幽体離脱と霊魂・「漂泊論B」19

     1・故郷に帰ることは消えてなくなることだ
吸い込まれるような秋の青空を見上げればいっそう嘆きが深くなる、と、ある人がいった。
それは、なんとなくわかるような気がするわけですよ。
それは、生きてあることのカタルシスの極みであり、このままこの世から消えていなくなってしまいたい、あとかたもなく消えてしまいたい、という心地にさせられる。
「孤愁」などという言葉があるが、それは、人恋しさとうらはらの気分で、人は、秋になると故郷に帰りたくなる。
そしてほんとうの故郷は、自分が消えてゆくその向こうにある。そこが、人間が死とともに帰るべき故郷だ。消失点……このまますっと彼方へ……。
快楽とは、身体が消えてゆく感覚である。
女のオルガスムスは、この感覚の極みとして体験されるのだろうか。
身体が消えてゆくとは、我を忘れて何かに夢中になっている状態のことでもある。
人間は、身体の「無力性」や「受苦性」を負って生きはじめる。だから、「身体が消えてゆく=身体のことを忘れる」ことが快楽になる。われわれの日常的な行為にしても、そういう心の動きが基礎になっている。
体を動かすということ自体が、身体のことを忘れる行為にほかならない。そのとき身体は空間に溶けて消えてゆく。上手にスムーズに動かせば動かすほど、そういう心地になっている。
人間が二本の足で立って歩くことは、身体が消えてゆく心地とともになされている。そのようにして、原初の人類の直立二足歩行がはじまった。
赤ん坊が立って歩きはじめるときにあんなにもうれしそうな顔をするのは身体が空間に溶けて消えてゆく心地を体験しているのであり、なぜそれを「快楽」として体験できるかといえば、人間の赤ん坊は、猿の赤ん坊よりもずっと深く身体の「無力性」や「受苦性」負って生きてきた存在だからだ。
ミラーニューロンだかなんだか知らないが、かんたんに「大人のまねをするからだ」といってもらっては困る。まねをすることは、べつにカタルシス=快楽ではない。


     2・霊魂と幽体離脱
身体が消えて意識だけの存在になる……ではこのとき、「霊魂だけに存在になる」といっても同じだろうか。
人間にとって霊魂は、身体を支配し、身体を存続させているものとしてイメージされている。霊魂が身体から離れてゆけば、もう身体は存続できない。
幽体離脱、という。意識=霊魂が身体から離れて、自分が自分の身体を眺めている現象。このとき意識は、「身体が消えてゆく」ということを体験できなくなっている。病気などで死に瀕した状態になれば、身体のことばかり気になってしまう。身体のことを忘れたいのに、苦痛や恐怖のために忘れられない。それで、なんとか意識を身体から引きはがそうとする。
自意識とは意識を対象化しているもうひとつの意識であり、その自意識が、身体に張り付いた意識を引きはがしてしまう。
幽体離脱のことを逆にいえば、われわれのふだんの意識は身体に張り付いていて、身体=意識すなわち身体=自分の状態になっている、ということだ。
「身体が消えてゆく」とは、「身体=自分」という意識である。われわれはふだん、この意識で生きている。
「身体が消えてゆく」というカタルシス(快楽)を汲みあげられない危機的な状態になったとき、自意識が意識を身体から引きはがす。それは、「身体が消えてゆく」ということの代替の現象である。
「身体が消えてゆく」ことのカタルシスが、この生の意識のはたらきの基礎になっている。
原始人だって、熱病にうなされて死にそうになっているときなどは、幽体離脱を体験していたことだろう。
しかしそれは、あくまで危機的な非常事態における意識のはたらきを意味するのであって、ふだんの意識の本質を意味しているのではない。いや、幽体離脱が起きるということは、われわれのふだんの意識が「身体=自分」になって「身体が消えてゆく」カタルシスを汲み上げながらはたらいていることを意味している。
もしかしたら原始人は、かんたんに幽体離脱の心的現象を引き起こしていたのかもしれない。しかしそれは、彼らが幽体離脱で生きていたことを意味するのではなく、「自分=身体」として「身体が消えてゆく」カタルシスを深く汲み上げながら生きていたからこそ、それが不可能になったときにはかんたんに「意識を身体から引きはがす」という代替の心の動きが起きていたのだろう。
しかし現代人の心は、原始人のそれとは主客が逆転し、「意識を身体から引きはがす自意識」をこの生の基礎に据えて「自意識=霊魂」が身体を支配しつつ、「身体=自分」という位相の意識は二次的なものになっている。だから「身体が消えてゆく」というカタルシスがうまく汲み上げられない。自分を忘れて何かに熱中してゆくというより、自分をまさぐることの愉悦にはしゃいだりうっとりしたりしている。
