内田樹という迷惑・労働という概念の発生2

およそ50万年前の氷河期、原初の人類は、陸続きになったドーバー海峡を渡ってイングランド島という極北の地にたどり着いた。ここから先はもう、人間が住めない氷の世界だった。
50万年前から2万年前までのヨーロッパに生息していたというネアンデルタールの典型は、このイングランド島の住民に求めることができるのかもしれない。
おそらく、ネアンデルタールのメンタリティは、現在のイギリスや北ロシアの住民に色濃く残っているに違いない。もちろん現在の両者のメンタリティには大きな違いもあろうが、それはその後の歴史過程の違いがそうさせたのであって、どちらも原形は、極北の寒さに耐えて生き延びたネアンデルタールにあるのだろうと思える。
たとえば、北ロシアの住民は、およそ5千年前ころからギリシア・ローマなどの地中海沿岸地域の住民による奴隷狩りの対象になり、中世になっても、今度は北欧のヴァイキングやイギリス・フランス・ドイツなどによってアラブ諸国との交易品奴隷にされていた。
それに対してイギリスもかつてはローマ帝国に侵略されたが、ドーバー海峡のおかげで奴隷の流出はほとんどなかったといわれている。つまりスラブ地域と違ってイギリスは孤立した歴史を歩んできたから、それだけより濃くネアンデルタールのメンタリティが残っている、といえる。
(現在の人類学の世界では、その特徴的な骨格が完成したおよそ15万年前ころからの人類をネアンデルタールと呼んでいるが、われわれはひとまず、50万年前から極寒の北ヨーロッパに住み着いていた人類のすべてをネアンデルタールと呼ぶことにする)
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50万年前に極北のイングランド島にたどり着いたネアンデルタールの祖先は、そのころ人類でもっとも大きな群れを組織して暮らしていたはずである。でなければ生き延びることのできない環境であったのだから。
そのころ、テムズ川にはカバがいたそうである。大型の鹿や牛や馬もいたし、マンモスもいた。そういう大型草食獣をチームワークで狩猟して暮らしていた。
現在のヨーロッパサッカーにおいて、北の国のチームは押しなべてチームワーク主体の肉弾戦を挑んでゆく無骨なサッカーをする。北には、チームワークの伝統がある。それは、原始時代においても、北に行くほど大きな群れを形成していたことを意味する。
イギリスは、まさにチームワークの国である。団体競技のスポーツのほとんどは、イギリスが発祥の地になっている。いや、メジャーなスポーツにおいては、すべて、と言ってもいいかもしれない。
50万年前いらい、大きな群れを組織して維持してゆくという人類の歴史は、つねにイギリスがリードしてきた。
大きな群れを組織して維持してゆくという人類の「労働」は、イギリスから始まった。
また大きな群れを組織してチームワークで戦うという「戦争」も、そうやって大型草食獣の狩を発達させていったイギリスが起源である、といえるはずだ。
ラグビーは、イギリス人のファイティングスピリットが生み出した。
格闘技は世界中にいくらでもあるが、チームどうしの肉弾戦のスポーツはラグビーやそこから派生したアメリカンフットボールだけであろう。戦争の本質は、そこにある。
イギリスこそ、戦争の歴史の本家である、と思う。
スペインの無敵艦隊を沈めたのは、イギリス人のチームワークとファイティングスピリットだった。第二次世界大戦ナチス・ドイツに負けなかったのは、イギリスとロシア(ソ連)というネアンデルタールの末裔の国だけである。ナチス・ドイツは、ネアンデルタールに敗北したのだ。かたやチームワークとファイティングスピリットの国であり、いっぽうのロシア(ソ連)は、どんな寒さにも耐え忍ぶことのできるメンタリティと体力をそなえていた。
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労働とは、生産することである。
極北のネアンデルタールは、大型草食獣の脂の乗った肉をたくさん食っていたはずである。そうしなければ、生き延びることのできない環境だった。
もともと人類は、食い物などとりあえず目の前にあるものを食っておくというかたちで生きてきた。しかし彼らは、狩というかたちで懸命に食料を生産していった。
ただそうした大型草食獣との肉弾戦は、あくまで、寒さに耐え忍ぶという「嘆き」をカタルシスに変えてゆく「遊び」の行為であったはずだが、人類が農耕牧畜を覚えて本格的な労働を開始していったときの基礎にはなっているはずである。
いや、それよりも、労働の起源について考える際のもっとも決定的な要素は、イギリス人によって言葉が徹底的な「伝達」のための道具になってしまったことだろう。
伝達という労働。
そういう意味でイギリス人は、根っからの労働する民族なのだ。
大英帝国の勃興とともに生まれてきた近代合理主義は、「人間の本性は労働することにある」という理念の上に成り立っている。そういう迷信に、内田氏は、骨の髄までいかれていやがる。
