内田樹という迷惑・オムツのいらない育て方

赤ん坊は、この世に生まれてきて、まず「空間=空気」と出会う。
そうして「おぎゃあ」と泣く。
いったいこの気配はなんだろうと、恐れおののく。
われわれは、この世にうまれてきて、まず「空間」=「ない」という世界に気づく。
そののちに、「ない」の反措定としての「ある」に気づかされる。
つまり「ないではない」という対象世界が、彼の前にあらわれる。
それがおそらく「母親」であり、そうしてひとまず安堵する。
べつに「やさしいお母さん」だからではない。
「ある」という対象と出会っていることの安堵。
子供は、母親を存在そのものとして肯定している。
やさしかろうと凶悪だろうと、そんなことは関係ないのだ。
ともあれ、この世界は、「ない」の上に成り立っている。「ない」という認識を持っているからこそ、「ないではない=ある」という認識にたどり着くことができるのだ。
「ある」から、「ない」という認識を導き出すことは、決定的に不可能です。「ある」という認識しか持たない意識、すなわち「ない」を知らない意識が、「あるではない」と認識することはできない。
意識は、最初に「ある」という認識を持ってしまったら、永久に「ない」という認識にたどり着けない。つまりそれは「ある」も「ない」もない世界であり、はじめに「ある」と認識することじたいが、決定的に不可能なのだ。
意識は、「ないではない」と認識することによって、はじめて「ある」に気づく。
子供は、「ない」という認識を根源において抱えているからこそ、「ないではない=ある」という対象の母親を肯定する。
認識の根源は「ない」であり、この認識の上に母と子のスムーズな関係が成り立っている。
やさしかろうと凶悪だろうと、そんなことはひとまず関係ないのだ。
内田氏のいう「女性的なもの」すなわち「柔和さ、ぬくもり、癒し、受け入れ、寛容、慈愛、ふれあい、恥じらい、慎み深さ・・・・・・といった<贈与的なふるまい>」をたっぷり備えたお母さんがそれでも子供との関係に失敗することは、世間ではけっしてめずらしい事態ではない。
それがあたりまえの前提であるなら、ありがたくもなんともない。
やさしいお母さんだから子供は慕うのではなく、「ない」という事態に対する畏れやおののきを持っている子供が、お母さんを慕うのだ。
お母さんがやさしかろうと凶悪だろうと、そんなことは関係ない。
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内田氏は、三砂ちずるという人の「オムツのいらない育て方論」を支持して、母親が子供にちゃんとついていて「コミュニケーション」をとっていれば、オムツなんか一ヶ月で取れる、そういう育て方をするべきだ、といっています。
赤ん坊は、生後一ヶ月もすればおしっこやうんちが出そうだというシグナルを発信できるようになるのだそうです。そのシグナルを察知して、すばやくトイレに連れて行けばいい。そうやって自分が発信したシグナルが母親に聞き届けられたという体験を重ねてゆくことによって、コミュニケーション能力が豊かに育ってゆく、というわけです。
ほんとにそれで現在の家族崩壊が解消されるというのなら、やってみればいい。
コミュニケーションといえば聞こえはいいが、母親をたらしこむ方法をそのときから身につけて育った子供がどんな大人になるか。なんだか薄気味悪い話です。
たぶん内田氏の子供時代みたいに、ませくれたガキばっかりになってしまったら、どうするのか。
だいいち、それが子供の発信する「シグナル」だと、どうして決め付けられるのか。
子供はただ、身体の変調にむずがっているだけかもしれない。
そんな、転ぶ前の石ころをどかしつづけるような押し付けがましい行為によっていい子が育つとはかぎらないでしょう。
子供は、世話をしてくれるやさしいお母さんを必要としているのだとは、僕は思わない。
お母さんの存在そのものが、子供に何がしらの安堵を与えているということは認めなくもないけど。
やさしかろうと凶悪だろうと、どっちでもいいのだ。
凶悪なお母さんから、凶悪な子供が育つとはかぎらない。
お母さんのいない子供は、コミュニケーションのできない大人になってしまうともかぎらない。
子供はみんな、自分の置かれた状況を世界のすべてと受け容れて育ってゆくのだ。
とりあえず僕が思うには、おしっこが出そうになったらさっとトイレに連れて行ってくれるお母さんなんて、そんなことがあたりまえになってしまったら、ありがたいともおもわなくなってしまうだろうということです。