現代人は、「自分」を「身体」から引きはがしている。
この「自分という意識」の上に「霊魂」という概念が成り立っている。
現代人にとって幽体離脱は非常事態ではなく、幽体離脱で生きている。原始人のように自分と身体化が一体化しているのではなく、身体から意識を引きはがして「自分」が独立している。
幽体離脱とは、自分が自分を眺めることである。鏡にうつした自分を眺めることだって、一種の幽体離脱だ。自分はいい女だとかいい男だとか人格者だとかと自分を評価したり、そのように自分をつくろうとあくせくすることだって、自分を対象化しているということにおいてひとつの幽体離脱である。
いまどきは、そういう幽体離脱が人間のあるべきかたちのようにいわれている。
現代人は、自分が消えてゆく「遊び」よりも、自分をつくる「仕事」で生きている。そうやって「自分」に執着している。この「自分」は、身体から離れて身体を支配している。そういう幽体離脱が、現代人の生きる流儀らしい。
いまどきのおじさんおばさんのカラオケなんて「自分」にうっとりするためのアイテムであり、自分を忘れて歌詞やメロディに憑依してゆくということはしていない。
自分が自分を見ているという「幽体離脱」で生きているからだ。現代は、そうやって生きさせられる社会の構造になってしまっているからだ。
現代人は、幽体離脱という危機的な状況で起きる心の動きをふだんのものとして生きている。それが、人間の本性だと思っている。
そんなふうにして生きて、心が病んだり死を前にしてじたばたしたりしている。
原始人には「霊魂」という概念がなかったからといって、幽体離脱しなかったというのではない。原始人の心の方が、もっとかんたんに幽体離脱したかもしれない。なぜなら、現代人よりももっと直接的な身体の危機を体験していたからだ。
身体の危機においては、幽体離脱が起きる。意識が、身体に張り付いていられなくなる事態である。それは、身体意識の喪失である。
原始人の身体意識は豊かで、彼らは「身体=自分」という意識で生きていた。その意識が混乱して幽体離脱が起きる。それはあくまで異常事態の意識であって、それをふだんの意識にしてしまったら、さまざまな精神病理を引き起こしてしまう。
幽体離脱には、カタルシスがない。
原始人のカタルシスは、自分が身体と一緒になって消えてゆくことにあった。そういう「身体=自分」という意識こそが普遍的なこの生のいとなみであり、われわれ現代人だって、じつはそのような身体意識で生きているはずである。われを忘れて夢中になったりうっとりしたりぼんやりしたり、ふだんのくらしの中にそういう感触がないと人間は生きられない。
いつも自分を意識し、自分をよく見せようと自分をまさぐってばかりいるなんて、疲れるではないか。それが習性になってしまっている現代人はけっこう多いのだが、人間の心はほんらい、そんな緊張の連続には耐えられないようにできているのではないだろうか。
人間はそんな緊張に耐えられない存在だからこそ、幽体離脱という心的現象が、身体の危機という緊張の極みで起こる。


     3・猿は、生き延びようとする緊張感で生きている。しかし人間は……
現代人は、「自分という意識=霊魂」に執着して生きている。自分を忘れて世界や他者に見とれる、ということがない。そういう原始人や子供のような「薄ぼんやり」のところがない。つねに自分に執着し、仲間と結束し、第三者を排除し続けて生きている。猿社会のように、つねにそういう緊張を強いられている。
内田先生は、こういう。
自分はつねに生き延びることを念頭に置いて生きている、そうやって生き延びることに役立つ人との関係をつくっている、と。
なんだか、猿並みだ。ご苦労なこった。そういう緊張というか、さもしさが、人の心をむしばんで猿並みにしてしまい、人間的な知性も感性も運動神経も鈍くさくなってしまう。先生はまさに、現代社会の病理を一身に背負って生きておられる。
まあ、そうやって生き延びようとがんばれば長生きできるのだろうが、心に余裕やふくらみがないから、認知症とか鬱病とか自殺とかいじめとか、心が壊れてゆく危険をつねにはらんでいる。
心が壊れるとか死ぬ前にじたばたするとか、けっきょく知性と感性の問題なのだろう。ただし、ここでいう知性と感性とは、学校のお勉強や世渡りの知恵のことをいうのではない。夏目漱石はそれを「趣味の問題」といったが、まあそういう「センス」のことだ。みずからの身体や世界に対するセンスの問題、ものの考え方や感じ方のセンス問題、といえばいいのだろうか。
生き延びようとすること自体、すでに死が怖くてじたばたしているのであり、生きてあることに対する知性や感性が薄っぺらで野暮ったいのだ。私は最後に死を前にしてじたばたする人間です、と宣言しているのと同じなのだ。
