内田樹という迷惑・虚をつくテクニック

オリンピックもやっていることだし、スポーツに関することを少し書いてみます。
内田氏は、「虚をつく」というテクニックのことを次のように語っています。
_______________________________
武道の稽古をしていると、不思議なことがいろいろわかってくる。術において相手の「虚を衝く」ということができるのは、相手とわたしのあいだに「親密の場」が成立する場合だけだ、というのもそのひとつである。わたしと他者が敵対的な個体にとどまっているかぎり、「術」はかからない。わたしたちが稽古をしている「抜き」や「浮かし」や「気の感応」といった術理は、まさしく自他の「親密圏」の創出のためのものである。「先を取られる」と、私たちの身体は自動的に「先」を「追う」ようになる。それは甲野善紀先生の述語を借りれば「身体がセンサーモードにシフトする」ということであり、皮膚感覚の感受性が最大化し、筋肉がゆるやかに伸び、目が半眼に閉じ、相手を「受け容れる」体制になる、ということである。それは、ある種のエロス的な体感に近い。武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。相手が私の身体の一部になったとき、つまり私の手足のような、私自身の分かちがたい、親しみ深い一部になったときにのみ、活殺自在の術は遣うことができる。
_______________________________
内田氏は、師範どうしの勝負になると、勝率は一割くらいなのだとか。負けてばかりいるらしい。負けてばかりいてもいいのだけれど、だったら、どうして負けてばかりいるのかということ、つまり自分がどうして虚を衝かれてしまうのか、ということも考えたほうがいいのではないのだろうか。
たしかに、相手に対して親密な気分があれば、相手の心や体の動きがよく見えて、どこに「虚」があるか、なんとなく気配でわかってしまう。
右の足ばかり気にして左の足に対する意識が疎かになっているとか、足の構えを気にするあまり上半身の動きがぎこちないとか、そういうことがよくわかる。
では、「虚を衝かれる」がわはどうかといえば、相手の体制や心の動きがよくわかっていないからでしょう。
疑心暗鬼になっている。
あるいは、自分の体のことばかり気にして、相手の体の動きに対する反応が鈍くなっている。
そういうときに「虚を衝く」という術がかかる。
内田氏がなぜ虚を衝かれてばかりいるのかといえば、自分の体のことばかり気にして、相手の体さえも自分の体の一部のように思ってしまっているからでしょう。
「ひとつ」になってしまうから、虚を衝かれるのだ。
相手の体は、自分の体ではない。だから、自分の思い通りには動いてこない。そのつど反応してゆくしかない。そういう心構えができていないから、すぐ虚を衝かれるのだ。
相手に甘えてしまっている。そうして自分の思い通りに相手を動かそうとたくらんでいるから、虚を衝かれる。
上の引用文は、内田氏がなぜ虚を衝かれるか、ということの説明として成り立っている。
内田氏は、「相手の体は自分の体ではない」という単純な事実を深く思い知っていない。自分のことばかり考えて相手をたらしこもうとしている人間は、そうやって、かんたんに虚を衝かれてしまう。
運動神経というのは、単純に「身体感覚」というよりも、人格の問題である。いい人格とか悪い人格とか、そういうことではなく、みずからの身体に対する意識を消去して相手の身体や空間に憑依してゆく。他者にたいする疎外感の裏返しとしての人恋しさ、そんなようなところで運動神経がはたらいている。
内田氏のように「親密圏」を前提にして他人をたらしこむようなことばかりしている人間が鈍くさい運動オンチであるのは、当然のことなのだ。
みずからの身体に対する意識を消すことができないから、虚を衝かれるのだ。
みずからの身体に対する意識にこだわっていると、どこかに「虚」が生じてしまう。みずからの身体をすべて「虚」にしてしまうことが、「虚」を生じさせない方法なのだ。
相手の身体に憑依するとは、それをみずから身体の一部とみなすことではなく、みずからの身体に対する意識が消えることなのだ。
「エロス的な体感」と内田氏はいうが、それは、自分の身体を感じることではない。自分の身体に対する感覚が消えて、相手の身体ばかりを感じることだ。
セックスのときの女は、バギナの存在を忘れてそこに入って来ているペニスばかりを感じている。男だって、女の体のやわらかさばかりを感じている。
「自分の身体ではない」ものとして相手の身体を感じること、それが「エロス的な体感」であり、内田さん、あなたはそういうタッチ、すなわち自分の体に対する意識を消すタッチを持っていないから、相手にたやすく「虚」を悟られてしまうのですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・
