内田樹という迷惑・言葉の規則

ウィトゲンシュタインは、「言葉の<規則>が先にあって、言葉が生まれてきたのではない。言葉を話す体験(実践)の中から言葉の<規則>が生まれてきたのだ」といった。これを「言語ゲーム」というのだそうです。
確かにそうでしょう。
サッカーというゲームにおいて、ボールを足で蹴るという行為は、<規則>として生まれてきたのか。そうじゃない。みんな足で蹴りあっていたのです。(一説には、しゃれこうべの骸骨を)足で蹴るのが楽しかった。ところがそれをゲームにしていったあるとき、その丸いものを手に持って走り出すやつが出てきた。そこではじめて、足で蹴るだけしかしちゃいけない、という<規則>が生まれた。
言葉だって同じです。「美しい」という言葉が生まれたから、美しいと感じるようになったわけじゃないでしょう。美しいと感じる心の動き(行為)がまずあって、そこから「美しい」という音声が発せられた。「う・つ・く・し・い」という音声が発せられるような心の動き方が、まず体験された。その心の動き方がきわまって、「う・つ・く・し・い」という音声がこぼれ出た。
「美しい」という「意味=規則」が先にあったわけじゃない。そういう心の動きとともに、そういう言葉の発声がまず体験されたのだ。そこから、「美しい」という「意味=規則」がつくられていった。
こんなこと、あたりまえでしょう。何をいまさらあらためていう必要があるのか、と思う。
ところがウィトゲンシュタインのこの説は、西洋の言語学や哲学を根底からくつがえすものであったのだそうです。
変ですよね。こんなことくらい、子供だって知っている。子供は、「おはよう」という言葉の「意味=規則」なんか知らないで、すでに「おはよう」という言葉を覚えてしまっている。
つまりそれまでの西洋人は、人間は「美しい」という言葉を「意味=規則」として持ったから「美しい」と思うようになった、と考えていたらしい。
あほじゃないか、と思う。
美しいと感じたこことのない者が、美しいことの何たるかも知らない人間が、「美しい」という言葉を生み出せるはずがないじゃないですか。
「美しい」という言葉を発する体験がその社会の慣習になってゆき、そこから「美しい」という言葉の「意味=規則」が見出されていったのだ。すくなくとも人類学的には、そういうことでしょう。こんなこと、あたりまえじゃないか。
こんなことが哲学や言語学の大発見のように評価される西洋人思考回路は、まったくどうかしている。
そして、この説の正しさを証明するために、ウィトゲンシュタインは次のように説明した。
「規則が成立するためには、その規則を成立させるためのもうひとつの規則が必要になる。そしてもうひとつの規則を成立させるためにさらにもうひとつの規則が必要になり、けっきょく永久に規則をつくってゆかないと最初の規則は成り立たないことになる。ゆえに、規則が最初にあることは、決定的に不可能である」と。
もっともな御意見であるが、われわれが疑問に思うのは、どうしてそんなことを「証明」しなければならないのか、ということです。ご苦労なこった、と思うばかりです。
「証明」することが学問であり、哲学である・・・・・・というのなら、西洋の学問や哲学はどうかしている。それは、「証明」がないと納得できないことなのか。「証明」されてはじめて納得するなんて、おかしい。
もともとわれわれの誰もが納得していることじゃないですか。三つの子供だって、意味もわからずに「おはよう」と言ってることじゃないですか。
「そういうことなんだよ」といえばいいだけの話じゃないですか。変な「証明」なんかされると、かえって嘘っぽくなってしまう。
「規則」が成立することの不可能性なんか、われわれの知ったこっちゃない。
というか、はじめに「美しい」という感慨があったのだということが、なんの「証明」の助けもなく、まっすぐ認識されるべきだ。「規則=意味」よりも先に言葉それじたいの感慨が体験されたのだということをまっすぐ認識しなければ、言葉の本質に触れたことにならない。
