内田樹という迷惑・ハードボイルド

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という小説は、ほんとにおもしろかった。僕も人並みに、ぐんぐん引き込まれて、一気に読んでしまった。
そこで思うのだけれど、この小説のタイトルに、村上春樹が「ハードボイルド」という言葉を使った意図はどこにあるのだろう。
「ハードボイルド」の語源は、「かたゆで卵」からきている。
では、ハードボイルド小説とは強くてたくましい男の物語のことかというと、ちょっと違う。
「孤独な男」というような意味らしい。かたゆで卵なんか、あんまり誰も食いたがらない。いつまでもテーブルの隅に置き去りにされてしまっていたりする。そういうことから、たとえば私立探偵のように他人にへつらわないでひとりぼっちで生きている男の生き方を、ハードボイルド、というのだとか。
とすれば、村上春樹のその小説の「ハードボイルド」とは、置き去りにされた、というような意味だろうか。置き去りにされたもうひとつのワンダーランド。
いずれにせよ、村上春樹は、「ハードボイルド」という言葉にはかなりの思い入れがあるのだろう。
平たく言えば、ハードボイルドとは、孤独のこと。
人間存在の孤立性・・・・・・おそらくそんなものが、村上文学のテーマ(主題)なのだ。
内田氏の言う「死者とのコミュニケーション」などというおちゃらけたテーマなど考えていないと思う。
デビュー作の「鼠」とかそのあとの「羊男」といった登場人物は、死者というよりも、身をやつしてこの世に現れた神、というようなイメージなのだろう。そいうかたちで、存在の孤立性を表現しようとしたのではないだろうか。
村上春樹の小説の登場人物は、誰もがコミュニケーションの不可能性の中を漂っているかのようだ。
何にせよ、内田氏ほど人間存在の孤立性から遠い思想家もいないだろうと思える。なにしろ「あなたなしでは生きられない」と臆面もなく言えるのだから、孤立性なんか露ほども持っていない。
持っているふりはよくするけど。
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史上最高のハードボイルド作家は誰かというなら、やっぱりドストエフスキーなのだろうか。
人間存在の闇、孤立性。地獄の底から許しを求めているような狂おしい叫び声。あんな小説を書く作家が、また現れてくるのだろうか。
村上春樹は、きっとこう思っている。俺だって小説家と生まれたからには、あんな「ハードボイルド」な世界を書いてみたい、と。
彼は、かなりドストエフスキーを意識している。
それは、きっとつらいだろう。なまじ世界的な作家になってしまっただけに、そう簡単なところでは妥協できない。
ドストエフスキーの小説は、その当時のエンターテインメントだった。
だから村上春樹も、あくまでエンターテインメントのかたちでハードボイルドな世界を描きたいのだろう。
でも、どこか孤独の底が浅い。それはきっと、ハードボイルドとか孤独ということを意識しすぎるからだろう。世界的な小説を書こうと意識しすぎるからだろう。
なんだか知らないが、このごろの村上春樹の小説は、つくりものじみている。ハードボイルドも孤独も、意識して書くものじゃなく、にじみ出てくるものでしょう。
たとえば、「海辺のカフカ」では、えげつないクレーマーであるフェミニストのおばさんを批判するようなことを書いている。
しかしねえ、内田氏の安っぽいコラムじゃないのだから、そんな短絡的な態度表明はしないほうがいい。僕が一読者として知りたいことは、そうやってクレームをつけることがいいことか悪いことかということじゃない。
小説家なら、どうして彼女のその狂気や情熱に推参しようとしないのか。それが、想像力というものだろう。
すくなくともドストエフスキーは、推参して見せてくれたぞ。そうして、「すべては許されている」というところを書いて見せたぞ。
誰だって「こう生きるしかない」というどうしようもないものをかかえている。そこのところを書いて見せてくれたぞ。
そこのところを書かなければ、「ハードボイルド」には届かない。
ともあれ正直なところ僕には、文学的な次元の「ハードボイルド」とか「孤立性」というようなものはよくわからない。
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いきなり下世話な話になって申し訳ないのだけれど、僕は、ゲイの人を尊敬している。彼らは人間としてとても清潔だし、あんな孤独な生き方もないだろう、と思う。彼らこそ、深い孤独を知っている。
女が子を産むことだって、ハードボイルドな行為だ。女としての値打ちを半分売り渡してしまうことなのだから。
子を産まないで生涯を送る女は、たぶんほんとうの孤独を知っている。
堕胎をした女のかなしみは、男にはわからない。平気で堕胎をする女の心の闇や空虚も、やっぱり男にはわからない。
みんな、ハードボイルドに生きている。
ハードな人生を描けばハードボイルドになるとはかぎらない。不条理は、すべての人の存在そのものの淵に横たわっている。
村上さん、いい小説を書こうなんてスケベ根性は捨てちまえ。小説を書くテクニックの解説なんかするな。小説家であることをやめて、そこで小説を書け。
テクニックではなく、あなたの存在そのものを支払って書け。
あなたよりも、あなたの隣にいる子を産まなかった女の方が、あなたよりもずっと深い孤独を知っている。その心に推参するしか孤独を書くすべはないのだぞ。自分の世界で何とかなるなんて、それは思い上がりだ。
小説家であることは、孤独を描くことのできる資格でもなんでもない。
ドストエフスキー自身は、どうしようもなく甘ったれのいいかげんな男だった。彼は、みずからが孤独を知っていたのではなく、自分を捨てて他者の孤独に推参するすべを知っていたのだ。