、疲れないですむ。それは、世界や他者に深く気づいていない、ということなのではないだろうか。
「女房なんて、もう空気みたいなものです」と言って女房との暮らしが快適であることを自慢する人がよくいる。そんなようなことだ。
たしかに快適だろうが、まぎれもなくそれは、女房の存在に深く気づいていないことでもある。
そして女房のほうは、ますますうんざりするくらい亭主に深く気づいてゆく。たぶんそうやって、熟年離婚が起きる。
「空気みたいなものです」なんて言っていないで、こちらも幻滅し返したほうがいい。それは、相手の存在に深く気づくという、人間としての誠実な態度なのだ。
そうして疲れ果てて眠りにつき、疲れ果てて死んでゆければいいのだろう。
疲れ果てていないで「自分」のことばかり気になってしまうから、「鬱」になる。
「快適である自分」をまさぐってばかりいると、そのツケはいつかきっとやってくる。そう覚悟しておいたほうがいい。
「こんな日本でよかったね」なんて言っていると、そのツケはいつかきっとやってくる。「こんな女房でよかったね」と思っているうちに女房に逃げられた男はいくらでもいる御時世なのだから、他人事だと思わないほうがいい。。