内田樹という迷惑・女性的なもの

内田氏の言う「女性的なもの」とは、「柔和さ、ぬくもり、癒し、受け入れ、寛容、慈愛、ふれあい、恥じらい、慎み深さ・・・・・・といった<贈与的なふるまい>」にあるのだそうです。
なんだか、あ然としてしまいます。よくもまあ照れもしないで、こんなくさい言葉を次から次へと並べ立てることができるものだ、と思います。
こんなことを「女性的なもの」として規定されたら、女がいい迷惑です。
どうしてそんな「色眼鏡」で女を見ようとするのか。われわれは、「女性的なもの」の何たるかなど知らない。そんなものは、女に会ってから決める。凶悪な女に会えば、それが「女性的なもの」のイメージになる。そして情けないことに、その凶悪さに「イエス」といってしまう。
たぶん内田氏のいう「女性的なもの」のイメージは、男社会の男たちによって勝手に捏造されたものに過ぎないのであり、女がどんな女であろうと女の勝手です。
内田氏によれば・・・・・・じつはこれこそが人間の普遍的な倫理性であり、「神的なもの」でもある。したがって「神の子」である人間は、この「贈与的なふるまい」を進んで引き受けねばならない・・・・・・のだそうです。
それは、「私」が他者に先んじて引き受けるものである、とも言っています。レヴィナス先生がそう教えてくれたのだとか。
そうしてその「女性的なもの」は、人の一生において、まず「母」としてあらわれる、という。
そうですか。しかしねえ、僕の死んだ母親は、柔和ではなかったし、ぬくもりも与えてくれなかったし、癒してもくれなかったし、受け入れてもくれなかったし、寛容でもなかったし、慈愛などというものとはほど遠い人だったし、ふれあいの体験も記憶にないし、恥じらいや慎み深さなども見せてくれなかった。
いやまあ、そういう側面がまったくなかったというわけではないが、僕にとっての彼女は、あくまでわけのわからない相手だった。内田氏の言うようなそんなおためごかしの言葉が僕の母の本質を語ってくれているとは、さらさら思わない。
僕は、母親をそんな存在だとは見ていないし、それが母という存在の「機能」だとも思っていない。
「私は骨の髄までビジネスマインデッド(機能主義的)な人間なので」と言っている人が、こんなセンチで押し付けがましいことを言うかなあ。
ともあれ「贈与的なふるまい」すなわち「無償の贈与」という言い方は、たしかに「ビジネスマインデッド」です。「無償」とか「贈与」という言葉じたいが、すでに「ビジネスマインデッドな」いやらしい言葉です。
根源的な人間の関係に、「無償」も「贈与」もないでしょう。そんな言葉を使いたがることじたいが、みずからの功利主義的なスケベ根性を晒している。
他人をたらしこむことが好きなすれっからしの俗物は、「無償」とか「贈与」という俗っぽい言葉もとうぜんお気に入りになる。「無償」とか「贈与」という言葉で他人をたらしこみにかかる。
「無償の贈与」だなんて、いやらしい響きの言葉じゃないですか。それは、自覚された瞬間から、押し付けがましくていやらしい行為になる。したがってそれは、論理的に言って「私が引き受けるべき行為」ではない。引き受けることができない。
自覚したら、恥じて隠さねばならない。
もしかしたら、僕の母親はそういうことをどこかで自覚して隠していたのかもしれない、と思わないでもない。いや、たいていの女が、恥じることを知っているがゆえに、そういう部分も持っているのではないだろうか。女なんかほんの少ししか知らないから、あまりえらそうなこともいえないのだけれど。
「無償の贈与」だなんて、恥知らずな人間の言うせりふだ。
「無償」とか「贈与」とか、そんないやらしいことをいうなよ、と「神」はおおせになるのかもしれない。違いますか、レヴィナス先生。
他者にたいする無心な反応が、そういうかたちになればいい、というだけの話じゃないですか。自分から何かを仕掛けてゆくのは、たとえ「無償の贈与」だって卑しい行為なのだ。
