やまとことばという日本語・正月と桜「3」

桜の花の下に立つと、別の世界に迷い込んだような心地がする。
極楽浄土、といってもいい。
極楽浄土は、あの世にあるのではなく、この世のいまここにあるらしい。
この世界が裂けて、そのすきまからもうひとつの世界があらわれる……咲き満ちる桜の花は、そんなふうにしてわれわれの前に姿をあらわす。
この世界を「裂く」花々だから、「さくら」というのだろうか。「さくら」の「ら」は、「集合」の語義。
いや、それは、深読みのしすぎだ。単純に花がいっぱい咲いているから「さくら」といっただけのこと。しかし古代人だって、その咲き満ちる花群れを眺めながら、きっと別の世界に迷い込んだような心地になったにちがいない。
極楽浄土は、いまここの裂け目の向こうにある。大陸から仏教が入ってくる前の古代人は、あの世なんか「ない」と思っていた。あの世には、「黄泉(よみ)の国」というわけのわからない闇が広がっているだけだ、と思っていた。それは、「あの世なんかない」と思っているのと同じだ。
四方を海に囲まれた孤島に暮らしながら、水平線の向こうは「何もない」と思っていた。
古代の日本列島の住民が「黄泉の国」のイメージを持っていたということは、「永遠」などというものはない、と思っていたことを意味する。水平線の向こうは何もない、死後の世界もない、と。
「世界」は、「いまここ」にだけある……と古代人は思っていた。
だからこそ、いまここに桜の花群れが現出することに対する驚きやときめきがいっそう深いものになる。
桜の花の下に立ったときの別の世界に迷い込んだような心地は、「永遠」という概念に惑わされているわれわれ現代人よりも、古代人のほうがずっと鮮やかで深いものであったことだろう。
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古代人は、「永遠」などというものを信じていなかった。だからこそ、「今ここ」が裂けて別の世界が現出する鮮やかさを深く体験しながら暮らしていた。
やまとことばの「さ」には、「裂く」という意味が含まれている。「さあ」と首をかしげるとき、裂け目の向こうの別の世界に取り残されているような心地を表出している。「さ、さ」と出した料理をすすめたりせかせたりするのは、遠慮の気持ちや緊張を裂いて別のリラックスした気持ちになることをうながしている。
古代人は、「永遠」などというものを信じることなく、この世界の「裂け目=すきま」を臨みながら暮らしていた。いまここに極楽浄土を見つけて暮らしていた。それが、日本列島の歴史に流れる桜の花に対する感慨の水脈だ。
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万葉学の権威である中西進氏は、古代人は「永遠」という概念をあたためて生きていた、といっています。そこに万葉集の味わいがある、と。
折口信夫だって、「とこよ=常世」とは海の向こうの「永遠の楽土」であるといっているくらいで、古代の文学の研究者はみな、古代人の素朴で率直な心の動きは「永遠」を素直に信じているところにある、と思っているらしい。
くだらない。そんなものは、現代人のただのスケベ根性じゃないですか。
現代人のほうがずっと迷信深いのですよ。
迷信は、共同体の制度に浸された心の動きから生まれてくる。
それはまあいい、とにかく古代人は、死んだら「黄泉の国」に行くだけだ、海の向こうは何もない、と思っていたのです。そこのところは譲れない。そんな人びとが、どうして「永遠」などという概念にしがみつかねばならないのですか。
「たまきはる」ということばがある。「命」「世」などにかかるまくらことばで、万葉集によく出てくる。
「たま」は魂、「きはる」は「極まる」という意味であるのだとか。
で、中西氏はこれを、「魂の永遠性」と説明してくれている。そこに、万葉人の率直でのびやかな心の動きがあるのだそうです。
そうだろうか。僕は、そんないじましいスケベ根性を、率直でのびやかな心の動きだとは思わない。
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万葉集では、「魂(たましい)」のことを「たま」といっていた。それはたしかにそうでしょう。しかし、「たま」の語源が「魂(たましい)」だというのでは安直過ぎる。「たま」ということばは、たぶん万葉集のころよりずっと前からあった。「たま」のことを「魂」といったのは万葉人だろうが、万葉人が「たま」ということばを生み出したのではない。
もしも「たま」という言葉が縄文時代にもあったとしたら、彼らは「魂」のことをそういっていたのだろうか。縄文人にも、「魂」という概念があったのだろうか。
縄文人もヒスイの丸い「たま」を首飾りにしたりしていた。神に供えたりもしていたかもしれない。月や太陽のかたちを模倣して丸くしたのだろう。それはかれらにとって貴重で美しいかたちであったにちがいなかろうが、それが「魂」のかたちだと思っていたのかどうかはわからない。
