やまとことばという日本語・万葉の恋「4」

折口信夫中沢新一氏は、文学の起源は「なぞなぞ」のことば遊びにある、といっています。
彼らにとって文学とは、他人をたらしこむことであるらしい。そんなことばかり考えて生きているやつらが、そんなことをいう。
まったく、何を下司なことをいってやがる、と思う。
とはいえ、文学とは何かと聞かれたら、僕などよくわからないのですけどね。
文字のない時代にも、たぶん文学はあった。
人間は、感極まってことばという音声を発する体験をする。仮にそれを文学の起源とするなら、それはもう、言葉の発生の問題です。
そしてそんな体験のもっともラディカルでダイナミックなかたちは、恋愛であるはずです。
だったら、恋愛(恋の歌)こそ文学の起源であるにちがいない。
たぶん、縄文人だって、そういう恋の歌を歌っていたのだ。
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恋とは、「世界=あなた」に心を奪われて、胸がきゅんとなる体験。
折口信夫は「古代人の<恋(こ)ひ>は<魂(たま)乞(こ)ひ>であった」といっているが、そうじゃない、それは、心(=魂)を奪われる体験なのだ。乞うてなんかいない。乞う余裕もないくらい心細くなってしまうから、「恋振(こふ)る」といったのだ。古代人は誰もがそういう恋をしていたのであって、他人をたらしこもうとたくらんでばかりいる現代人が、他人の「魂=心」を乞いたがるだけのことさ。
現代人は、相手の心(=魂)を所有したがる。相手の心(=魂)を所有することが「恋」だと思っている。一緒にいると、人は、相手の心(=魂)を所有したくなる。
しかし日本列島の古代においては、男と女がいつも一緒にいるという社会の構造にはなっていなかった。彼らは、男と女がいつも一緒にいることを大切なことだとは思っていなかった。「通い婚」、男と女は一緒に暮らすのではなく、夫婦になっても男はそのつど女の家に逢いに行くということをしていた。
彼らは、「魂(たま)乞ふ」ことよりも、「逢いたい」という気持ちを大切にしていた。ただもう「逢いたい」と思うことが、彼らの「恋」だった。
「あいつとおまんこやりてえ」と思うことでもいいですよ。「魂(たま)乞ふ」などというスケベったらしい心の動きより、そちらのほうがずっと清純だと思う。
それが、万葉の恋の歌だった。
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山の端(は)にあぢ群(むら)騒ぎ行くなれど われはさぶしゑ 君にしあらねば(万葉集・巻4,486)
訳「アジガモの群れが山のほとりを騒ぎながら飛んでゆくれども、わたしはさびしい、あなたではないので」
この歌を、万葉学の権威である中西進氏は、こう解説してくれます。
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ここでわれわれがとまどう点は、「君にしあらねば」という言い方であろう。あれはカモであって、恋人ではない、という対比のさせ方を、われわれは通常しないからである。「空にカモが群れ飛ぶが恋人はいない」……「君しあらねば」とこそいえ、「君にしあらねば」とはいわない。にもかかわらずこのようにうたうのは、カモと人間の区別がはっきりしないからである。とくに鳥は人間の死後霊と考えられることもあったから、両者は分明に区別される必要がなかったであろう。こうした自然と人情の溶解はもちろん恋歌だけの特色ではない。認識全般の傾向ではあったが、とりわけ恋愛感情にとって強い傾向であったといえるだろう。
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ほんとにもう、何をくだらないことをいっているのだろう、と思う。
原始人や古代人は、自然に溶けて自然の一部として生きていた、というステレオタイプな思考。現代のほとんどの知識人が、平気でそんなふうにいっている。
あなたたちの考えることは、薄っぺらだ。
古代人は、男と女が一緒に暮らすということをしていなかった。それは、われわれよりずっと男と女の違いを意識していた、ということです。
古代人のほうが、人間と自然との違いを強く意識していたのです。だから、自然を「神」として、「神」という概念が生まれてきたのです。だから、「自然=神」を畏れたのです。それは、自然に対する「疎外感」なのです。古代人のほうが、自然に対する疎外感も、男の女に対する疎外感も、女の男に対する疎外感も、われわれ現代人よりずっと深かったのです。そこで彼らは、「恋」をしていたのです。
何をばかなことをいっているのだろう。
世界中のほとんどの神話が、<原初において世界は「混沌」であった>とうたっているのは、古代人だって、われわれは自然から切り離されることによって人間になった、と思っていたということを意味するのであって、彼らがみずからを自然の一部だと思っていたからではないのです。われわれはもはや自然の一部ではない、という思いがあったから、「原初において世界は混沌であった」といったのです。そういう自然に対する疎外感は、自然を支配することに躍起になっているわれわれ現代人より、ずっと切実だったのです。
