内田樹という迷惑・仏教と虐げられた弱者

「安愚多楽」というタイトルのブログの管理人が、こんなことを語っておられました。
仏教では、世界の悲惨、すなわち虐げられた弱者を朗らかに無邪気に肯定している、と。
かわいそうなのじゃない。弱者は、それじたいにおいて美しく、「イエス」と肯定されるべき存在なのだ、という思想というか世界観です。
なるほど、そういうことだな。
貧しい旅の僧が、道端に餓えて死にそうな子供がたたんずんでいるのと出会った。そのとき僧は、自分が持っている握り飯を与えるべきか。しかし与えてしまったら、自分が飢えて死んでしまう。それでも与えるべきか。
仏教では、この問題に対して、与えるべきだとは言わない。「イエス」と言って(合掌して)通り過ぎればよい、と答えている。与えることのほうが、みずからの優位性を自覚しつつ他者を否定する卑しい行為だ、と言っている。そんなものは、ただの「煩悩」にすぎない。そこで「イエス」と手を合わせて通り過ぎることができるのが「悟り」なのだ、と。
「朗らかに無邪気に肯定している」ことは、じつはこういう切羽詰ったぎりぎりの倫理の問題でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それに対して内田氏や村上龍氏による「大衆侮蔑」の倫理的な発言など、のんきなプチ・ブルの戯れ言だ。なにをかっこつけていやがる。あなたたち自身が、大衆なんだよ。大衆はみんな、大衆を侮蔑しているんだよ。自分の思考や感性がしょせん大衆レベルでしかないことに気づかず、大衆よりも上だとうぬぼれていやがる。あなたたちの言説が大衆の実感を置き去りにするほど高度なものなら、大衆はあなたたちの本を手に取ることもないだろう。
内田氏は、村上龍氏のこの発言に大いに共感し、自分の著書に引用しています。
_________________________________
忘れることのできない写真がある。それは、大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。その人物がある宗教に属しているというだけでその人物の人格や法的な立場とは関係なく差別するのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥じだと感じなくなる。
 わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりしたくない。それは私がヒューマニストだからというより、そういったことが合理的ではないというコンセンサスを作っておかないと、いつ私がひざまずいて通りを磨くことになるとわからないからだ。
 わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だからつねに想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。私たち自身を救うための合理性なのだ。(「恋愛の格差」より)
_________________________________
この写真は、たしか僕も見たような記憶がある。
しかし僕は、あほだから、そんなことをさせる人がどうとかこうとかというようなことは、考えなかった。
だって、その写真に、そんなことをさせる人なんか写っていないのだもの。
その写真に写っている人たちがどんな気持だろうか、ということばかり考えた。
そんな広いスペースの中のそんな微細な一部を歯ブラシで磨いてゆくなんて、ある意味でとても美しく厳粛な行為だなあ、と思った。
たぶん、ヒットラーがそこを歩いて群集に手を振る儀礼の場面を作るためだったのだろうが、そんなことはどうでもよろしい。
そのとき通りを歯ブラシで磨く人は、みずからの生存のすべてをかけてその微細な一部と向き合っていた。その微細な一部が、世界のすべてだ思って磨いていった。そうして、しだいにきれいになってゆく。きれいになってゆくことに心を奪われてしまうことだけが、救いだった。
こんな体験をすれば、すべての世界もすべての他者も、輝いて見えてくるだろう。すべての世界に対にしてもすべての他者に対しても「イエス」とうなずかずにいられなくなるだろう。なにごとに対してもだれにたいしても、こんなせつない気持で向き合えれば、僕も少しはましな人間になれるのかもしれない、と思った。
でも、いつの間にか忘れて、愚かな人生を生きてきてしまった。
まあ、彼らだって、そういう状況に置かれたからであって、もともとそういう心の持ち主だったからというのでもない。
「立場」が、その人の人格や思想をつくる。持って生まれた頭のよさとか清らかな人格とか、そういうことは関係ないのだし、頭のよさや人格を自慢したがるやつほどげすな野郎もいない。
僕は、虐げられた弱者の心の動きや世界観を尊敬する。この写真は、ひとまずそういうことを教えてくれた。