「虚を衝く」というプレーは、身体感覚ではなく、イマジネーションによって生まれる。サッカーの練習で、「ロンド(輪舞)」というのがあります。数人が輪になり、その中にひとり「鬼」を置いて、ボールをまわしてゆく。ボールを取られた人が「鬼」を交代する。
で、オランダのフェイエノールトにいたころの小野伸二という選手は、チームメイトから「ロンドの王様」といわれていた。誰よりもかんたんにボールをさばきながら、けっして「鬼」に奪われることがなかった。「鬼」は、いつも虚を衝かれていた。
なぜか。
小野のキックはスイングの幅が小さいから、予測がつきにくい。いきなりボールが飛んでくる。そうして彼は、誰よりも人なつっこい人間だから、相手はつい気を許してそのフェイントの動きに引きずられてしまう。そういう「親密さ」のオーラを持っている。とくべつ早い動きをしているわけでもないのに、つい虚を衝かれてしまう。そうしてアイデアがじつに豊富で、しかもそのアイデアを実現させることのできる変幻自在のテクニックを持っている。
世界中のクラブを渡り歩いてきたベテラン選手でさえ、こんなすごいやつ見たことがない、と舌を巻いたのだとか。
「親密さ」とは、自分の身体のことは忘れて「世界(他者)」に憑依してゆくことです。そのとき小野は、イマジネーションだけでプレーしている。
「親密さ」とは、身体を忘れたイマジネーションのことだ。小野自身が身体のことを忘れているのだから、相手に予測がつくはずもない。
「虚を衝く(フェイント)」プレーは、身体感覚ではない。武道の言葉でいえば、みずからの身体の「気」を消すこと。小野は、イマジネーションに遊んで、みずからの身体の「気」を消してしまうのがうまい。それに対して内田氏は、身体感覚にばかりこだわって「気」を消すことができないから、虚を衝かれてしまう。みずからの身体感覚にばかりこだわっているから、自分を捨てて自分と相手とのあいだにある「空間」に憑依してゆくことができない。「術がかかる」とは、じつはこの「空間」に対するイマジネーションによって起きていることなのだ。
「親密さ」のオーラによって相手の意識をこちらの身体に引きつけておき、自分は相手とのあいだの「空間」をイメージしてゆく。そうやって「親密さ」を解体してゆくのが、「虚を衝く」というプレーなのだ。
話がややこしくなってきたけど、ようするに武道の達人や一流のスポーツ選手は、「皮膚感覚の感受性が最大化し、筋肉がゆるやかに伸び」などという身体感覚からは、すでに解放されているのです。そういう身体感覚から抜け出ることができなければ、一流にはなれない。
けっして相手と「ひとつ」にはならない。自分の身体ではない存在として相手の身体を感じながら、相手とのあいだに横たわる「空間」を察知してゆく。その空間に遊ぶイマジネーションによって「虚を衝く」というプレーが生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
スピード社の水着は、体を締め付ける。締め付けられると、体のことを忘れてしまう。体がなくなってしまったような感覚がある。
選手は、イマジネーションで泳いでいる。スピード社の水着をつけていると、疲れてくる後半になっても体のことを気にせず、イマジネーションだけで泳ぎきってしまうことができる。
身体感覚を意識したとたん、選手の体は浮力を失ってしまう。
それは、身体感覚が豊かになる水着ではなく、身体感覚を消す水着なのだ。
先頭を争っているマラソン選手は、どこでスパートするか。
相手が体やランニングフォームを気にし始めた気配を察知して、勝負をかける。
その「虚」を衝く。
たとえば、体をリラックスさせるためにちょっとだけ両手をだらんと下げて走るとか、そんなしぐさだって、相手にすきを見せることなのだ。一流選手は、相手の息づかいでわかる、という。
体のことが気になりだすと、もう相手のスパートについてゆけない。体は、動けと命令することによって動くのではない。いわばチューブのように続いている目の前の「空間」に入ってゆくイマジネーションによって動いている。体のことが気になってきたり心が乱れてくると、そういうチューブがうまくイメージできなくなってしまう。
意識が動けと命令するだけでは、体は動かない。命令して動くのなら苦労はない。
死に物狂いでついて行け、と観衆は要求するが、そんなものじゃない。いったん見失ったチューブは、そうかんたんには復元できない。
生き物がまっすぐ歩く(走る)ことができるのは、身体感覚によってではなく、目の前の空間にチューブをイメージすることの上に成り立っている。身体感覚だけすむのなら、目をつぶってでもまっすぐ進めるはずだが、必ずへんな方向に曲がっていってしまう。
体操選手の宙返りや、スキーのジャンプの選手のフライトは、空間のチューブに入ってゆく感覚によって、その恐怖心が克服されている。
ラソン選手だって、身体感覚で走っているのではない。身体のことを忘れたイマジネーションで走っているのだ。