やまとことばという日本語・正月と桜「1」

「さくら」ということばは、「さく」+「ら」。「花が咲く」の「さく」と、「ら」。「ら」は、「我ら」「彼ら」の「ら」、集合の語義。すなわち、花がいっぱい咲いているから「さくら」という。それだけのことだがしかし、「さく」ということばがついている花の名は、ほかにはない。
日本列島の住民は、桜の花が咲くことに万感の思いがある。
それを「さくら」と名づけた古代人も、桜の花が咲くことを、今か今かと心待ちにしていたのだろう。
西洋の「クリスマスソング」に対して、日本列島の「桜ソング」。
和歌に関しては万葉以来の長い伝統があるが、流行歌では、ここ十数年、まいとし新しい「桜ソング」がヒットするようになっている。
桜への思いは、30年40年前よりも強くなってきているのだろうか。
エコロジーのブームとリンクしているのだろうか。
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桜は「再生」の象徴である、といっている人がいる。
この「再生」ということばはくせものです。
人間は「再生」を願う生きものであるのか。
夜寝て、朝起きる。われわれは毎日「再生」を繰り返して生きている。腹が減っては食うということを繰り返して生きている。古い息を吐き出して新しく息を吸うということを繰り返して生きている。こういうことも、「再生」の行為でしょう。
時間は、一瞬一瞬消滅して、一瞬一瞬生起する。われわれの意識もまた、そのようにしてはたらいている。
生き物が生きてあるということは、たえず「再生」してゆくいとなみであるのかもしれない。
であれば「再生」は、生きてあることの「結果=与件」であって、いまさら願うものでもないともいえる。
病気や怪我で目が見えなくなってしまった人が、またもとのように目が見えるようになることを願ってもしょうがないでしょう。見えないということと和解して生きてゆくしかない。それが自分の生のかたちだと納得したほうがいい。その条件で自分の生を完結させるしかない。
事故で足を失った人が、足が「再生」することを願っても無理な話です。
失った「今ここ」で自分の生を完結させてゆくしかない。
朝目覚めた自分は新しい自分であり、足を失った自分も新しい自分だ。「今ここ」でこの生は完結している、と納得して生きるしかない。
「再生」は、われわれの生きてあることの「結果=与件」であって、願うべきことではない。
誰だって「新しい自分」として「今ここ」に生きてあるのだ。
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キリストが目の見えない人を見えるようにしてやったとか、共同体は、そういう「再生」の話が大好きだ。
共同体とは、「再生」を願うシステムのことをいうのだろうか。
失ったものを取り戻してゆくのが共同体のいとなみの本質であるのだろうか。
文化人類学では、共同体の儀式を説明するのに「再生儀礼」ということばがよく使われる。文化人類学者は、このことばが大好きだ。「再生儀礼」といっておけばたいていのことが説明できると思っていやがる。
「やまとことばの人類学」を書いた荒木博之氏は、「正月」は「再生儀礼」であるといっています。「再生」を願う儀礼なんだってさ。そういって何か新しい解釈を提出して見せたような口ぶりなのだが、そんなことくらい誰だって気づいているでしょう。
正月ごとに新しい命がよみがえる、という共同幻想
まあそういう側面を持った儀礼なのだが、われわれの生のかたちそのものが、すでにそういうかたちになっている。それを改めて儀式にするのは、共同体の中で生きていると心がどんどん澱んでいって、そういう実感をもてなくなってしまうからだ。
だから、せめて正月だけは、新しい気分になって迎えたい。たとえば、共同体の歴史が長く続いた江戸時代の人びとや、長く生きた大人や年寄りには、そのような気分がある。
しかし若者や子供は、いつだって生まれ変わったような新しい気分で生きている。べつに、正月になったから「再生を願う」というのではない。彼らは、すでに日々再生して生きている。だからこそ、正月になるといつにも増して新しい気分が高揚するから、今の時代でも連れ立って初詣に出かけてゆくのだ。彼らは、「再生」を願ってなどいない、すでに再生して存在している。
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古代人は、誰もが若者だった。ひとまずそう考えたほうがいい。正月になると「すでに再生している」という気分が高揚してくる。古代人のそいう真摯で率直な自然とのかかわりから、「正月」という儀礼が生まれてきた。
それは、「再生」を願うのではなく、「再生」をたしかめ祝う儀礼なのだ。
誰だって、すでに新しい命を生きている。われわれは、そんなものを願って正月を迎えるのではない。足をなくした人が足を取り戻そうと願うのが正月なのか。
正月に神社に行ってお賽銭を投げ入れてご利益を願いつつ、その心の底では、すでに新しい命になって、すでに神と出会っているという高揚感が沸きあがっている。そのお賽銭は、ご利益を願うと同時に、じつは、神と出会っているというよろこびの表現でもある。
正月の高揚感は、「再生を願う」のではなく、「すでに再生している」という高揚感であり、すでに神と出会っているという高揚感なのだ。
新しい気分を持つために正月の儀礼をするのではない、新しい気分になったことのめでたさを祝うために正月をするのだ。
「再生」を願うのではない、「再生」を祝うのだ。
わかりますか、荒木先生、この違いが。人間は再生を願う生きものであるといい、「再生儀礼」といって鬼の首でもとったようなつもりになっているあなたたちの思考は、卑しく底が浅い。
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共同体は、「再生を願う」システムであるのかもしれない。
しかし、人は、ものほしげに何かを願う前に、何かを祝福する高揚感を体験して生きている。原初の祭りは、そこから生まれてきた。
祭りは、高揚感から生まれてくるのであって、いじましい願いや欲望からではない。根源的には、そういうことだ。いつの時代も大人や年寄りはさもしい願いで祭りをするが、若者は、ただもう高揚感だけでで祭りに参加している。
人間は、「未来を願う」生きものではなく、「今ここを祝福する」生きものなのだ。その心は、未来のスケジュールに生きるわれわれ現代人の胸の底にも息づいている。
「再生への願い」から「正月」という儀礼が生まれてきたんだってさ。くだらない。
人間を損得勘定の生きものとして計量しようなんて、俗物だなあ、と思う。
古代人なればこその、真摯で率直な自然とのかかわりがあったはずですよ。いじましく再生を願うことが正月の高揚感の根源なのですか。くだらない。
われわれはすでに再生してこの世界に存在している、という高揚感。そうやって世界を祝福してゆく高揚感から、正月という「まつり」が生まれてきたのだ。
一年でいちばん寒い日々の中に身を置くことの高揚感、ここで世界は極まり、ここにおいて世界は再生している、ここにおいて神が立ちあらわれている、という高揚感。おのれの「再生への願い」なんかどうでもいい、「すでに再生している」から「再生」を祝うのだ。
古代人のそういう心の動きは、荒木先生、あなたたちのような現代社会の俗物にはわからない。