祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 4

相手のことが気に入っているのならセックスすればいいだけなのだが、人間は、そのほかに「恋」という心のやり取りをする。
そして恋という心のやり取りをするようになったから、一年中発情している生きものにもなった。
「もの」と「こと」とは、まあそんなようなことでもある。
心のやり取りをすることは、「こと」が起きるということだ。
そして心のやり取りをする生きものになったから、いろいろやっかいな人間関係も生まれてきて、あげくに精神を病んだりもする。
とかく人の世は、ややこしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中西進氏は、明治以前の日本人は自然の森羅万象のことを総称して「もの」といっていた、という。だから古代人は自然と一体化していた、という。
「自然と一体化していた」とは、どういうことでしょう。
腹が減ったら、うっとうしい。うっとうしいと感じることは、自然と一体化していることです。うっとうしいから、生きものはものを食おうとする。その感覚が起きてこなければ、ライオンも猿もカブトムシも、ものを食おうとなんかしない。食うことなんか、めんどくさいだけなのだから。
だからトラなんか、一度にたくさん食って10日くらい何も食わないですごすこともある。
それがトラの生き延びるための戦略である、などと俗物の動物学者がもっともらしく説明してくれる。
そうかなあ。食うのがめんどくさいだけなんじゃないの。僕だって、そんなふうにできるのなら、そんなふうにして生きていたいものだと思う。
トラは、食うことをめんどくさがるから、絶滅危惧種になってしまったんじゃないの。
生き延びようとしていつも食うことにがんばっていられる生きものであるのなら、つよいんだから、そうかんたんには滅びないだろう。
それは、生き延びる戦略じゃない。食うことがめんどくさいからだ。僕はそう思う。やつらは、すでに自然から逸脱してしまっている。逸脱してあることの心地よさを知っている。腹が減っていない状態の心地よさを知ってしまったから、あんな横着な食い方生き方をする生きものになってしまったのだ。
それに対して、現代社会の人間は、しょっちゅうものを食っている。それはきっと、生き延びようとする意欲が旺盛で、けんめいに「生きる」ということの「自然」と一体化しようとがんばっているからだ。というか、そんなことをあたりまえのようにできるということは、すでに一体化してしまっている、ということかもしれない。
トラよりも、現代人のほうが、よほど自然と一体化している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういうのを、「平和現象」というのだろうか。
むかしの人は、そんなにいつも、そんなにたくさんものを食わなかった。
それは、現代人ほど生き延びようとする意欲が旺盛ではなかったし、現代人よりもっと生きるという自然から逸脱していた、ということだ。
病気になったら、病院に行ってかならず薬をもらわないといけない、と思う。それは、それほどに身体という自然に閉じ込められているからだ。それほどに病気という自然から逸脱してゆくことができていないのだ。
自然とは、「生老病死」のことですよ。病気は、「自然」なのだ。現代人と違って古代人がそういうことにあまりとらわれないで生きていたとしたら、それは、それほどに自然から逸脱して生きていたということです。
現代人は、痛いとか暑いとか寒いとか空腹ということに耐えられない。とくに男はそうだ。男は、心が自然に幽閉されてしまっている。そういうかたちで自然と一体化してしまっている。
内田樹という鈍くさい運動オンチの大学教授が、飽きもせず身体という自然に耽溺するような「身体論」を書きつづけているのも、そういう愚かな「平和現象」のひとつだろう。
身体を上手に動かせるものは、身体に耽溺していない。身体を「もの」ではなく、「空間」として扱っている。そういうことを、内田先生はよくわかっていない。自分の鈍くささが、自然と一体化してしまうその平和ボケした観念の傾向に由来しているということに気づいていない。一体化すれば、もっとうまく体が動くと思っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
女があんがい痛みに平気なのは、それほどに身体という自然から逸脱してしまっているからであり、それほどにみずからの身体という自然を呪っているからだ。女は、体を動かすときは自然に幽閉され、痛みに対しては、男よりもはるかに身体という自然から逸脱することができている。
身体を「もの」ではなく「空間」として扱う。その「荒唐無稽」の上にこの生は成り立っている。
トラの生は、10日間何も食わないでも生きてゆけるという、その荒唐無稽の上に成り立っている。
この生は、自然から逸脱してゆくという荒唐無稽の上に成り立っている。
少なくとも古代人の生は、自然から逸脱してゆくという荒唐無稽の上に成り立っていた。
何が「古代人は自然と一体化していた」か。そんなものは、現代人の精神病理なのだ。
古代人は、みずからの身体が自然の一部であることをちゃんとなげいていた。そうして自然から逸脱してゆくことを、みずからの生のかたちとしていた。
だから、いまどきの人間のように、たかが「インフルエンザ」くらいで大騒ぎしなかった。それで集落の人口が激減することがよくあったとしても、それは、自然と一体化していたからではなく、それほどに自然から逸脱して生きていたからだ。