「魂」って、いったい何なのですか。僕には、さっぱりわからない。
はじめに「たま」という音声がこぼれ出る感慨があった。それが、「たま」の語源でしょう。
「た」は「立つ」の「た」、「実現」「成立」の語義。「た」という音声は、すっきりと体から離れ立ち上がるような気配がある。「た」と発声するとき、体の中がたてに芯が入ったような心地がする。
「ま」は「充足」の語義。「間=あいだ」の「ま」。日本列島では、「外」は海ばかりで何もないから、「間(ま)」に「充足=実質」がある。生きているいまここという「間(ま)」。このことばひとつ取っても、古代人が「永遠」などという外部に執着していたわけではないことがわかる。
「たま」とは、充足を得ること。「快楽」。「感動」。たぶん、それが語源だ。「魂(たましい)」なんてわけのわからないものの名称だったのではない。
縄文人の年増の女が、若い女に向かって、「あんたもやっと<たま>をもてるようになったみたいだね」というときの「たま」とは、「オルガスムス」のこと。
この生がいまここで完結しているという感慨から、「たま」ということばがこぼれ出る。
円形は、完結のかたち、だから「たま」という。語源においては、「魂」なんか関係ない。
中西先生、古代人は、「永遠」よりも「完結」というかたちを大切にして生きていたのですよ。「永遠」などという途方もないものより、小さくて丸いものの完結性こそ大事だったのですよ。
あなただって、やっぱりただの俗物だ。
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したがって「たまきはる」とは、無上の快楽を得るとか、深く納得(感動)するとか、世界はここにおいて完結しているとか、そういう感慨のことばだったはずです。「永遠」なんか関係ない。
「きはる」の「き」は、「切る」の「き」。「き」と発声するとき、息と声がぷつんと切り離されるような心地がする。原初の人類は、何かが「切れる」ことに対する心の動きから「き」という音声を発したにちがいない。
ひらがなには、すべてもとになる漢字がある。同じように、やまとことばの一音一音にも、すべてもとになる動詞が隠されているはずです。
「き」=「切る」、「さ」=「裂く」、というように。
「は」は、「空間」、「切る」ことによって生まれた空間だから「裂け目」です。
「る」は、動詞のしっぽ。「完了」の語義。
「きはる」とは、この世界の裂け目を見ること。そうやって古代人は、何かを悟り、感動して生きていた。ようするに、「たまきはる」とは、「感極まる」ということです。そしてそれは、「いまここ」の裂け目(すきま)において体験される。「永遠」に抱かれる体験なんぞではない。
「きはる」とは「いまここの裂け目」のことであって、「永遠」のことではない。
「いまここ」で「極まる」のだ。それこそが日本列島の伝統的な感性であって、何が「永遠」なものか。
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万葉集の女の恋歌です。
直(ただ)に逢ひて見てばのみこそ たまきはる命に向かふ わが恋止(や)まめ
「直(ただ)に逢ひて見てばのみこそ」とは、「ただ一回セックスしただけなのに」という意味なのだとか。
その「一回性」と「たまきはる命」の永遠性との対比を歌っているのだと中西氏はいうわけで、何かもっともらしい説明だが、女が恋にのめりこむことは、そんな「永遠性」と手を結ぶことでしょうか。
そんなふうに「永遠」という時間に漂っていられるのなら、くるおしくもなんともない。
「いまここ」のどうしようもないいたたまれなさを「たまきはる命」というのではないのですか。
「いまここ」の裂け目に入ってしまって、日々の暮らしのもろもろのことなんかもうどうでもよくて、あなたがいとしいということ以外に何も考えられなくなってしまっている、そんな「たまきはる命」の状態から抜け出せなくなっているから「わが恋止まめ」と歌っているのではないのですか。
中西先生、あなたは「たまきはる命に向かふ」の「向かふ」ということばの姿が見えていない。それは、「入ってゆく」という意味だ。「永遠」なんぞに向かって雲散霧消してしまう心の動きではない。
やまとことばでは、「遠くに向かう」心は、すべて「消えてゆく」というかたちの感慨になっているのです。水平線の向こうは何もない、と思うように。死んだら「黄泉の国」しかない、と思うように。
「入ってゆく」から、「わが恋止まめ」という心が、鮮やかにくるおしく現出するのです。
永遠を夢見る恋心だなんて、安手のメロドラマじゃあるまいし。
この歌を評して、「このかぎりない生命へのいのりが万葉の叙情の根幹である」だなんて、笑わせてくれる。
われわれは、桜の花に「永遠の再生」を託しているのではない、ただもう「いまここ」の裂け目に別の世界が現れ出たことを祝福しているだけだ。
誰かが「沢山からながれきた言葉おやすみなさい」といっていたが、僕だって、学者どもに汚されもみくちゃにされてしまった言葉のあれこれを救い出したいと願っている。