内田樹という迷惑・「自尊感情」について

内田さん、あなたはつねづねこう語っておられます。
現代社会の喫繋の課題は、家族の絆を打ち固めることにある」、と。
社会をよくしたいのですね。けっこうなお志だこと。
しかし僕にとっては「どうすればよいのか」という問題はありません。人々はどうしようとしているのかということが知りたいだけです。
われわれは今、家族の絆を打ち固めようとしているのか。打ち固めるのをやめようとしているのか。歴史は、人々がそうしようとしている方向に動いてゆくに決まっているわけで、その流れは誰にも止められない。
なのにあなたは、人々がやめようとしているのを承知で、打ち固めるべきだ、という。
人間は、「こうするべきだ」という方向にしたがって生きねばならないのですか。だったらそれは、小林秀雄の言を借りれば、「人間の代わりに合理的人間を選ぶこと」だということになります。
「合理的人間」こそが人間なのですか。人間というのは、そういうものなのですか。
そんなものじゃないでしょう。歴史は、「大方の人の心のありよう」にしたがって流れてゆくものではないのですか。
間違っていようといまいと、われわれはもうその流れを受け入れるしかないのではないでしょうか。
あなたの指示に従わねばならないのですか。従わせることができると思っているのですか。
いったいその思い上がった「自尊感情」は何なのか。
われわれが今、家族の絆をゆるやかなものにしようとしているのだとすれば、それは、家族の絆が緊密になりすぎているからだろう。そういう契機がなければ、ゆるやかにしようとか、解体しようという衝動は起きてこないはずです。
「打ち固めよ」とあなたにいわれなくとも、すでに打ち固められてあるのです。
戦後の核家族化は、まさしくそうしたコンセプトで進められたのであり、これに少子化が進めば、家族はさらに緊密な集団になってゆくことでしょう。
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内田さん、あなたの分析によれば、先日起きた難波の風俗店放火殺人事件の犯人は「自尊感情」を守ってくれる家族を失ってやけになっていたのだそうですね。
そこであなたは、こう言う。
「家族こそ、傷ついた個人の<自尊感情>を守るセーフティネットである」と
だからすでにホームレスになってしまった彼のそばに家族さえいれば、こういうことにならなかった、という。
そうでしょう。しかし、すべてのホームレスがそんなことをする衝動を持っているかといえば、そんなはずがないでしょう。
あなたの言い方なら、家族を失ったホームレスは、みんなそういうことをしたがるのだ、ということになりますよ。
家族を失ってホームレスになったって、しない人はしないのだ。
というより、彼だけがやりたがったのですよ。彼は、世の中の人間を無茶苦茶憎んでいた。ほかのホームレスはさほどでもないのに、彼の憎しみは特別だった。
問題はそこにある。
彼は、世の中を憎み倒すくらい「自尊感情」が強い人間だった。
興奮する薬を飲んでいたということだが、つまり、幼児体験として植えつけられていた無意識の衝動が噴出した、ということでしょう。
つまり彼の「自尊感情」は幼児体験=家族においてつくられた、ということです。
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自尊感情が守られれば人は救われるのだとあなたは言うけど、自尊感情て、いったい何なのですか。
そんなもの、われわれにはよくわからないのですよ。われわれはたぶん、あなたの半分もそれを持っていない。
われわれはそれを、ひとつの病理感情だと思っている。
難波の放火殺人事件の犯人は、自尊感情にしがみついてしまったのだ。自尊感情に自爆させられてしまったのだ。
自尊感情を捨ててしまっている人間は、たとえホームレスになろうと、そんなことはしない。
自尊感情にしがみついて生きてゆけるのは、あなたのような社会的強者ばかりなのですよ。
あなたは、ホームレスは人間のくずだと決めてかかっている。
しかし、古代の神が乞食の格好をして人間の前に現れるという説話は、世界中にいくらでもある。
乞食やホームレスになることは、神になることなのですよ。
レヴィナス先生は、まさにそうした神のように放浪の旅をしている賢者を迎え入れてユダヤ教を学んだ、とあなた自身が紹介しているじゃないですか。
よけいな自尊感情など持っていなければ、さすらう神になれるのです。
高野聖などの昔の旅をする僧侶たちもまた、乞食の格好をしながら自尊感情を捨てる旅をしていたのですよ。
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弱者になることは、神になることなのです。
だから人は、弱者になってしまうのだ。
ただおろかで無能だからとか、そういうことだけじゃない。
あなたたちは、そういうことにしてしまいたいらしいが。
神になった弱者は、自尊感情などもっていないし、欲しがってもいない。
自尊感情を欲しがるのは、人間の浅ましさなのだ。もちろん僕だって、その浅ましさから逃れることはできていない。
しかし僕は、あなたと違って、われながら浅ましいな、とうんざりしている。
いや僕だけじゃない。たいていの人間は、心のどこかしらでそのことに気づいている。だから「乞食姿の神」という説話が生まれてくるのだ。
若者が擦り切れたジーパンなどの「プア・ルック」をしたがるのも、いわば神になろうとする行為だといえる。というか、そうやって自分の中の自尊感情を処理しているのでしょう。
自尊感情は、浅ましい。
どうです、私ってかっこいいでしょう……という自意識(自尊感情)が透けて見える着こなしほどダサいファッションもない。
神になることは、弱者になることなのだ。
あなたのおためごかしの愛に憐れまねばならないいわれはないのだ。
これは、日本列島の伝統なのですよ。
奈良時代の「ほかいびと」に始まり、高野聖、旅芸人、そして河原乞食として能や歌舞伎が生まれてきた。
あなたの言うように、家族のセーフティネットによって自尊感情が温存されることは、神になる機会を失う体験でもあるのですよ。
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世の中には、乞食やホームレスになってしまうくらい転落することが平気な人もいれば、転落して犯罪者になったり鬱病になったりする人もいる。
その差は、自尊感情を捨てられるか捨てられないかにある。
捨てた人は神になり、捨てられなければ犯罪者になる。
べつにこの世のホームレスがばかでぐうたらばかりでも、それでも彼らは、神なのです。
ばかでぐうたらで、何が悪い。
人間なら、誰だって自尊感情は持っている。しかし同時に、その自尊感情を処理して神になろうとする衝動も持っている。
彼らは、人間のそうした普遍的な衝動の殉教者なのだ。
そうして、処理できないで、犯罪者や鬱病になってしまう人もたくさんいる。
だから、処理しないでもそれを堪能できる社会的勝者になりたがるのも人間だ。それはとても賢い生き方だが、誰もができるわけではないし、それが人間のもっとも正当な生き方というわけでもないだろう。
自尊感情は、家族の中で培養される。人間が家族という制度を持っているかぎり、誰も自尊感情から逃れることはできない。
おそらくあの犯人の自尊感情の飢餓感だって、家族の中で培養されたのだ。彼は自尊感情を喪失したのではない、自尊感情を満たせなくなったのだ。
内田さん、人間の自尊感情を疑うことができないその思想的貧困を、どうかわれわれに押し付けないでいただきたい。
自分が歴史をつくろうとするようなその無知と思い上がりは、目障りです。
「家族の絆を打ち固めよ」なんて、あなたのプライベートな問題でしょう。