古代人は、宗教の儀式などで、誰もが火の上を裸足で歩くことができたりした。それを、集団催眠とかなんとか、そんなことばで現代の知識人は説明したがるが、それだって、心が自然から逸脱してゆくことができるというひとつの「荒唐無稽」だったわけで、べつに集団で気が狂ったのではない。
心が自然から逸脱してみずからの身体をあくまで「空間」として扱うことができたら、きっとそんなことも可能だろう。
それを、「自然と一体化していた」というようなセンチでステレオタイプな解釈ですませたり、オカルトかなんかのように決め付けたがるのは、考えることの程度が低いからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代人は、自然と一体化してあることを苦痛と感じていた。そんなことは、あたりまえだ。空腹や厚さ寒さをはじめとして、生きてあれば必ずやってくる苦痛が心地いいはずがない。
人間が家を建ててその中で暮らす生きものだということは、それほどに自然から逸脱しているということを意味する。
縄文人だって、家を建てて暮らしていたのだ。
この世界に、自然と一体化している生き物なんかいない。生き物が「動く」ということは、自然から逸脱してゆく行為なのだ。
げんみつにいえば、生きものにとって自然と一体化して生きてあることは、とてもうっとうしいことであり、だから縄文人だって家を建てて暮らしていたのだ。
外敵から身を守るとか、そんなこと以前に、自然に対する疎外感がこの生の根源にあるからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代人が自然の森羅万象のことを「もの」といっていたとしても、それは、「自然と一体化していた」からではない。一体化してある状態がうっとうしかったからであり、そういう自然に対する疎外感から「もの」ということばが生まれてきたのだ。
「もの」の「も」は、「藻(も)」の「も」。水の中で重苦しく揺らめいているもの。ぐずぐずして重苦しい気持ちから、「も」という音声がこぼれ出る。
「持つ」も「盛る」も「森」も、すべて重苦しい状態を表している。
「子守り」の「もり」だって、重苦しくしんどい仕事だったからだ。むかしは、そういう仕事は体力のない幼い女の子がやらされることが多かったし、たとえ大人がしても、背中でぐずぐず泣かれたら、誰だって気が滅入ってしまう。
背中で泣いてばかりいると殺して食ってしまうぞ、という子守唄だってあるくらいだ。
また、生まれたばかりの赤ん坊は、一日中付きっきりでおっぱいを与えたりおしめを取り替えたりしなければならない。子供の「守(も)り」をすることは、自然のうっとうしさを思い知らされることでもある。
「も」は、重苦しいとかうっとうしい感慨の表出。
「の」は、「乗る」「糊(のり)」の「の」。上からのしかってこられることの圧迫感や閉塞感、あるいは、のしかかってゆくことの優越感から「の」という音声がこぼれ出る。
「のう」といって相手にのしかかってゆくように呼びかける習慣は、身分制度の発展とともに定着してきたのだろう。
「野良(のら)仕事」は、疲れがのしかかってくるばかりのしんどい仕事のこと。「ら」は「集合」の語義。しんどいことばっかり、という感慨の「ら」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生きてあるかぎり、人は、「もの」という「ことば=音声」がこぼれるほかない感慨を負っている。
それはもう、原始人だろうと古代人だろうと現代人だろうと、けっして変わることがない。
古代人が自然と一体化してのどかに生きていたなんて、人間という存在に対する感慨が希薄な連中の、鈍感なただの制度的思考にすぎない。
中西進氏は、明治以降「もの」のことを「自然」というようになった、といっておられるが、だったらそういう「自然」ということば(概念)を持ったことによってわれわれは「もの」ということばから開放されたかといえば、そんなことはまったくない。
あいも変わらず、日本列島の住民は、たくさんの、そしていろんなニュアンスの「もの」ということばに取り巻かれて生きている。
「もの」とは「うっとうしくまとわりつくもの」という感慨を表出することばであり、それが語源なのだ。自然がうっとうしくまとわりつくものだったから、自然のことも「もの」といったまでだ。
生きてあるかぎり、誰も、うっとうしくまとわりつきまとわりつかれるそうした重苦しく澱んだ気分から逃れられない。
それは、そのつど処理しながら生きてゆくしかないのだし、じっさい誰もがそのつど処理しながら生きているから「もの」ということばがいつまでたってもなくならないのだ。
「だってあたし、女だもの」
このときの「女だもの」の「もの」は、彼女はもうみずからに「まとわりついてくる」女という条件から逃れられないという「なげき」を含んでいる。そしてそうつぶやくことによって、ひとまずその「なげき」を処理している。
つまり、「なげき」が「カタルシス」へと浄化されてゆく、というかたちで処理されている。
この「カタルシス」がもたらされる作用のことを「ことだま」という。
われわれは、やまとことばの住民として、「……だもの」とつぶやく「カタルシス=ことだま」を共有している。
「ことだま」というやまとことばは、人間存在の根源的な実存の問題として生まれてきたのであって、「霊魂」とか「霊力」がどうという話ではもちろんないし、ことばの構造がどうのというあの連中のパズルゲームによって解き明かされる問題でもさらにない。