祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」35

A…あの男は猿だ。
B…あの男は猿のようだ。
この二つの比喩表現でどちらが原始的かといえば、Aのほうらしい。
Aの表現を「暗喩(メタファー)」といい、Bは「直喩」という。
万葉集では、初期の歌にはAの表現が多く、後期になってBの「…のようだ」という比喩表現が現れてくる。
後期における恋の歌の名手である坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の歌二首。
青山を 横切る雲の 著(いちし)ろく われと咲(え)まして 人に知らゆな
(訳・青々とした山を横切る雲のように、自分との恋が人に知れてしまうようなあからさまな笑顔を見せてくださいますな)
夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ
(訳・夏草の野の繁みの中にひそかに咲く姫百合のように、あなたにこの想いがわかってもらえない恋は苦しいものでございます)
坂上郎女は、「…のようだ」という直喩の名手でもあった。
それにたいして初期の歌は、ずいぶん趣が違う。
淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日のころごろは 恋ひつつもあらむ
この歌における上の句と下の句の連続性は、よくわからない。「あの男は猿だ」といっているのと同じである。上の句が「恋ひつつもあらむ」の「まくらことば」のような役割をしている、ということがわかるだけである。しかしよく見ると、この上の句には、「あなたと逢って床入りできないことの狂おしさ」が隠されていることがわかる。そういう想いを隠していることにおいて、この歌は名歌たり得ているのであり、この上の句と下の句との関係は、「あの男は猿だ」というのと同じ、いわば超越的表現である。
初期の「まくらことば」は、一種の「暗喩」に違いない。「青によし=奈良」「あしひきの=山」「たまきはる=うち」といわれても、現代人にはもう何のことかよくわからない。
そういう意味で、「暗喩」とは超越的表現である、という言い方もできる。
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中西進氏や中沢新一氏はこれらのことを、人間と自然が一体化していた時代だったからだ、という。
彼らだけではない、ほとんどの歴史家が、ごく当たり前のようにそんな歴史意識を持っている。
言語学や心理学においても、誰もがそういう前提で思考している。
ソシュールだって、言語はそのように「一体化」している不分明な状態から個々に「分化=差異化」させてゆく機能として生まれてきた、といっている。
乳幼児の心は、世界と自分が一体化していて、まだ世界から切り離されていない……これは、発達心理学の常套句だ。
みんな、どうしてこんなくだらないことを考えるのだろう。たとえ原始人であろうと乳幼児であろうと、切り離されていないはずがないじゃないか。
生きものであるとは、「切り離されてある」ということだ。切り離されてあるから、体が動くことができる。自分の体が動くことに気づいた瞬間、生きものは、自分の体がこの世界から切り離されてあると気づくのだ。
それくらいのことは、カブトムシでもクラゲでも気づいている。アメーバだって気づいているさ。
彼らのその思考は、「近代」という制度に飼いならされてしまっている。
そうやって自意識を際限もなく膨らませながら自分が何ものかになったつもりでいるから、そんな差別的な考えをしてしまうのだ。
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人間が猿ではないことくらい、原始人だって知っていたに決まっているさ。科学や文明がまだ発達していなかったあの時代の人々は、われわれよりずっと痛切に人間であることの限界を感じていたはずだ。
だからこそ、そこからの超越的な飛躍として、「あの男は猿だ」という表現にときめいていった。神話は、そういうところから生まれてきたのであって、「共同体や個人の<自己確認>の物語として生まれてきた」などという俗説ですむ話ではない。
彼らは、ことばが持つ「超越性」に対して、われわれよりずっと率直だった。そしてそれは、それほどに「語り合う」ことの昂揚感が豊かな時代だった、ということを意味している。
われわれ現代人は、「文字」を持ったりして、ことばに対してすれている。だからもう、ことばの超越性にときめいたりなんかしない。ことばは「意味」を伝える道具だ、というくらいにしか思っていない。
アカデミックな学術用語を使えば何ものかになったつもりのあほが、わんさといる。「意味」を振りかざすことがことばの機能であり知性だと思っていやがる。
それに対して、
「くだらない話に安らげる僕らは、そのおろかさこそが何よりの宝もの」
これは、スピッツの歌(「愛のことば」)の歌詞だが、草野正宗君は、何気にすごいことをいう。
人と人の連携、すなわち語り合うことのときめきは、「意味の伝達」から生まれてくるのでも「自己表現」から生まれてくるのでもなく、その「くだらない」語り口の「超越性」から生まれてくるのだということを、たぶん草野君は知っている。
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この世界の事実を超越してゆくことの昂揚感が、「あの男は熊だ」といわせている。
このような超越的飛躍は、言葉でしかできない。あの男を猿にしてしまうことは誰にもできないし、あの男が猿になってしまうこともありえないが、言葉の上でなら猿にしてしまえる、猿になってしまう。
彼らはただ、言葉の超越性に率直だっただけであって、自然と一体化していたのではない。
「花が咲いた」といって「鼻が裂いた」と解釈することも、古代人がよくやることば遊びだ。ことばの超越性に率直であれば、自然にそういう超越的なニュアンスが見えてくる。
