祝福論(やまとことばの語源)・街場の粋(いき)

最近、内田樹氏の周辺では、「街(まち)」ということばがちょっとした流行になっているらしい。
「街場(まちば)」とか、「街的」とか。
その流れで、「九鬼周造」の<「いき」の構造>について、自身のブログで語っておられた。
つまり、「街場の粋(いき)」とか「街的な粋(いき)」とか。
大阪の食文化には「街場の粋(いき)」があるといっている人がいて、内田氏がその説をさかんに持ち上げている。
大阪の食文化はともかくとして、「街(まち)」とは、いったいどんな場所なのだろう。
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「町(まち)」ということばは、もともと田や畑の区画を表すことばだった。1町歩2町歩、というのは、その名残りらしい。
それがやがて、人がたくさん集まっている場所のことをいうようになったのは、田や畑も作物が群がっているからだろうか。
とすれば、「まち」とは「にぎわい」のことだ、ということになる。
「まち」の「ま」は「間(ま)」、すなわち「区画」のことであるが、日本列島の「間(ま)」には、ときめきや充足がある。「間」の外は「何もない」と思い定め、「間」において「ここが世界のすべてだ」と実感してゆくのが、日本列島の歴史的な感性(世界観)である。
「まち」のにぎわいは、「間」のにぎわいである。すなわち「会社」と「家」の「間」に、「まち」がある。
「ち」は、「血(ち)」「乳(ちち)」、「ほとばしり出る」こと。
作物は、土の中からほとばしり出てくる。
家や会社から人がほとばしり出てきて「まち」の「にぎわい」になる。人々の心から「非日常」の感慨がほとばしり出てきて「まち」の「にぎわい」になる。
つまり、人と人の「出会い」と「ときめき」があふれている場所を「まち」というのだろうか。そしてそいうことの上に、「街場の粋(いき)」という文化というか美意識というのか、そんな問題が育ってきたのだろう。
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銀座・六本木の五つ星レストラン。大阪の高級料亭や、うまい串焼きの店や、安いのにとびきりうまい鮨屋。まあ、それぞれ「まち」の文化としての存在理由はあるのでしょう。
ただ、「粋(いき)」の問題として語るとなると、うまいかどうかではすまない問題がある。
べつに五つ星レストランでも大衆的な串焼きの店でもいいのですけどね。たとえば半端な食通連中が「ここの串焼きは最高だ」といっているのと、貧しい浮浪者が場末の安食堂でがさつな定食を息せき切って食らっているのと、どちらがうまいのだろうか。粋人ぶったあの連中がその定食を食べたら、「これは犬の餌か」というかもしれない。
内田百輭が「うまい」というとき、内田百輭のやむにやまれぬ生のかたちとしての「息づかい」がある。
犬の餌みたいな定食を食らっている浮浪者にだって、やっぱりせっぱつまった生の「息づかい」がある。
しかし街のうまい店を紹介しているジャーナリストたちに、そんな「息づかい」があるのか。
いや、「街場の粋(いき)」を語るのに、食文化をむやみに特権化してほしくないというだけのことですけどね。食文化そのものを否定するつもりはない。
ロンドンに行ってきた和食通の男が、「あの町にはうまいものが何もなかった」といっていた。
そうかもしれない。しかし、ロンドンは、たしかに「まち」だ。「ザ・フー」も「セックス・ピストルズ」も「U2」も、あの「まち」から生まれてきた。
ロンドンには、ロンドンの「粋」がある。
それは、人が集まって出会っている「息づかい」のかたちにある。
五つ星レストランでも、粋な客と無粋な客、好かれる客と嫌われる客、そういうことは、、店のものにしっかり見られている。そして逆に、粋なソムリエと無粋なソムリエも、客からしっかり見られていることだろう。
人の「息づかい」は、どこにだってある。五つ星レストランにも、串焼き屋にも、場末の定食屋にも。
東京の食文化の安易なグローバルスタンダードであろうと、大阪や京都や神戸の少々排他的なこだわりの食文化であろうと、そんなことはどっちでもいいのだ。
一般的に「まち」を語るのに食文化を特権化しがちだが、人が集まっていれば、どこだって「まち」でしょう。
そうして、人と「ときめき」を交し合うことのできる「息づかい」を持っていない人間は、どこにいたって野暮にちがいない。
「粋(いき)とは、「息(いき)」のことだ。
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「まち」の「ち」は、「ほとばしり出る」ことの語義。
「まち」は、出かけてゆくところ。そして、人と出会うところ。内田氏のいうような、人と人が仲良くする「共同体」ではない。「家という共同体」と「会社とか社会という共同体」のはざまにあり、そこから「ほとばしり出てきた」人と人が「出会う」空間である。
うまい串焼き屋を知ってりゃ「粋」というものでもない。
また内田氏は、自分の人と仲良くできる能力をさかんに自慢し、それが「まち」を語る資格のように思っているらしいが、人と仲良くするところが「まち」というのでも、仲良くできるのが「粋」というものでもない。そんなことは、会社や学校や家でやってくれ。
「粋」な人は、人に好かれる。そして人に好かれるというのは、「仲良くできる」ということじゃない。
「まち」では、会社からも家からも逃れてきた人が好かれる。
会社や家の気配を消していることを、「粋」という。
「まち」に出かけていった人たちは、人と「仲良くしたい」のではない。人に「ときめきたい」のだ。
日本的な「粋」とは、人と仲良くする手続きのことではない。
知らないものどうしが出会う「まち」では、「仲良くする」ことよりも、ほんのちょっとでも「ああ、感じのいい人だなあ」と「ときめく」ことのほうが貴重な体験になる。
だから、おしゃれをしてゆきもするし、言葉づかいや表情や身のこなしも野暮ではいられなくなる。それは、「仲良くする」ためではない。「ときめき」を交し合いたいからだ。
日本的な「粋」の作法が、人になれなれしくしないということもひとつであるなら、それは、「仲良く」しないで「ときめきあう」ことのできるほどよい「空間(すきま=距離)」をどうつくるかにある。
それは、テクニックというより、もうその人の実存の問題であり、「息づかい」の問題なのだ。
出会ったときに感じる「息づかい」がある。人は「まち」に出ると、妙にそんなものに敏感になる。だから、ふだん以上にうっとうしいと感じることもあれば、新鮮な「ときめき」を体験することもある。
内田氏は「共同体」の評論家であって、「街場」の評論家ではない。そんな人に「街場の粋(いき)」を語られても、背中が痒くなるばかりだ。