内田樹という迷惑・白熊に未来はあるか

地球温暖化のせいで北極の氷が薄くなり、白熊の生息域が脅かされている、という。
そうか、白熊も大変だなあ、と思う。
しかし、だからといって、白熊の保護がどうとかこうとかという問題を叫ばれても、いまいちぴんとこない。
誰だって、生きてゆくのは大変だ。白熊の生息域が脅かされていることも、孤独な一人暮らしの老人が狭いアパートの一室で死んでゆくことも、どちらも同じだけしんどいことだろう。
たったひとつの失恋で、もう生きてゆけないと思う人だっている。それが、白熊の置かれた情況より悲惨ではないといえる権利は、誰にもない。
しんどい生き方をしているからといって、誰を恨むわけにもいかない。生きものであるのなら、事態が改善される未来まで生きている保証は、誰にもないのだ。
どんなにしんどい生き方をしていようと、「今ここ」を受け入れ、「今ここ」を味わい尽くすことでしか、生きるかたちにはならない。
われわれだって、薄い氷の上を生きているようなものだ。誰だって、残された時間は、ほんのわずかなのだ。そうして、残されている時間などない、と覚悟してしまえば、「今ここ」にしか生存のかたちはない、と気づくしかない。
内田氏は、自分の人生の未来を妄想せよとほざきまくっているが、未来など一切当てにせず、今ここをせいいっぱい生きることはくだらないことなのか。われわれは、未来を妄想ばかりしているスケベったらしい人間より、未来など当てにせず今ここをせいいっぱい生きている人を尊敬する。
白熊は、誰も恨んでなんかいない。それが自分に与えられたこの生の条件である、と受け入れている。同様に、ひとりぼっちで狭いアパートに暮らす老人だって、その条件を疑うことなく受け入れている人もいる。というか、彼らの誰もが、どこかしらで受け入れている。生きものの心の動きは、そのようにできている。
誰も、晴れた空を見上げて、雨が降っているとは思わない。この世界に気づくことは、この世界を受け入れることだ。それが、「認識」という意識のはたらきのもっとも根本的なかたちであろう。そのようにして、誰もがみずからの生の条件を受け入れている。うんざりしながら、どこかで受け入れている。
今ここをせいいっぱい生きればいいだけさ。今ここを味わい尽くす心の動きがあればいいだけさ。
何が「未来の自分」か。未来の自分のことは、未来の自分に任せるしかない。そんなことより、今ここの目の前にいる「あなた」の存在に驚きときめくという直接的な体験のほうがずっと貴重で根源的であるにちがいない。
あなたが美しいからときめくのではない。目の前にあなたが存在するということそれじたいがこの世界の奇跡として、私の心を揺さぶる。
太平洋の真っ只中を泳ぐ一匹のオスのウミガメが、あるときもう一匹のメスのウミガメと出会えば、彼はもう相手が美人かどうかということなど忖度しないだろう。そういう「孤立性」をそなえた人たちや白熊やウミガメのほうが、内田樹とかいうニヒルなインポ野郎より、ずっと尊敬に値する。