だから、自分が「ひざまずいて歯ブラシで通りを磨く」ことになってもかまわないという気分がどこかにある。そういう人を尊敬しているから、なりたくないけど、なってもしかたないという気分がどこかにある。
自分がそうならないためにそういう「コンセンサス」をつくっておく必要がある、だって?村上龍氏も、読者の大人たちも、社会を背負って生きているつもりのおまえらの想像力は、そこまでなのだ。
なにが「私たち自身を救うための合理性」だ。おめえみたいなゲス野郎が救われなければならない合理的な理由がどこにある。救われるべきは「通りを歯ブラシで磨いている人たち」だろうが。そして、誰も彼らを救うことはできない。なぜなら、その瞬間の彼らこそ、真に救われたものたちだからだ。
「通りを歯ブラシで磨く人たち」をかわいそうだと思うことくらい、どんな凡庸な大衆だってできるさ。かわいそうな人たちだとさげすみ否定することが、そんなご立派なことなのか。不細工なゲス野郎が、何を気取ったことをほざいていやがる。この世の中は、そういう凡庸な感傷だらけだ。
「通りを歯ブラシで磨く人たち」の非凡さを想像すれば、われわれはもう「イエス」というしかないではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏によれば、戦後の日本が高度経済成長で失ったもっとも大きなものは、貧しい人を助けてやろうとする「愛」であるのだとか。そして現在の中国も、オリンピック後の高度経済成長によって同じ道を歩むだろう、と言う。
豊かになるとは貧しい人を救ってやるよろこびを得ることなのに、日本人はみなそれをしなくなった、といって嘆いておられる。
いやほんとうは嘆いているのではなく、そうやって他人を安く見積もり、自分がいかに清らかな人間であるかを自慢しているわけです。
豊かになれば、だれだって貧しい人を救ってやろうという気になる。内田さん、あなただけじゃない。現代の「プチ・ブル」化した日本人は、たいていあなたと同じように思っているのですよ。あなただけが清らかなのじゃない。あなたも、そういういやらしい日本人のひとりだ、というだけのことだ。
貧しい人を助けてやろうという気持なんか、たいていの日本人が持っている。なのに、俺以外のほか者は持っていない、と言いたてる。自分を正当化するために他人を安く見積もる、あなたはいつもそういう視線で語っている。
今ほど個人の「ボランティア」志向の強い時代もないじゃないですか。
人におごってやるのは、気持のいいことだ。貧乏人ほど、その気持のよさを知っている。「貧しい人を助ける」なんて、貧乏人根性なのだ。
貧しい人なんか、助けてやる必要はない。「イエス」と言って通り過ぎればいいだけだ・・・・・・と仏教では言っている。彼は、あなたより美しい存在なのだ。助けてやることが美しい行為だなんて、助けてやる自分が美しい存在だなんて、思い上がるのもいいかげんにしろ。
内田氏も村上龍氏もその薄汚い自意識は、なんとかならないのか。目障りでしょうがない。
虐げられた弱者は、それじたいにおいて美しい存在なのだ。彼らは、われわれよりも「死」に近く、より純粋なかたちで「生きてある」状態に置かれている。われわれのこの「生」も「死」も、彼らに問うしかない。レヴィナス先生みたいに俗っぽく言ってしまえば、彼らこそ「神」あるいは「仏」に近い存在なのだ。
このことを自覚するなら、われわれの取るべき態度はもう、彼らに向かってひざまずくことしかない。旅の僧は合掌して通り過ぎればよい、という仏教の思想は、そういうことなのだ。そしてじつは、誰もがどこかしらにそういう感慨、すなわち虐げられた弱者を尊敬して「イエス」とひざまずいてしまう感慨を抱えて生きている。
だからボランティアが流行るのだ。われわれは、「死」からもこの「生」の純粋なかたちからも、じつに遠く離れてしまった・・・・・・という感慨が、現代人の誰の中にも疼いている。そういう喪失感を抱えて彼らは、ボランティアに馳せ参じているのだ。そしてこの感慨は、女や若者ほど切実に抱えている。
最近、「蟹工船」というむかしの小説がとつぜんブームになったのも、切羽詰った立場に置かれた人たちをそのままのかたちで「イエス」と肯定してしまう感慨が、誰の中にもどこかしらで疼いているからかもしれない。
かわいそうだから助けてあげなければならない、という気持がそんなに清らかで合理的であるのか。人びとは、そういうことに疑問を持ち始めている。それは、ほんとうに他者を肯定する身振りであるのか。
そんなものは、ただの自己欺瞞だ。
あなたはそこで、「イエス」と言って手を合わせることができるか・・・・・・仏教では、そう問うているのだし、秋葉原の事件が起きたりする現代のわれわれは今、その問題と向き合わされているのかもしれない。
そうして自分を正当化することに忙しい大人の男たちばかりが、「愛」だの「私たち自身を救うための合理性」などとかっこつけたことをぐだぐだとほざいていやがる。