祝福論(やまとことばの語源)・「生き延びる」という制度性

人が「生き延びる」ためにもっとも大切なものは人と「仲良くする」能力である、と内田樹氏がいっている。
もうそんなことばかりいっている。
内田先生、人間は生き延びようとする生きものである、というその人間観がすでに薄っぺらなのですよ。
「生き延びる」などということばを、よく恥ずかしげもなく振り回せるものだ。
そんなことばで人をたぶらかすものじゃない。
誰もが、生き延びようとしても生き延びられないようにできているじゃないですか。
誰だって、あっという間に老いて死んでゆくだけじゃないですか。
まだ気づかないのですか。
この世の中は、人が生き延びようとすることによって、ややこしいことがいっぱい生まれてくる。
生き延びようとするから、死ぬのが怖くなる。
生き延びようとして、戦争が起きてくる。
生き延びようとするから、他人を排除したくなる。
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派遣切りとかリストラとか、目の前に迫ったその危機を生き延びるためには、仲間を会社に売ってしまうことだ。そうすれば、あなたは生き延びられる。つまり仲間を売ってしまおうとするのは、生き延びたいという強迫観念にせかされるからだ。
そういう人間関係が、これからさらに増えてくるのかもしれない。
あなたの会社でも、そんなどす黒い衝動が、どこかでくすぶっているかもしれない。
あなたは明日、仲間に売られるかもしれない。
人間が生き延びようとする生きものであるのなら、それが人間の本性であるのなら、それはもう仕方のないことだ。
人に嫌われたくないから、がんばって仲良くしようとする。仲良くするためには、共通の敵を持って、一緒に排除しようとすればいい。それがもっとも有効な仲良くする手段だ。
人に嫌われたら、生き延びられない。
仲良くしたいという衝動が強いものほど、人を排除し抹殺しようとする衝動が強い。
仲良くするのが上手なものほど、人を排除し抹殺してしまうのも上手だ。
そして嫌われものほど、人を排除し抹殺しようとする衝動が強い。嫌われものは、そうしないと生き延びることができない。そして、そういう衝動が強いから、嫌われものになってしまう。
仲良くするのが上手なものも、嫌われものも、同じ衝動を抱えている。
生き延びようとするから、そういうややこしいことになる。
「いじめ」とは、仲間と仲良くするための手続きであり、生き延びようとする衝動から生まれてくる。
それは、強迫観念なのだ。
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人びとをそんなふうに強迫しているのは、いったい何ものなのだ。
そんな強迫観念をあおる言説を振り回しているのは、いったい誰なのだ。
あおられて、ひとまず自分は肯定されたとほっとしている人たちがたくさんいる。
ほっとさせてくれる言説を、高級な言説だとあがめて自分をなだめている。べつにあがめたければあがめればいいけど、しかしそれによって、あなたがそのていどの代物だというその状況からもけっして抜け出せないだろう。あんな陳腐な言説をあがめて自分を許している限り、いつかあなたは、パニック症候群になるかもしれない。鬱病になるかもしれない。そういうことの予備軍であることから、死ぬまで抜け出せない。
せいぜいがんばって、幸せでありつづける人生を歩めばいい。
あいつよりおれのほうがましな人間だと、他人を見くびる目を養ってゆけばいい。
内田大先生が養ってくれる。
自分をまさぐってばかりいて他人にときめくことのできない人間になればいい。
他人と仲良くすることばかり上手になって、他人にときめく体験もときめかれる体験も貧しいまま年老いてゆけばいい。
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他人にときめかれる人は、仲良くしようとなんかしない。仲良くすることもなれなれしくすることもつつしんでいる。というか、本格的なそういう人は、そんなことにあまり興味がない。そういう人は生き延びようとする衝動が希薄だから、そういう興味もつよく湧いてこない。そういう人は、「いまここ」のその人にときめいているから、生き延びる「未来」に対する関心が薄い。
仲良くしてしまったら、もうときめくことはできない。仲が良いうという「絆」がつくられれば、もうときめくための「出会い」の関係にはなれない。
その人とは仲良くしているわけではないけれど、会うたびについときめいてしまう。
それは、その人が魅力的な人かどうかということとはあまり関係ない。その人との関係が、いつも「出会いのときめき」が生まれるようなほどよい距離になっている、というだけのことかもしれない。
逆にいえば、人とのあいだにそういう玄妙な距離をつくれる人が、ときめかれる。そしてその人自身も、そういう玄妙な距離で他人と出会いときめいている。
人と仲良くするのはちょいと下手なくらいがちょうどいい。その不器用さが、あなたを魅力的な人間にしている。その不器用さが、そういう玄妙な距離をつくっている。
あなたのその不器用さに、われわれはときめいている。そして不器用であるがゆえに、あなたも人にときめいている。
人と人がときめきを交し合うためには、そういう玄妙な距離(すきま)が必要だ。
少なくとも日本列島の古代には、そのような「出会いのときめき」をもたらす人と人の関係があった。
なぜなら彼らは、われわれほど「生き延びる」ことにあくせくしていなかったし、男女が「仲良く」一緒に暮らす関係をかんたんに欲しがってしまうようなスケベ根性もなかった。
古代においては、「通い婚」や「つまどい」という男女が一緒に暮らさない関係の中で、「出会いのときめき」を交し合って暮らしていた。
男女の仲だけでなく、人と人の関係そのものが、そういうかたちだったのだ。
やまとことばは、そういうところから生まれ育ってきた。
「生き延びるためには仲良くする能力を持たなければならない」などといっていい気になっている頭の薄っぺらな学者にわかる話ではない。