祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」63・感慨と意味

はじめに心ありき。
はじめに、思わず言葉(=音声)を発してしまうような心の動きがあり、そのあと言葉(音声)によってその心の動きに気づかされる。
意味は、言葉(音声)のあとに生まれてくる。
原初の人類は、意味を意識して言葉(音声)を発したのではない。
たとえば、思わず「きゃあ」とつぶやき、そのあと「ああ怖かった」といって胸をなでおろす……まあ、こんなようなことだ。
最初に発生する意識は、「私」を持っていない。意味を意識する「私」は、ことば(音声)のあとに発生する。
まず即自的な無意識で驚いたりりときめいたりする反応が起き、その反応から一瞬遅れて対自的な「私」という意識が発生する。そのはざま(=裂け目)からことば=音声が発せられるわけで、「私」は、世界の出来事からつねに一瞬遅れて発生する。
原初のことばは、意味として発生したのではない。ある感慨を契機として音声が発せられ、その音声から「私」が発生して意味を汲み上げてゆく。「ああ怖かった」と。
したがってわれわれが語源を考えるとき、その言葉=音声が発せられる契機となる「心の動き」と、言葉=音声から生まれてくる「意味」との両方が問われなければならない。
何はともあれ「はじめに心ありき」で、それが、げんみつな意味での語原体験だ。
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今どきのギャルの「かわいい」というときめきも、この即自的な無意識とつながっている体験であるのだろう。
この即自的な無意識がいきいきとはたらいているとき、発せられる音声としての言葉もいきいきと輝く。
古代人は、現代人よりもずっとこの即自的な無意識のはたらきが豊かだった。彼らは、このレベルの感慨を大切にして言語空間をつくっていた。
たとえば、「はし」という音声ひとつで、「橋」「箸」「端」「嘴」というようないくつもの意味を兼ね備えていたということは、それほどに即自的な感慨と音声が大切にされていたことを意味する。
大陸のように見知らぬ他人が地平線の向こうからやってくる社会でもなく、日本列島の中だけで意味はすでに共有されていたから、それで不自由することもなかったのだ。
「は」は、「はかない」の「は」、「空間」「空虚」の語義。
「し」は、「しーん」の「し」、「静寂」「孤立」「固有性」の語義。
「はし」は、「危うさ」「不安」の感慨からこぼれ出てくる音声。
「橋」も「箸」も「嘴」も「端」も二つのものをつなげる「危うさ」を表出している。
「走(はし)る」も、歩くことの安定性に対する「危うさ」をあらわしている。だから、「悪に走る」とか「策に走る」という。
「くはし」は、古代の美意識をあらわすことばだった。
「くはし女(め)」とは、美人のこと。
「く」は、「組む」「来る」「繰る」の「く」、「錯綜」「帰結」の語義。
「はし」は、「不安」「危うさ」。
すなわち「くはし」とは、「絶望」のこと。「途方に暮れる」こと。
すなわち「カタストロフィー(悲劇的消失)」のこと。「消えてゆく」こと。
すなわち、今ここの裂け目の中に消えてゆくこと。
ここから派生して、山などの三角形のものを「くはし」ともいうようになった。三角形の頂点は、ひとつの「カタストロフィー(悲劇的消失点)」にほかならない。
すなわち「末広がり」の美、という日本的伝統は、ここからはじまっている。
ともあれ、この世のものとは思えないような感動を覚えたときに「くはし」という音声がこぼれ出る。「美」は、この世の裂け目の向こうに存在している。これが日本的な美意識の原型であり、この世の裂け目の向こうに消えてゆくことが日本的な死のイメージである。
何もかもきれいさっぱりとなくなってしまうことのカタルシス……そういう体験ができなければ、日本列島的な「美的生活」も「安らかな死」もない。
それは、「意味体験」ではない。「感慨」の体験であり、ひとつの「境地」なのだ。
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縄文時代から古代の庶民生活においては、この世界からはるか遠いところにある天国とか極楽浄土というようなイメージはなかった。
死んだら「黄泉の国」に行く。その何もない闇が広がっているだけの世界は、はるか遠いところにあるのではなく、この世界のどこかに入り口がある、と信じられていた。
出雲地方の山の中にある、などという話もある。
死後の世界は、はるか遠いところにあるのではなく、「今ここの裂け目」の向こうがわにある、という世界観。
死は、未来のことではなく、「今ここの裂け目」で起きている。
こういう原始神道的世界観・生命観は、縄文時代以来のこの国の歴史の水脈であり、現代に暮らすわれわれの意識の底にもその痕跡は残っている。
多くの知識人たちが、この国の人々の無意識は仏教的世界観・生命観の上に成り立っているといっているが、そうじゃない。
仏教すらも、じつは神道的に変質して、大陸とは別のものになってしまっている。
仏教は、たかだか千年から千五百年の歴史だが、神道の伝統は、1万年以上ある。
そして天皇家神道とともにあり、仏教伝来らいの千五百年間も、たとえときの最高権力者であっても、この天皇家神道を無視することはできなかった。それは、日本列島の住民の意識の底流がけっきょく神道にあったことを意味する。
明治維新のときに、なぜあんなにもかんたんに廃仏毀釈のムーブメントが盛り上がったのか。ほんとに仏教国だったら、こんなことは起こらない。
極端な言い方をすれば、日本列島の住民にとっての仏教は、あくまで方便だったのかもしれない。
正月の初詣は、日本列島一万年の歴史の痕跡であろう。
日本列島の住民の無意識から、そうかんたんに神道的世界観や生命観が消えてしまうはずがない。
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「未来の死を思う」などといっているかぎり、日本列島の歴史の水脈としての世界観や生命観には届かない。
日本列島においては、「今ここ」の裂け目に死がある。
この生もこの世界も、「今ここ」において完結している。そして、完結していることが永遠でもある。なぜなら、「今ここにおいて完結している」ことは、永遠の時間の流れの中の一瞬に身を置くということだからだ。
つまり、死に触れてしまう、という体験がある。日々の暮らしの中で、いつも「未来の死を思う」ばかりで、今ここの死に触れてしまう、という体験がないのなら、それは死を思っていないことと同じなのだ。
「未来の死を思う」ことが「美的生活」だといっても、美と出会うことは「死に触れてしまう」体験であって、「死を思う」体験ではない。
美と出会うことは命がけの体験であって、のんきに死を思っている場合ではないのだ。
美と命のやり取りをするような生活を「美的生活」というのだとすれば、「未来の死」を思うことは、命との直接的なかかわりがない。
美と出会うとは、この生の裂け目の向こうの、永遠の時間の流れと出会うこと。
死は、その永遠の時間の流れに溶けてゆくことだ。
「死んだら黄泉の国に行く」という原始神道的な死生観は、ひとまずそういうことになっている。