祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」36

(承前)
「あの男は猿のようだ」というときの「猿」ということばは、猿そのものをさしており、「のようだ」ということばによって、この表現が比喩であることを表している。
それに対して「あの男は猿だ」というときの「猿」は、「猿そのもの」であるという意味と「猿のようだ」という意味を併せ持っている。
それは、比喩であると同時に比喩ではない。そういう超越的な表現である。
ことばはもともと「超越性」として生まれてきた。
ことばの根源的な機能は、超越性にある。
超越性とは、この世界の「外部」のこと。
しかしそれは、この世界の「向こうがわ」のことではない。
「向こうがわ」などない。
どこまでいっても、永遠の果てまで「この世界」なのだ。
だって、「私」の体を取り巻く空気(空間)は、永遠の果てまでつながっている。
この世界の「外部」は。この世界の「向こうがわ」にはない。
少なくとも古代の日本列島においてそれは、この世界の超越的な空間としてイメージされていた。彼らは、時間的な「未来」とか、空間的なこの世界の「向こうがわ」とか、そんなところに「外部=超越性」があるとは思っていなかった。
日本列島の伝統としての「外部」とは、今ここの超越性にある。
この世界の物理的な「外部」など存在しない。意識のはたらきにおいて「外部=超越性」が認識されるだけであり、それは、この世界の向こうがわに見出されるのではなく、「今ここ」の「超越性」として見出される。
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意識にとってのみずからの身体をひとつの世界とするなら、身体の外の「この世界」そのものが、すでに超越的な「外部」にほかならない。
われわれは、身体存在として、身体の外のもうひとつ別の世界と向き合っている。その「今ここ」こそが、超越的な「外部」にほかならない。
われわれの身体は、この世界から切り離されてある。
切り離されてあるから、動くことができる。
身体が動くとき、意識は、「身体はこの世界から切り離されてある」と認識する。
そのようにこの世界からの隔絶を意識することは、この世界の超越性を意識するということでもある。
この世界に対する違和感。
この世界のあいまいさ。
この世界は本当に存在するのか。
この世界の不可知性。
この身体が動き、この身体はこの世界から切り離されてあると自覚している者は、同時に、この世界の「不可知性」をつねに意識させられている。
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鈍くさい運動オンチは、この世界の存在を当たり前のように決めてかかって、そうした「世界の不可知性」に対する不安を持っていないために、自分の身体を取り巻く「空間」に対して鈍感である。
現代人は、自分の身体も含めてこの世界の「存在」に対する意識ばかりが肥大化して、「空間」に対する意識が希薄になってしまっている。つまり、観念的に、自分の身体がこの世界の「存在=もの」とくっついてしまっている。
くっついてしまって、体がうまく動くはずがない。これが、現代人の病理だ。
人間は、自然の動物に比べたら、みな鈍くさい運動オンチである。また、高度な文明社会で安楽な暮らしをしているわれわれは、原始人に比べてもずっと体を動かすのが下手に違いない。であれば、現代人の意識における世界の存在に対する信憑は、もはや病的でさえある。
そうして何より因果なことに、そうやって世界に憑依したまま身体の孤立性のところに戻ってくることができないから、死ぬのが怖くなってしまっている。
現代人は、この世界の「超越性=不可知性」に気づく感受性を失っているために、「死」という「超越性」を実感し把握する能力も失ってしまっている。
原始人や現在の地球の未開人は、年老いてくると、「そろそろ自分は死にそうだ」という気配というか兆候がわかる。
自然の動物は、みんなわかる。
現代人だけが、その能力を失ってしまっている。
まあそれは、現代の高度な医療技術にコントロールされている命だから仕方がない面もあるのだが、ともあれこの生やこの世界に対する「超越性」が見えなくなっているからだ。
「超越性」とは、「不可知性」のことである。それが、この生の「外部」であり、そういう視線が、この生の体験である。
「われあり」ということを証明したって、なんにもならない。その思想が、人類の死の恐怖を肥大化させたのだ。
そんなことよりも、すべてを「超越性=不可知性」として見ること、そこにこそこの生のときめきがあり、根源がある。