祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 5

「わが身」の「身(み)」。
古代人が「身」というとき、物質として身体よりも、心とか「存在」そのものという概念とか、そんなようなことを意味している。つまり、「物体」としての身体ではなく、「空間」としての身体。
身体を「空間」として扱うことによって、身体はスムーズに動くし、腹が減ったとか痛いとか暑い寒いとかというようなうっとうしさにわずらわされている身体の「物性」から解放される。
われわれは、身体を「空間」として扱うために、ものを食い、衣装を着たりする。
生きものにとって、身体の「物性」にとらわれることは苦痛を体験することであり、そのとき身体の「物性」も「自分」に対する執着も忘れることはひとつの解放であり、カタルシス(浄化作用)である。
生きてあることは、身体を「空間」として扱う「荒唐無稽」の上に成り立っている。
古代人は、そういういわば「自己滅却」の感覚で、身体のことを「身(み)」といったのだ。
「み(身=実)」とは、「やわらかいもの」のこと。それは、存在と非存在の中間のものである。あるいは、非存在になりつつあるもの。人間の身体だって、まさに死によって非存在になってゆくものではないか。だから「身(み)」という。
身体のことを「身(み)」というとき、身体の「物性」や「自分」に対する執着から解放されるカタルシスをともなっている。それが、「み」という音声の「ことだま」なのだ。
語源としての「ことだま」とは、ことばの「霊力」とか、そんなことではない。この生の実存感覚から生まれてきたことばなのだ。
ことばの「霊力」がどうとか音韻の構造がどうとかといい気になって説明している学者連中より、古代人のほうがずっと深くこの生と向き合っていたのであり、学者連中がそんな説明でいい気になっていられるということは、脳みそが薄っぺらで生きてあるということをその程度のレベルでしか考えられないということだ。
つまり彼らは、「ことだま」ということばに「物性」を付与しようとしているわけで、そこが彼らの思考の限界だということです。
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内田樹先生がいつまでたっても鈍くさい運動オンチであるのは、身体の「物性」や「自分」という概念に意地汚く耽溺して生きているからです。
そのへんの意識をちょいと変えれば運動オンチはかなり解消される、という本だって出回っているじゃないですか。
古代人は驚くほどのスピードで山道を歩いていたらしい。われわれ現代人がなぜそんなふうに歩けないかというと、身体の「物性」や「自分」という概念に耽溺して生きているからです。そうやって耽溺してゆくことがあたかも正義であり幸せであるかのような社会になっているからです。
それは、古代人の実存感覚とは逆立しているわけで、だからスムーズに体が動くという体験をもてなくなってしまっているのだ。
子供たちの運動能力が後退しているという昨今の風潮だって、そのように身体の「物性」や「自分」という概念に意地汚く耽溺しているあほな知識人が大きな顔をしてのさばっている社会だからだということも大いに関係しているはずです。
また、「リーマン・ショック」やら今回の「インフルエンザ騒動」に大人たちがかんたんにあわてふためいて事態をいっそう深刻なものにしてしまっているということだって、誰もがみずからの身体の「物性」や「自分」という概念に耽溺することばかりしている社会になってしまった結果ではないのか、と思えます。
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内田先生によれば、今回のインフルエンザ騒動のことを「過剰反応だ」「それでは都市機能が麻痺する」などといっているマスコミ知識人たちは、それで人々の消費活動が停滞することを心配しているからであり、そんな目先の利益のことばかり考えているやつらはろくなもんじゃない、しっかりマスクをしたり外出をひかえたりして誠実に感染拡大の防止につとめている人びとは模範的な市民以外の何ものではないか……ということなのだそうです。
いちおう正論っぽいけど、おまえらは目先の利益と金の問題だけで語っている、だなんて、ずいぶん人をなめきった発言だと思いませんか。そしてその発言にころりとたらしこまれて拍手している人が大勢いるということも、僕は、なんだか怖いなあとも思う。
たとえば電車の中で、思わず軽く咳をしてしまった人がいて、まわりの乗客がじろっとにらむ、というような光景は、とうぜん出てくるでしょう。これは、小さなファシズムです。その人は、まわりの緊張した雰囲気に息苦しくなってつい小さく咳き込んでしまった、というだけのことかもしれないというのに。
正しく模範的な市民なんて、怖いですよ。
「騒ぎすぎじゃないの、そんなことばかり言っていたら都市機能が麻痺してしまう」といっている人は、べつに目先の利益や金のことだけを問題にしているのではないでしょう。何はともあれ都市とは、たくさんの人が出会い、ときめきあい、語らい合う場であるわけで、そういう機能を喪失して、なんだか「五人組」とか「村八分」みたいに他人を監視することばかりになってしまったら困る、といっているだけじゃないですか。
内田先生のその言い草のように、他人の言うこと考えることをそうやって卑小な次元におとしめて自分がさも正しく聡明であるかのように振る舞うのは、すごく卑しくいやらしい態度だと僕は思う。