人間は自分を忘れて自分が消えてゆくタッチで生きているから、基本的には「生き延びる」ということなど考えない「薄ぼんやり」の存在なのである。
普通の人間は、内田先生のように生き延びようとあくせく生きることの緊張に耐えられない。しかし先生は、そうやって緊張しっぱなしの自意識過剰で生きているから、体の動きが鈍くさいインポおやじになってしまうのだ。
生き延びようとする緊張は、人間の知性や感性を鈍磨させる。まあ、生き延びるための世渡りの知恵や行動力は大いに発達するのだろうが、それは、知性や感性とは別のものだ。
学校のお勉強だって同じである。一流の知識人ほど、たんなる記憶してコピペするだけの能力がいかに知性や感性とは縁遠いものかということを知っている。


     4・人間は「薄ぼんやり」の存在なのだ
「自分を忘れる=身体が消えてゆく」というタッチを持っていないと、知性も感性も育ってこない。
もちろん現代社会にもそういう知性や感性を豊かにそなえている人はいるし、赤ん坊や「この世のもっとも弱いものたち」はみなそのように生きている。
ただ現代は、社会の構造として、原始時代とは意識のはたらきの主客が転倒しているということはいえる。われわれは、人間の自然としての生のかたちを失っている。
現代人や現代社会は人類史の進化の達成として存在しているわけではないし、大人になることが人間として完成することでもない。少なくとも現代社会においては、大人になることは、人間の自然から見れば、どんどん倒錯的になってゆくことなのだ。現代社会は、社会の動きに参加してゆく人間がどんどんそうなってゆくような構造になっている。
現代社会における人間としてのもっともたしかで自然なかたちは、この社会の外に存在する赤ん坊や「この世のもっとも弱いもの」のもとにある。あるいは、社会を置き去りにするほどとびきり知性や感性が豊かな人たちのもとにもある。彼らは、そういうかたちで、原始人の心性、すなわち人間の普遍=自然を引き継いでいる。彼らは、そういうイノセントを持っている。
現代人はあくせく生き延びようとしたり国家を存続させようとしたりして生きている。そういう生き延びるための知恵や技術は発達している。
しかし、原始人もまた生き延びようとあくせくして生きていたとはいえない。そこのところを現代人の物差しでは測れない。それはあくまで、共同体の発生以降の歴史なのだ。
普通に考えて、昔にさかのぼればのぼるほど、人の生き方ものどかで薄ぼんやりしたものになってゆくではないか。その向こうに原始人の暮らしがある。原始人はわれわれのように生き延びることを目指していたわけではないし、われわれの社会が人類の進化の達成であるのでもない。
人間は、生き延びようとしているのではない、消えてゆこうとしているのだ。
人間は、生きてあることの緊張に耐えられない。
しかし、因果なことに、消えてゆくことに生きてあることのカタルシスがある。
人間は「身体=自分」が消えてゆくことのカタルシスを紡いで生きている。
しかし「身体=自分」が危機的状態に陥ると、その緊張に耐えられなくて幽体離脱を起こしてしまう。
ふだんから「死にたい」と思っている人だって、いざとなると幽体離脱を起こしてしまう。
「身体=自分」は、その緊張感に耐えられない。なのに現代人は、幽体離脱してある緊張感を生きようとしている。身体の危機的状況を生きようとしている。
そのとき「身体=自分」は、生き延びようとしているのではなく、その緊張感に耐えられないだけなのだ。
耐えられなくて、意識が身体に憑依することをやめてしまう。そうして意識は天井に憑依し、ベッドに寝ている自分を眺めている。
意識は、何にでもどこにでも憑依してしまう。
人間は「身体=自分」が消えてゆくカタルシスで生きている存在であるのだから、意識が憑依する対象の究極は、「消失点(カタストロフ)」であるにちがいない。
そうやって女のオルガスムスがやってくるのだろう。
そういう消えてゆくカタルシスを快楽として体験すると人は、「もう死んでもいい」と思う。
意識が憑依する対象の究極は「消失点」だから、人間は「死にたい」とか「もう死んでもいい」という心の動きを持ってしまう。われわれは、人間のそういう心の動きを否定するべきではない。深く豊かに生きているものほど、そういう心の動きを持ってしまう。
生きてあることの深い嘆きから知性や感性が生まれ育ってくる。生き延びようとするスケベ根性からではない。
ほんらい人間は、生き延びようとする緊張感に耐えられない。なぜなら、生き延びることのできない「無力性」と「受苦性」を身体に負っている存在だからだ。
われわれは、心の奥のどこかしらで「消失点」に憑依して生きている。
このまますっと彼方へ……。
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