ウィトゲンシュタインのその「証明」は、「言葉に対する考え方」の正しさを証明しているだけであって、言葉の本質を証明しているわけではない。
規則が先に成立することが不可能だから感慨の体験が先にあったのではなく、なにはともあれ感慨の体験が先にあったのだ。ウィトゲンシュタインのその「証明」は、あくまで規則が先に成立することの不可能性を証明しているだけで、感慨=体験が先にあることの証明にはなっていない。
つまり「証明する」という行為の限界がそこにある。それじたい、「証明する」ことの不可能性を示しているのだ。
「証明」によってではなく、その事実に向かってまっすぐ直接的に納得されなければならないのだ。
「証明する」ことが学問だなんて、西洋の学問はおかしい。
「認識」することが学問であり、それは、手でつかむようにまっすぐ直接的に認識されなければならない。
「証明」を否定したら「学問=哲学」にならない、というのなら、われわれはこう問い返したい。哲学を否定することが哲学なのではないか、と。
学問=哲学に必要なのは、「証明」する能力ではなく、手でつかむようにまっすぐ直接的に「認識」する率直さだとわれわれは思っている。どんな大発見だろうと、じつは子供だって知っていることなのだ。というより、子供のほうがよく知っているのだ。
ゲームの規則はゲームによってつくられてゆくのであって、規則がゲームをつくっているのではない。
「美しい」という言葉がこぼれ出るような心の動きがまず体験された。ほんらいそれは、「心の動きのかたち」であって、「規則=意味」ではない。意味なんか知らなくても、「おはよう」という感慨は、子供にだって体験されているのだ。その「心の動きのかたち」を、手でつかむようにまっすぐ直接的に「認識」されなければならない。それが、言葉の本質に気づくという体験なのだ。
「証明」なんかされても、なんの役にも立たない。
「証明」という手続きをしなければならないことの制度性、観念性・・・・・・西洋の言葉および学問は、その上に成り立っている。
ウィトゲンシュタインは、言葉が「規則=意味」から生まれてくることの不可能性を証明してみせてくれたが、言葉の本質を教えてくれてはいない。
彼は、「他者」との関係の本質を「教える=学ぶ」の関係だといい、そのコミュニケーションの不可能性の中で「命がけのジャンプ」をしてゆくことだと言っている。つまり、この偉大な哲学者においてさえ、まだ「コミュニケーションの成立」が信じられている。
それは、人間の「交換」という行為に向かう契機は「利潤」を生み出すことにある、と言っているのと同じなのだ。
根源的には、交換から利潤は生まれないし、利潤を求めて交換するのでもない。
根源的には、言葉は何も伝えようとしないし、何も伝わらない。「命がけのジャンプ」なんかしようとしないし、していない。
そのとき心なんか伝わらないし、伝えようともしていない。たがいのあいだの「空間」で、言葉が共有されているだけだ。「空間」が共有されているだけだ。
言葉の「意味=規則」なんか伝えない。「意味=規則」が、互いのあいだに横たわる「空間」において共有されているだけだ。
何も伝えない。ひたすら伝えることのできない「空間」を共有し合うこと、それが「交換」という行為だ。
コミュニケーションできないことしないことこそ、人間性の基礎なのだ。
「あなた」と「私」のあいだにはコミュニケーションが不可能な「空間」が横たわっている。その安堵とよろこび。これが直立二足歩行のコンセプトであり、その安堵とよろこびがあれば、人殺しをしないでもすむ。
それなのに、西洋の近代合理主義は、「コミュニケーションの成立」こそ人間性の基礎であり正義であるかのように言い立ててくる。
そんなもの、くだらないと思う。
「コミュニケーションの成立」という幻想。それが、この世の中を住みにくくしている。
われわれは、そんな幻想の正義など、くだらないと思う。
時間がないから、とりあえず今日はそう言っておきます。