ちゃんと世話してやれば子供に慕われるなんて、そんな単純な図式の上に母子関係が成り立っているわけでもないでしょう。
お母さんの「不在」を知っている子供が、お母さんを慕うのだ。たとえ凶悪なお母さんであっても。
「不在」でありすぎても困るだろうけど、そういう不安を体験することが無駄だとは思わない。
「ない」という認識をこの生の前提として持つこと、それは、この世に生まれてきた赤ん坊の最初の通過儀礼であろう、と僕は思う。
内田氏が鈍くさい運動オンチであるのは、そういう認識を「空間感覚」として持つという通過儀礼に失敗しているからではないのか。
まあその代償として、人をたらしこむのが上手なおえらい大学教授になられたのだから、それはそれでひとまずめでたいことではあるのだが。
「私」と「あなた」のあいだには、コミュニケーションが不可能な「空間」が横たわっている。私たちはコミュニケーションを解体して、たがいの身体のあいだに「空間」をつくる。「空間」をはさんで、私たちはときめきあっている。
このコミュニケーションの不可能な「空間」こそが、あなたの存在を輝かせている。
そういう人間存在のかたちというのは、やっぱりあると思うのですがね。
内田氏の言う「コミュニケーション」なんて、ただ他人をたらしこんでいるだけのことじゃないか。「オムツのいらない育て方」なんて、母と子がたらし込み合っているだけじゃないか。
子供は、「ない」という「空間」の向こうに母親を発見し、慕っているのだ。
母と子の「絆=コミュニケーション」によって、母を慕うのではない。母の不在による「ない」という認識と、母の存在と出会っている「ある」というに認識、このバイブレーションがあってはじめて母を慕う気持になる。少なくとも生まれて間もない赤ん坊にとっては、コミュニケーションなんか関係ない。いやその後においても、子供は、母親の存在そのものを、慕い、受け容れているのだ。
自分がこの世界に「個体」として存在していることを認識することは、最初の大切な通過儀礼でしょう。
オムツが濡れて「おしりがぐしょぐしょになる」ことの不快感を体験することだって、けっして無駄ではないはずです。人は、そういう身体の不快を知ることによって、身体からの解放としての快楽(エクスタシー)を汲み上げることもできるのだ。
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「オムツのいらない育て方」をされてコミュニケーションの能力を獲得していった効果として、内田氏はこういう。
「これがそれから後の子供の人生にどれほどゆるぎない基礎を与えることになるであろう。どれほどの<余裕>と、<お気楽さ>と、<笑顔>と<好奇心>をもたらすことになるであろうか。」
「余裕」や「お気楽さ」のない人もいていいではないか。人さまざまだろうが。まったく、癇に触ることばかり言い立ててくる人だ。そうやって人をたらしこむのが上手な人間としてのうのうと生きてゆくだけが、人間の生き方でもないだろう。
うんざりして生きようと、泣き暮らして生きようと、ひとりぼっちで淋しい思いをして生きようと、どれもみなその人だけの人生じゃないか。
人生は、お気楽で幸せでなきゃいけないのか。
個体としての「孤立性」をどういうかたちで獲得してゆくかということも、生きて死んでゆく生き物にはそれなりに必要なことだろうし、そういう気配がその人の魅力になっていると思わせられることはよくある。
内田さん、「幻滅」という「デカダンス」を持っている人間だけが汲み上げることのできる快楽(エクスタシー)もあるんだぜ。あなた、知らないだろう。
俺みたいに生きろ、てか。
よけいなお世話だ。
最後にセンチなことを言わせていただければ、内田さん、子供が母親を慕う気持は、あなたが考えるよりもずっとペシミスティックでせつないものなのですよ。
あなたは、人間のペシミズムやせつなさに対する想像力がなさ過ぎる。
そんな馴れ合いの母子関係をつくることによって問題が解決するとは、僕は思わない。
たぶん、それがかえって子供をいらだたせるのだ。
そんな「お気楽」で「余裕」のある生き方だけを勧奨する時代は、バブルの崩壊とともに終わっているのだ。
あるいは、植木等の「スーダラ節」のごときを蒸し返したいのか。
われわれが今必要としているのは、どんなに愚劣で淋しく悲惨な人生であろうと「イエス」といえる視点なのではないだろうか。
豊かで平和な時代であるからこそ、人びとは、ほんの少しの愚劣さや淋しさや悲惨さで挫折してしまう。
内田さん、あなたのその論理は、「お気楽」で「余裕」のある生き方のできないものはさっさと自殺してしまえ、といっているのと同じなのですよ。