祝福論(やまとことばの語源)・「うわのそら」

「粋(いき)」がどうとか、「空(くう)」がどうとか、まあいろいろいっている人がいる。
九鬼周造が何をいおうとしているのか、俺が教えてやろう、と内田樹先生が威張っている。
九鬼周造にもたれかかって「粋(いき)」を語ることが、そんなに「粋」なことなのか。
九鬼周造がなんぼのものか。
「粋(いき)」とは「息(いき)」のことで、それはもう「日本文化」というより「人間とは何か」という問題だろう、と考えている僕などは野暮のきわみであるらしい。
息をするセンス。「生きる」なんて、とどのつまり「息」をすることさ、というセンス。
それはつまり、「空(くう)」の問題でもあるわけで。
ここでいうセンスとは「心の動き」のこと、だから、「センス」にフランス文化も日本文化もないと僕は思っている。
で、「センス」とは「息の仕方」のことでもあるのかな、とも思っている。
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やまとことばの一音一音は、「心の動き」をあらわす動詞である。
「いき」の「い」は、「いのいちばん」の「い」、「何はともあれ」という気分であとのことばの「き」を強調している。
「き」は、「切(き)る」の「き」。「完了」の語義。
それが、「息」であり、「粋」でもある。
「心を切る」「この生を切る」、その切り口のことを「いき」という。それは、「粋」でもあり、「息」でもある。
「いのちを切る」といってしまうと野暮ったいこじつけになるのだが、古代人の、まあそんなような感慨から「いき」ということばがこぼれ出たのだろうと思う。
われわれは、「未来の空気」も「過去の空気」も吸うことができない。「いまここ」の空気しか吸えない。
「いまここ」の空気を吸うことは、「心を切る」ことであり、「この生を切る」ことでもある。
古代人のそういう心の動きのタッチが知りたくて、僕はいま、やまとことばのことを考えている。
「無関心」とは、「心を切る」ことであり、「この生を切る」ことでもあって、心が動かないということではない。
この生が完了しているさまを、「粋(いき)」=「息(いき)」という。
僕は、「うわのそら」で生きられたらいいのになあ、と思っている。
「いき」」ということばは、昔の人のどのような暮らしの、どのような心の動きから生まれてきたのだろう。
そのようなことを考えている僕は、やっぱり野暮なんでしょうね。