それは、隠されねばならない。
「無償の贈与」を押し付けあっている親密な関係なんて、想像しただけでも反吐が出そうになる。
「無償の贈与」で他者をたらしこもうなんて、いやらしい行為だ。この世の中にそんな行為があふれかえれば、誰もが他人をたらしこもうとするいやらしい人間になってしまう。根源的には、他人にしてやるべきことなど、何もないのだ。
ただもう人は、他人に反応して生きているだけだ。反応した結果として、何かがなされるだけのことだ。何もしようとする必要なんかないのだ。
「女性的なもの」がどうちゃらこうちゃら、そんなものは他人に鈍感な人間の世界なのだ。
「柔和さ、ぬくもり、癒し、受け入れ、寛容、慈愛、ふれあい、慎み深さ・・・・・・といった贈与的なふるまい」などという卑しいポーズなんか、誰も持つ必要はない。
世の母親は、そういう「ふるまい」で子供をたらしこみ、子供もそこから他人をたらしこむことを覚えてゆく。けっこうな関係だ。
無心で反応してゆけばいいだけの話さ。そこで、どんな「ふるまい」になろうと、それが人間の自然な反応であるのなら、「イエス」なのだ。
内田氏の言うようなそんな俗っぽいおためごかしが「親密な空間」をつくるとは、われわれは思わない。「イエス」という反応があればいいだけの話さ。
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今日もまた舌足らずな言い方しかできなかったけど、けっきょく親鸞道元の言う「自然(じねん)」というところに行き着くのかな、と思わないでもない。語源だろうと倫理だろうと、そういう問題だろうと僕は思っている。
「女性的なもの」だなんて、そういう押し付けがましく俗っぽい言い方は、内田氏だろうとレヴィナス先生だろうと、やめてくれよという話です。
人間と人間の親密な空間は「女性的なもの」によってつくられる、と内田氏は言うが、われわれはそうは思わない。親密さを解体することが、唯一の親密になる方法だ。というか、親密な間柄においては、絶えず親密さを解体しようとする身振りが交換されている。
平たく言えば、親しき中にも礼儀あり、です。
深くお辞儀をすることは、「あなたを見つめません」という身振りです。それに対して内田氏は「母のやさしいまなざし」こそ親密さの原点である、という。そのやさしいまなざしにたらしこまれた子供は、成長して今度は自分がそうやって他人をたらしこみにかかるようになる。その「やさしいまなざし」で子供をたらしこむのが上手なお母さんを、僕はべつにすてきだとも思わない。
深くお辞儀をする文化のこの国のお母さんは、もともとそういう「まなざし」が希薄だった。西洋のお母さんの「まなざし」ほうがずっとそうしたニュアンスが濃く、さまになっている。だから西洋は、自己主張して他人を説得しようとする文化(精神)風土になっている。
かつて、日本のお母さんの「まなざし」は淡いものだった。
ところが、伝統をかなぐり捨てた戦後のお母さんは、核家族化とともに、西洋的な濃い「まなざし」を子供に向けるようになった。おそらくそこを起点にして、家族崩壊が始まったのだ。親密になろうとするそのスケベ根性によって、親密さが崩壊したのだ。まさに内田氏の言う「女性的なもの」を信奉したからこそ、家族が崩壊したのだ。
言いたかないけど内田さん、あなただって身におぼえがあることじゃないか。
あなたがそんな「女性的なもの」などという暑苦しいものを信奉していなければ、奥さんも娘も、いましばらく家の中にいられたのかもしれないんだぜ。
「女性的なもの」が親密な空間をつくるだなんて、そんな安直でステレオタイプな物語など、われわれは信用しない。
安直に、日本文化は「女性的」である、といってもらっては困る。そういう暑苦しい「女性的なもの」を解体してゆくのが、この国の親密さの流儀だったのだ。