祝福論(やまとことばの語源)・弥生三月春四月

やまとことばの「弥生(やよい)」は三月のことだが、現在の新暦でいえば4月になる。
古代人は、今ごろの季節のことを「やよひ」といった。
「やよひ」の語源は、「いやおひ」で、それはもう定説になっているのだとか。
「いやにますます草木が生い繁ってくる季節」、という意味だそうです。
いったい、いつごろから誰がこんなことを言い出したのだろう。
僕には、ぜんぜんピンとこない。
新しもの好きの日本列島の住民がそういうことにときめくのは、「二月(きさらぎ)」のころのことでしょう。すなわち新暦の「三月」ころ、冬の枯れた景色から、あちこちでいっせいに草木が芽吹いてくる。
あるいは山の緑がすっかり勢ぞろいする五月の「青葉」のころ。
そういう意味で四月は、「いやおひ」というには中途半端な季節です。
平安時代の歌に「末野(すえの)の草の弥生(いやお)ひに」というフレーズがあるそうだが、その「弥生(いやお)ひ」と「弥生三月」の「やよひ」が同じだという確証はあるのだろうか。別々のことばとしてあっただけかもしれない。
「末野(すえの)の草の弥生(いやお)ひに」とは、「野原の端っこの草がやけに生い茂っているところに」という意味です。べつに、「弥生三月」のことをうたっているわけではない。夏草でも、「弥生(いやお)ひ」といったのかもしれない。
この場合の「いや」の「い」は、「や」を強調する音韻で、「や」に格別の感慨がこもっているときは「弥」という漢字を当てるのが慣習化していたのではないのか。
「やよひ」の「弥生」には、送り仮名をつけない。「いやおひ」というときは、それと区別するために「弥生ひ」と送り仮名をつけるし、「弥」もあえて「いや」と読む。それは、意味の違う別々のことばであると区別するためだったのではないだろうか。
格別の感慨がともなう「や」には「弥」という漢字を当てた、というだけのことだろうと思う。
平安時代の文献で「やよひ」の語源を規定しようなんて、乱暴すぎる。おそらくこのことばは、文字などもたない時代からあった。もしかしたら縄文時代のことばかもしれない、と思わないでもない。
「いやおひ」が、四月だけの、四月ならではの感慨だとは思わない。四月の感慨が「いやにますます草木が生い繁ってくる季節」だなんて、陳腐だ。古代人をバカにしている。古代人は、自然と一体化して生きていたわけではない。自然を畏れ敬い、自然に対する「疎外感」の中で、人と人が寄り添うようにして暮らしていたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やよい(ひ)」ということばは、おそらく中国から暦が入ってくる前からあった。
弥生時代、あるいは縄文時代から、このごろの季節のことを「やよひ」といっていたのかもしれない。
ただきっちり日にちを決めていなかっただけではないのか。
縄文時代から、ストーン・サークルのようなものをつくって太陽の運行を計っていたことは知られています。
一年でいちばん寒いころを、一年の終わりの初めにしていたとか、そういう季節感はあったはずです。これが、「正月」の起源のはずです。
中国から暦が入ってきて「正月」を知ったのではない。それまでは、ただ「とし」といっていて、今でも「とし」は正月の別名になっている。
一月は、「睦月(むつき)」という。「む」は、「閉じこもる」「止まる」の語義。「睦(むつ)」というのなら、雪の降る中、家に閉じこもってセックスばかりしていたからかもしれない。セックスのときの会話のことを「睦言(むつごと)」という。いや、語源的には、セックスそれ自体のことをいったのでしょう。
「むつ」とは、閉じこもって抱き合うこと。「む」は「閉じこもる」、「つ」は「くっつく」こと。
男と女が別々に暮らしていた古代人にとっても冬は、男と女がひとつ家にこもって暮らす季節だった。人びとの往来がやむ季節。とくに雪国はそうだったにちがいない。
そして二月の「如月(きさらぎ)」は、「着更着」すなわち厚着をする季節だからだ、などといわれたりもするが、これもおかしい。「きさらぎ」は、新暦の三月から四月にかけてのころで、桜の花の咲く季節です。徐々に薄着になってゆくころだ。
「きさらぎ」すなわち「切る、さらに切る」、もう冬は終わったのだ、とぐずぐずしている気持ちを断ち切ってゆく季節をいったのかもしれない。「切りがたきを切る」という感慨。
古代は「通い婚」だったのだから、男は、「もう行かなきゃあ」という。女は、「まだいいじゃないの」という。
男は、そろそろ別の女のところに行きたくなる。旅に出たくなる。男どうしで狩に出かける約束もある。縄文時代だけでなく、弥生時代以降になっても、男が女の家に通ってゆくのが、基本的な暮らしのかたちだった。そういう暮らしに戻るためには、ひとまず別れなければならない。そんな男と女の駆け引きが交わされる季節だから、「きさらぎ」といったのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、「弥生三月」(新暦四月)になればもう、いやでも男と女は別々の暮らしに戻らねばならない。
古代において一年中一緒に暮らしている男と女は、いろんな意味で新しい「出会い」の機会を断念したものたちだけだった。
「やよひ」。
「や」は、「ヤッホー」の「や」。大きく口を開けていちばん遠くまで声が届きそうな発声。弓矢の「矢(や)」は、遠くまで届くもの。
「や」は、「遠い」の語義。
「よ」は「寄(よ)る」の「よ」。
古代の「やよ」は、「やあ」とか「おい」という意味の掛け声だった。
「やよ」は、遠ざかる男を追いすがる感慨。
「ひ」は、「秘匿」の「ひ」。隠すこと。
「ねえ、まだいいじゃないの」という声を飲み込んで男の背を見送る。
いや、ただ長くなった太陽(=日)の動きに対する親しみをこめて「やよひ」といっただけかもしれないが、古代の日本列島には、ひとまず男と女のそういうドラマがあった。
「三月弥生」(新暦四月)は、別れの季節。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
縄文人のほとんどは、日本列島の中部地方以北で暮らしていた。
彼らは、生産活動よりも「恋」に生きていた。男と女の出会いが、彼らの生活の中心だった。
四月は生命力の躍動する季節である、などというイメージは、中世以降の生産活動が中心の時代になってからのことであり、少なくとも古代の庶民は、恋のついでに生産活動をしていただけなのだ。
古代人にとって「三月弥生」は、男と女が抱き合って暮らす冬が終わって、気持ちがぼんやりしてしまう季節だった。そういう心の動きから「やよひ」ということばが生まれてきたのではないだろうか。
また、「いやおひ」が変化するなら「やおい」となるだけで、わざわざ「やよい」といいにくくするはずがない。や行の音韻がつづくのは変化しやすくて、「やよ」が「やあ」になっていったように、「やよひ」だって「やおい」になってゆくはずだが、それでも変化しないで残っているということには、それなりのわけがあるにちがいない。
はじめに「やよひ」ということばがあった。それに語感が似ている「弥生(いやお)ひ」という字を当てていったのではないだろうか。
「や・よひ」ではなく、「やよ・ひ」なのだ、と思う。
「いやおひ」が「やよひ」になったのではなく、「やよひ」がやがて「弥生(いやお)ひ」と混同されるようになっていったのだろう、と僕は思っている。