人と人との疎外感だって、われわれよりずっと切実だったから、仲良くしようとして、直立二足歩行をはじめ、地球の隅々まで拡散していったのです。
くだらないことばかりいってんじゃないよ、おめえら……これは、僕の、この世に残す遺言です。
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赤ん坊が、「おぎゃあ」と泣いてこの世に生まれてくる。それは、この世界には何もない「空間」というものがあって、自分はこの世界から切り離されてしまった、と思い知る体験です。だから、その恐怖と不安で「おぎゃあ」と泣くのです。
むかし僕の友人が、そのとき赤ん坊が「おぎゃあ」と泣くのは、そのとき共同体の制度の網をかぶせられて世界と自分の区別がなくなってしまうからだ、といっていました。ソシュールも、そんなようなことをいっているのだそうです。だから、区別をするためにことばを覚えてゆくのだそうです。
ばかなことをいってやがる。おめえらが制度的であるのは、おめえらがそういうことを選択して生きてきたらだ。何を恨みがましい言い訳してやがる。
赤ん坊は成長するにつれて、世界と自分との区別に気づいてゆく。原初の人類は、世界と自分との区別がついていなかった……たいていの知識人がそんなくだらないことをいっている。
中西氏の上の説明も、そういう俗説の上に成り立っている。
生まれた瞬間に、共同体の制度もくそもあるものか。
そういう網をかぶせられるから、自分と世界の区別がつかなくて、その区別をするためにことばを覚えてゆくのだなんて、ことばによって区別に気づいてゆくのだなんて、じゃあどうしてことばを覚えられるのか、という話です。世界と自分との区別がついていないものが、ことばを覚えられるのか、という話です。
世界=自然と自分との区別がついているから、すでにそういう「疎外感」をもってしまっているから、ことばを覚えてゆくのだ。
世界=自然に対する疎外感のないものが、世界=自然に対して、いったいどんな感慨を持つことができるというのか。その感慨なしに、いったいどんなことばを覚えられるというのか。
おめえらみたいに、生きることや人との関係はただの「手続き」であり「技術の問題」だと思っているやつが、そんなくだらないことを考えるのだ。
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「あれはタンクローリーでこれはミキサー車で……」と子供は、われわれがかなわないくらい車の名前をよく知っている。それは、われわれよりもそれぞれの「区別」が明確になっているからでしょう。その直前に彼らが自動車のことを何でも「ぶーぶー」といっていたのは、自動車と自動車ではないものの区別を明確に感じていたからだ。
人は、「違い」に気づくことによってことばを覚えるのであって、ことばによって違いに気づくのではない。
ことばは「差異化」するのではない。すでに「差異化」され、対象との固有の関係が切り結ばれるところから生まれてくるのだ。
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空を飛ぶカモのことを「君にしあらねば」という言い方くらい、現代人だってしますよ。
たとえば、「あいつは猿みたいなやつだ」というのと、「あいつは猿だ」、というのとの違いのようなものです。
「あいつは猿だ」というような言い方くらい、われわれだってするでしょう。
だからといって、猿と人間の区別がついていないわけではない。そういったほうが「猿みたい」ということをより強調できるからだ。その表現はむしろ、猿と人間はちがうということが合意されていることの上に成り立っている。ちがうとわかっているからこそ、「あいつは猿だ」と言い放ってしまいたくなる。
それは、ただたんに「猿みたいだ」というより、たとえば猿のように身軽だということの「暗喩」なのです。そして。「……みたいだ」という「直喩」よりも、そういう「暗喩」こそ、古代人の得意な表現だったのです。
「暗喩」のほうが本能的で率直な表現であり、「……みたいだ」という「直喩」のほうが、じつは現代的で技巧的なのです。村上春樹の小説なんか、「まるで……のような」という「直喩」のオンパレードじゃないですか。
上の歌で表現されている「違い」は、「カモは人間ではない」ということではない。
そんな単純なことではないのですよ、中西先生。そんな違いくらい、むしろ古代人のほうがずっと感じていたことなのですよ。
ここで表現されている「違い=暗喩」とは、すなわち「出逢い」のことです。
山の向こうにカモが鳴きながら群れて飛んでいれば、誰だって心が動いてふとそちらのほうを見上げるでしょう。
それは、ひとつの「出逢い」の体験です。
しかしそれは、あくまで「カモとの出逢い」であって、「あなたとの出逢い」ではない。そんな体験をしてしまうことで、よけいにあなたに逢えない「さびしさ」が募ってしまう。作者は、そう訴えているのだ。
古代人は、現代人のごときスケベったらしい「魂(たま)乞ひ」の恋なんかしていなかった。ひたすら「あなたに逢いたい」という思いを募らせて恋をしていた。
われわれは、上の歌から、そういうやるせない心の動きを知らされる。
カモと人間の区別が希薄だったとか、そんなことが上の歌のやるせなさですか。ああ、くだらない。人を甘く見るのもいいかげんにしろ。