やまとことばが、たとえば「橋」「箸」「端」「嘴」とあえて同じ音韻のままにしてきたのは、ことばの超越性に対して率直だったからだ。これらはすべて、二つのものがつながって(合わさって)ゆくときの危うさの感慨から生まれてきたことばであるが、その危うさの感慨が「橋」や「箸」という意味になってゆくことの超越性に対するときめきが彼らにはあった。そして「はし」という音声が「橋」というもうひとつの超越的な世界に着地して戻ってこないことは、考えられなかった。彼らは、この二つの世界を自由に行き来していた。
西洋人が、「この世界の外部に存在する神がこの世界をつくりたもうた」というとき、神の世界に行ってしまえばもう戻ってこられないということを意味する。だから彼らの「ブリッジ=橋」ということばには「意味」だけがあって、危うさの感慨は残っていない。彼らはもう、「意味」というもうひとつの世界に行ったっきりで、戻ってこない。彼らのアルコール中毒やドラッグ中毒が、行ったっきりになってしまいやすいのはそのためだ。彼らは、そういう「文化=世界観」で生きている。そしてこの国でもそうした傾向が顕著になってきているのは、彼らのつくったそのような「近代」という「文化=世界観」に意識の多くの部分が染め上げられてしまっているからだ。
ことばが「意味」だけになってしまったら、それはもう「超越性」でもなんでもない。
「はし」という危うさの感慨の表出が、「橋」という意味として現れるところに「超越性」に対するときめきがある。そして、ことばにそういう「感慨の表出」を持っていれば、ドラッグ中毒からも生還できる。
精神の病の治療は、患者にどういう「ことば」を持たせるかという問題でもある。
やまとことばは、現実と超越性の世界とを自由に往来できる機能を持っていた。生きてある現実の「嘆き=感慨」を手放さないから、「超越性」にときめくこともできるし、「嘆き=感慨」を手放さないところにしか「超越性」は成り立たないのだ。
日本列島の古代社会には、ことばの超越性に対するときめきが豊かにあふれていた。
だから彼らは、「あの男は猿だ」といった。
そして近ごろの「ジャパン・クール」といわれている原宿・渋谷系ギャルファッションは、この「超越性」のつかまえ方がとても高度で、そこがおしゃれかどうかの勝負になっているように思える。これは、やまとことばの伝統かもしれない。われわれはそこに、神話を語り合っていた古代人の昂揚感を見ることができる…のかもしれない。
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「さる」は、「去(さ)る」でもある。すばしっこく逃げてゆく動物だから「猿(さる)」といったのだろう。
「さる」の「さ」は、「裂ける」の「さ」、「はし」とは逆に、二つに分かれてしまうことのその鮮やかさに対するときめきや喪失感から表出される。「さあ、はじめよう」というときめきと、「さあ、わからない」という喪失感。
「あの男は猿だ」というとき、あの男に対する話し手のそういうときめきや喪失感が表出されている。「猿のようだ」といって、あの男の客観的な「意味」だけをあらわしているのではない。自己の「感慨」から「意味」への超越的な飛躍があらわされている。そのとき聞き手は、「意味」と同時に話し手の「感慨」も受け取っている。話し手も聞き手も、そういう「飛躍」の「超越性」にときめいている。
やまとことばは、ことばの二重性の上に成り立っている。けっして「意味」の世界に行ったきりにはならない。
「寒い」というだけで、「イッツ・コールド」というように主語をつけないのは、「寒い」ということばにすでに主語が含まれているからだ。そしてその主語は、「アイ・フィール」の「アイ」と「イッツ」の二重性を持っている。主語を持っていないのではなく、主語が二重になっているために、いいようがないのだ。「イッツ」といっても「アイ」といっても、うそになってしまう。
その人が黙っているからといって、その人が何も思っていないのではない。誰よりも思いが満ち溢れていて、いいようがないのかもしれない。
「あの男は猿だ」という表現に、すでに「あの男は猿のようだ」という表現が含まれている。
自分を神の世界まで運んでゆけば、「私は神のようだ」という言い方になる。自分を消していないのだから、「私は神だ」とはいえない。
それに対して、自分が消えて神がやどれば、「私は神だ」という表現になる。「私」は、神の背後に隠れてしまっている。しかし言い換えればそれは、「私は神のようだ」という表現を隠している、ということでもある。
やまとことばは、そういう「二重性」を持っている。
英語で「あの男は猿だ」といえば、ほんとうに猿だといっていることになる。しかしやまとことばで「あの男は猿だ」といっても、その表現自体に「のようだ」という比喩を含んでいる。
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やまとことばを「意味」だけの表現に閉じ込めてしまったのは、「文字」であり、「共同体」であり、「貨幣経済」であり、西洋の「近代思想」だ。それはもう歴史の運命であるのかもしれないが、それらのことにとらわれていたら、やまとことばの語源に推参できるはずもない。
原初のことばは、「感慨の表出」と「意味の伝達」という「二重性=混沌」として機能していた。そこに語源の姿があり、神話が生まれてくる契機があった。
それはたぶん、ギリシャ神話でも同じであろうし、原初の人類は、「意味」に幽閉された生き方はしていなかった。そこから、神話という「超越性」の物語が生まれてきた。原初のことばは、世界中のどこで語られようと、「二重性」として機能していたはずだ。
僕はいま、原初のことばは世界中そう変わりはなかったのかもしれない、と思いはじめている。ひとつの地域から世界中に伝わったというのではなく、同じ人間としてのひとつの「共時性」として。