そのていどにしか他人に反応できないというのは、思想家としてすでに「他者」を喪失している証拠であり、他者にときめく感受性の欠落した人間の吐くせりふだと思う。そしてそういういびつで暴力的な思考を内田氏と共有している人が世の中にたくさんいるのだとしたら、それはとても怖いことだ。
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ほんとに金や目先の利益だけの問題でしょうか。
そこには、われわれは病気や死ぬことや自分の体のことなどにたいしてどういう心のスタンスを持てばいいのか、という問題もあるわけじゃないですか。
そういう面において、今回の風潮は感覚的にどうもなじめない、という人だっているでしょう。
そういう風潮に一度は乗ってマスクをしてみたけど、なんだかめんどくさくなってやめてしまった、という人だっているでしょう。
思い切り怖がっている人はマスクを外さないでいられるけど、マスクをしていることの居心地の悪さに耐え切れなくなってやめてしまう愚かさにだって、それはそれで人間存在の実存の問題をはらんでいる、と思わないでもない。
そうやって思い切り怖がって用心を怠らないことは、人間としてはたして健康なことだろうか。
そのうち「もうどうでもいいや」と思ってしまう実存の問題を、内田さんたちは考えたことがないのでしょうね。
人間が「もうどうでもいいや」と思ってしまうことには、深い実存の問題や世界観の問題が隠されている。
「もうどうでもいいや」と思ってしまう心の動きを持たないで生きていることはけっこうしんどいことだろうし、だから、その調子で「もうどうでもいいや」と思ってしまう他人の態度が許せなくなってしまう。
そんなふうに自分にこだわってばかりいると、他人の姿が見えてこない。
内田さんにとっては、いつだって自分がどれだけいいかっこできるかという問題があるだけなのです。そのために他人が存在し、そのために他人が愛の対象だということになっている。
けっこうな御託宣だ。
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現代人は、「自然」という名の自分の体にこだわって生きている。しかし、自分の体のあるべきかたちなどイメージしてばかりいたら、誰も老いてゆくことなんかできない。永久に生きて、永久に若者でいなければならなくなる。
いまここの自分の体をそのまま受け入れるというトレーニングも、われわれが生きものであるかぎり、少しは必要かもしれない。
みんな老いてゆき、死んでゆくのですよ。
運動神経が鈍いやつにかぎって、自分の体をそのまま受け入れるということができないで、しゃかりきになって自分の体を支配してゆこうとする。そうやって支配しようとするから、動きが鈍くさいのだ。
プロのスポーツ選手でもないのだから、そこまでしゃかりきになることもないだろう。
現代人による自分の体を支配しようとする飽くなき欲望、強迫観念、そんなものが今回の騒動に反映されていないだろうか。もしそんなものを感じる人がいたら、「騒ぎすぎだよ」とひとこといってみたくもなるでしょう。
そういう側面は、内田さんのような鈍くさい運動オンチのナルシストにはわからない。安っぽい正論を吐いて受けを狙うのが、精一杯のところだ。
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「正しく模範的な市民」なんて、怖い。と同時に、大いにうさんくさくもある。この社会は確かに彼らのものではあるが、この世の誰もが彼らのようになる日など、ぜったいこない。
人間から「もうどうでもいいや」という心の動きを奪い去ることは、誰もできない。
なぜなら、そう思うしか死んでゆくすべはないからだ。そう思えることが、死んでゆくことにもっとも有効な心の動きにちがいない。そして生きてあるいまここにおいても、そう思わないと体はうまく動かないのだし、そう思える人間のほうが人にときめいてもいる。
この生は、荒唐無稽なものだ。
やまとことばの住民としては、正しい市民として生きるか、この生の荒唐無稽に驚きときめいて生きるかという問題は、きっと誰の中にもあるにちがいない。
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古代人にとって、意識が「身体=自己」にまとわりつくことは、ひとつの「けがれ」であった。
しかし現代においては、内田氏のように、そうした自己意識こそが人間の証しである、と考えている人が大勢いる。
誰もが、「身体=自己」のことになるととたんに「過剰反応」してしまうのが現代社会だ。
また今回のインフルエンザ騒動は、社会が不景気のときだから、よけいに神経質になっているのかもしれない。
何もかも 忘れ雲ゆく 夏めく日
過去のすべてを忘れて生まれたばかりの存在になったような心地で世界と向き合っている……そんな無防備な瞬間は、誰にだってあるでしょう。
それは、原初的な心性だろうか。
古代人は、意識が「身体=自己}から解放されることをひとつのカタルシス(浄化作用)として生きていた。
われわれだって、やまとことばの住民として、「身体」や「自己」や「人生」にあさましくこだわってばかりいることなんか「もうどうでもいいや」という感慨をどこかに抱えながら生きている。
それによって身体はスムーズに動くのだけれど、それによって、内田氏のような体の動きの鈍くさい「模範的市民」からさげすまれねばならない。