内田樹という迷惑・こんな日本で・・・・・・?

落語人気が衰退したのではない、落語が衰退したのだ、落語家の顔がみな下品になってしまった。
桂三枝は、ブ男ではない。若いころ、けっこうハンサムだった。ところが、年を取るほどに下品になっていった。
それに比べて、むかしの落語家は、年を取れば取るほど顔に品と色気が出てきた。
三遊亭円生はもちろん顔のつくりそのものが端正だったのだが、それにしても、ハンサムだったはずの桂三枝が、なぜあのような品と色気を備えてゆくことができなかったのか。
そういう世の中になってしまったからだろうか。
落語にたいする情熱とか、そんなことじゃない。人間としての品性の問題なのだ。
品と色気のある大人がいない世の中になってしまった。
古今亭志ん生はへちゃむくれだったが、それでも円生に負けないくらいの品と色気を備えていた。
高座に座っている姿が、とてもおしゃれ(粋)だった。おどけていても媚びていない心意気を感じさせた。姿そのものから滲み出る、そのちょっとやけっぱちのようなかっこよさは、独特だった。語り口も、客に媚びて笑わせるというものではなかった。おどけ方に、やけっぱちの小気味よさがあった。
われわれは、大病をしてヨイヨイになった晩年の志ん生が高座に上がると、喜んで聞きにいった。ろれつがまわらなくてもう何をいってるのかよくわからないくらいなのだが、どうせ話の筋なんかわかっている。ツボにくれば、みんな笑った。志ん生がいなくなると落語が滅びる、と思いながら笑っていた。
志ん朝、談志の世代までかな。
志ん朝とともに、落語の色気が滅びた。そして談志がいなくなると、「江戸の心意気」が滅んでしまう。だから、談志には、ただの招き猫になってもいいから、高座に上がっていて欲しいと思う。志ん生のように、ただそこにいてくれるだけでいいと客に思わせることのできる落語家は、談志がたぶん最後だろう。
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内田氏の考えることは、ほんとに下品で醜悪だと思う。
最新刊のタイトルが「こんな日本でよかったね」だそうです。
いやらしいネーミングだ。このタイトルだけで、胸くそ悪くなってしまう。
こんな呼びかけをされて喜んでいるあなた、ほんとにそれでいいの?
あなたは、内田氏と同じようなゲスな人間になってでも、「こんな日本でよかったね」という言葉にうなずけるくらい、この社会の甘い汁を吸って生きていきたいのか。
それにしても、思想哲学を語る人が、よくこんないやらしいせりふが吐けるものだ。
じゃあ、日本じゃなかったら、よくないのか。タイヤベトナムや中国や朝鮮やネパールやインドやアフガニスタンやトルコやエチオピアセネガルルワンダブルガリアデンマークやドイツやフランスやスエーデンやノルウェーやイギリスやスペインやアメリカやカナダやメキシコやコロンビアやブラジルやペルーやチリやアルゼンチンやオーストラリアやニュージーランドだったらよくないのか?
よかったか悪かったかなんて、おまえが勝手に決めるな。
どんな国の国民でも、みずからの国に対する愛着は持っている。彼らの愛着はただの幻想だといいたいのか。
「こんな日本でよかったね」という言い方が成り立つのなら、北朝鮮人による「こんな北朝鮮でよかったね」、という言い方にもそれなりの必然性と深い実感はこもっているのだ。彼らがそう思うのは彼らの勝手だし、彼らには彼らなりの、われわれが体験することのできない人生の味わいを持っている。
世界は、すべてが輝いている。貧しい国も戦争をしている国も輝いているのだ。
内田さん、自分のそのくだらない価値意識を、少しは恥ずかしいと思えよ。
現代の日本の情況がいいか悪いかなんて、あなたになんか決められたくないし、「よかったね」と決めるその根性が下品なのだ。
平和であるから戦争をしている国よりいいとか、豊かであるから貧しい国よりいいとか、どうしてそんな卑しい価値意識で物事を判断しようとするのか。
われわれは、彼らより幸せでも不幸でもない。だれの人生が幸せで不幸かなんて、おまえごときゲス野郎が決めるなよ。どんな人生もどんな国も、同じだけくだらないし、同じだけ大切でめでたいのだ。
この世の中には、「こんな日本でよかった」と思える人と思えない人がいる。この日本は、「よかった」と思える人のものなのか。思えない人は、この日本で暮らしたらいけないのか。
こんな日本なんか最悪だと思って自殺してしまう人はいくらでもいる。そういう人のそんな気持より、おまえらの「こんな日本でよかったね」という思いのほうが上等なのか?思い上がるのもいいかげんにしろ。
すくなくとも、若者が不平不満を持つのは、それなりに健康な態度だと僕は思っている。「こんな日本でよかったね」などと言いたがるふやけた大人よりもずっとすてきだ。
大人は、若者の不平不満を奪うべきではない。その「孤立性」は、貴重だ。なぜなら、「孤立性」を共有し合うことこそ、人間性の基礎であるからだ。
電車の中で、おたがいの体がくっ付きあわないようにちょっとずつ座っている場所をずらす。それは、おたがいの「孤立性」を共有し合おうとする態度なのだよ。
ところが内田氏は、「こんな日本でよかったね」といいながら、若者のそうした「孤立性」を奪いにかかっている。
君たち、ほんとにそれでいいの?自分が今かかえているその「ひりひりした気分」を、あんなゲスな大人に売り渡してしまっていいのかい?
ほんの小さな挫折で、この世界のすべてに絶望してしまう人もいる。孤立して絶望する、というひりひりした心の動きの美しさもあれば、「こんな日本でよかったね」などとほざいているふやけた心のみすぼらしさも、それはそれでじつにみっともない。
思想家(あるいは哲学者)を自認する人が、こんなにも程度の低い世界観でこんなにも見え透いた媚を売るかなあ。
要するに、内田氏の言うことも顔つきそのものも、「品と色気」がないのだ。
品(=心意気)と色気がなくても、上手に媚を売る芸人や芸人みたいな哲学者がもてはやされる世の中になってしまった。
媚を売って他人をたらしこもうなんて、ゲスな人間のすることだ。それは、人殺しよりももっと醜い態度だ・・・・・・と僕は、死んだ父親から教えられた。
なにが、「こんな日本でよかったね」だ。