やまとことばという日本語・正月と桜「2」

日本列島の住民は桜の花に「再生への願い」を託している、などというような説明を聞くと、ほんとにもううんざりしてしまう。
西行が「桜の花の下で死にたい」と歌ったのは、それによって再生が約束されるからか。
そうじゃない。人は、心から世界を祝福できたときに安らかに死んでゆけると思ったからだ。
わが身の再生が約束されれば安らかに死んでゆけるのか。
人の心は、そういうものでもないでしょう。
われわれの心は、「未来」のことをしんそこ信じられるようには出来ていない。それでも未来のことを考えようとするから、死が怖くなる。わけがわからなくなって、怖くなる。
わかったら、怖くなくなるか。体が動かなくなって腐ってゆく未来がわかったら、怖くなくなるのか。自分だけが死んでいて、ほかのみんながこの世に生きてある未来がわかったら、怖くなくなるのか。
もうそんな未来のことなどいっさいどうでもいい、考える気にもならない、と思えたとき、はじめて死が受け入れられるのではないのか。
自分のことなんか考えていたら、死は受け入れられない。
では、自分のことなんか考えていないときとは、どういう状態のときか。
世界を祝福しているときだ。
そのとき、自分は消えている。
自分のことなんか忘れてしまうくらい深く世界を祝福できたら、安らかに死んでゆける。西行は、そう思った。
桜の花の下に立ったとき、そういう瞬間をもてる、と思った。
それは、みずからの再生が約束される瞬間ではなく、もう終わった、これでいい、と思える瞬間だ。
未来のことを思わずに、しかも「これで終わった」と深く納得してゆくことの出来る瞬間、そういう瞬間が桜の花の下にある、と西行は思った。
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わが身が消えてゆくことは、最高の快楽である。そしてそれは、死にゆく身であるわれわれの希望でもある。
生きものは死んでゆくことができると思えることは、われわれの希望である。
怖がらなくてもいい、生きものは死んでゆくことができるのです……と宮沢賢治が教えてくれている。
桜の花は、やがて散ってゆく。じつに潔く、見事に散ってゆく。
桜の花ほど潔く見事に死んでいって見せてくれる対象を、われわれは知らない。
われわれは、華やかに咲き誇る桜の花が明日には潔く見事に散ってゆくことを、すでに知っている。
まいとし、何度も見てきた。
われわれは、満開の桜の花に、すでにすっかり散ってしまった景色を見ている。
桜の花には、つねに「死」のイメージが付きまとっている。それは、「再生への願い」と矛盾している。
われわれは、桜の花に、「再生への願い」など見ていない。そんなものを見たがるのは、すでに心が澱んでしまっているときだ。
桜の花が咲くことの華やかさは、すみやかに「散ってゆく=死んでゆく」ことの必然性の上に成り立っている。
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われわれは、咲き誇る桜の花に、みずからの命の再生を夢見ているのではない。
みずからの命が消えてゆくことの必然性と和解しようとしている。
消えてゆくことの恍惚(カタルシス)がある。
存在の消失、すなわち身体が「物性」を失って「空間」として感じられる体験こそ恍惚(カタルシス)であり、それこそが生きてあることの実感にほかならない。
消えてゆくことこそ、生きた心地なのだ。
世界を祝福しているとき、われわれは身体の物性を忘れ、身体は「非存在の空間」になっている。
われわれの心は、そういう「非存在の空間」としての身体を持っている。
衣装を着ていることが心地いいのなら、その下の身体は、すでに「非存在の空間」になっている。そういう心の手続きとして、われわれは衣装を着るのだ。
身体が「非存在の空間」にならなければ、われわれは生きた心地を得られない。
桜の花が持つ非存在としての「空間性」、われわれはそれを祝福しているのであって、「再生する物性」を夢見ているのではない。
桜の花は、「空間=空(くう)」に色とかたちを与えて咲き満ちている。
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「再生」を願うような生き方をしていたら、死ねなくなってしまう。そうして制度的な物語としての「永遠の生命」なんぞをどこかしらで夢見ながら、自分を殺したりボケたり鬱病になったりしてゆく。
桜の花は、「再生」の象徴ではない。「終わりのカタルシス」を体現して、まいとしわれわれの前に姿をあらわし散ってゆく。
桜の花は、咲き始めたときからすでに散っている。
われわれは、咲き誇る桜から、「終わりのカタルシス」を汲み上げる。
消えてしまうことが再生することだ。
われわれは、「再生」を願わない、「消えてゆく」ことを願っている。
昨日の「あなた」は、昨日に消えてしまった。
いま目の前に立っている「あなた」は、いま生まれ変わって再生した「あなた」だ。
誰もが、すでに再生して存在している。だから、再生なんか願わない。
桜の花の下に立つと、与謝野晶子がそう歌ったように、「こよひ逢ふ人みなうつくしき」という感慨にひたされる。そうやって世界を祝福する体験に誘われてわれわれはまいとし花見の宴を飽きずに繰り返しているのであって、「再生への願い」にかられているからではない。
清水(きよみづ)へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき (与謝野晶子
人は、すでに再生して存在している。だからわれわれは、再生なんか願わない。
「再生儀礼」がどうのというような言い方は、ほんとにもう「やめてくれ」といいたくなってしまう。「祭り」は、世界が美しく見える高揚感から生まれてくる。それだけなんですよ。荒木先生。
「終わりのカタルシス」として自分が消えてゆくときこそ、世界は美しく輝くのだ。
だから、だいじょうぶ。われわれは死んでゆくことができる。
だからそれまでは、ぶさいくに生きていればいいだけのことさ。
ぶさいくに生きているという「嘆き」がないから、あなたは、世界が輝いて見えないのであり、「再生」を願ってしまうのだ。
桜の花の前では、みんなぶさいくな生きものさ。しかしだからこそ、世界を祝福せずにいられなくなる。
そんなに突っ張るなよ。あなただって、ぶさいくな生きものなんだよ。