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ネアンデルタールがチームワークで狩をしていたことは、すでに言葉を持っていたことを意味する。おそらく彼らが最初に言葉を獲得し、50万年かけてその言葉を「伝達」の機能が濃いものに変えていった。
やまとことばが、「伝達」の機能よりも「感慨の表現」を第一義的な機能にしているということは、言葉はそういうかたちで発生してきたことを意味する。
もともと人間は、生きるいとなみを「遊び」にしてしまうことによって人間になったのである。そうして言葉は、密集した大きな群れの中に置かれてあることの「なげき」を表現してそれをカタルシスに変えてゆくという「遊び」であったのだ。
であれば、そういう「なげき」もっとも深くかかえていた極北のネアンデルタールこそ、最初に言葉を獲得した人類であったにちがいない。
人類の言葉は、イングランド島で本格化していった。
もしも言葉がたんなるあいさつの言葉としてはじまったのだとしたら、「おはよう」「こんばんは」「さようなら」「ありがとう」などの言葉は、イングランド島とヨーロッパ大陸でずいぶん違う。おそらくそれらの言葉は、それぞれ独自に生まれてきたのだろう。
「グッド・モーニング」と「ボンジュール」、「サンキュー」と「メルシー」、「グッド・バイ」と「オー・ルボワール」「アディオス」では、ずいぶん違う。これらは、それぞれの地域に最初からあった言葉だろう。
しかし、もともと自分たちが持っていない言葉であれば、それを取り入れる。「たばこ」とか「コーヒー」とか「ポスト」という言葉は、外来語だ。
同様に、多くの英語が大陸に伝わっている。たとえば「〜TION」とか「〜ISM」とか「〜IST」とかという言い方は、ヨーロッパ共通になっている。それは、大陸のそれぞれの国にそういう言い方がなかったからだろう。
たぶん、伝達の機能においては、英語がいちばん発達していた。
文節をつくるときの単語の並べ方とかは、いちはやく文明が発達したギリシア・ローマからイングランド島に伝わっていったように思われているのだろうが、もしかしたら逆かもしれないのだ。
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人類学者たちは、3万年前に言葉を持ったアフリカ・中近東のクロマニヨンという人種がヨーロッパに進出してきてネアンデルタールを滅ぼしたと言っている。だったら言葉も、中近東との連続性がもっとスムーズなかたちで残っているはずだが、ヨーロッパと中近東は、そこにおいて断絶がある。
ギリシア・ローマと中近東は、別の言語圏だった。そして一万年前までの氷河期のヨーロッパにおいては、地中海沿岸よりも北の地域の方が文化がすすんでいた。2万年前の時点において埋葬の文化がもっとも洗練し発達していたのは、ロシアのあたりだったといわれている。
そのころ文化は、北から南に下りてきていた。したがって、言葉の文化もまた北の方が発達していた可能性が高い。
であれば、中近東には、まだそれほど本格的な言語の習慣はなかったかもしれない。もちろん文化的にもヨーロッパから大きく遅れていた。それは、その地域が今のような砂漠地帯ではなくとても住みよい土地だったために、大きな規模の群れが生まれなかったからだ。
しかし氷河期明けの一万年前以降、爆発的に人口が増え、小麦が自生する肥沃なナイル河畔やメソポタミアなどの土地に人が群がり集まってくるという現象が起きた。言葉は、そこで発達したのだろう。彼らの言葉がヨーロッパからの影響が少なくヨーロッパにも影響を与えていないということは、そういうことを意味する。
言葉は、人がたくさん集まっている地域で発達する。言葉の本質を考えるなら、そんなことはあたりまえだろう。だったら、まずイングランド島で本格化したと考えるのがいちばん合理的な筋道であるはずだ。
そしてヨーロッパの言語がすべて、英語が持つ「伝達」の機能の影響をこうむっている。
ただイングランド島は、作物の実りの乏しい荒涼とした土地であったために、原始段階で大きな群れをつくることはできても、氷河期明けの共同体(国家)の歴史が始まったときには、その潮流から大きく遅れてしまった。
人類で最も共同体をつくるのに便利なはずの伝達の機能が濃い言葉を持ち、しかももっともタフなファイティングスピリットとチームワークをそなえた民族が、なかなか本格的な共同体(国家)をつくれなかった。
大英帝国は、いわば、そうした彼らの積年の恨みを晴らす逆襲だったのかもしれない。
人類の「労働」の歴史は、イングランド島から始まった。そしてその思想は、産業革命が起きて「近代」の扉を開いたイングランド島において完成された。
原初において、感慨の表現(=遊び)の道具として言葉が生まれてくる体験をいちはやくしながら、それを「伝達=労働」の道具に変えてしまったのが彼らの不幸であったのか幸福であったのかはわからないが、ともあれ避け難い宿命でもあったに違いない。