内田樹という迷惑・男と女のあいだ

養老孟司先生は、生き物になぜ「雌雄(オスとメス)」が発生したかということがどうしてもわからない、とても大事で気になることなのにどうしてもわからない、とおっしゃっています。
先生、それじゃあ困るのですよ。あなたは、学者でしょう。言ったからには、何でもいいからたたき台ととしての「仮説」を提出してくれないことには、われわれは立ち往生してしまう。
学問の本質は、アナロジー(類推)にある。仮説とはアナロジーのことでしょう。
むかし、伝染病は細菌によって媒介されている、と仮説を立てた学者がいた。その仮説をもとにして、細菌が発見された。細菌を発見することなどたんなる手続きのようなものだが、細菌が媒介しているにちがいないという仮説を立てることは、思考力や想像力がなければできない。そうやって類推してゆくことこそ、いわば学問の王道であるはずです。医学だろうと物理学だろうと、王道は「基礎学」でしょう。
学問の本質はアナロジーにあり、アナロジカルな思考の訓練を積んでいる人のことを「学者」というのではないのですか。だったら養老先生、あなたほどの優秀な学者なら、とりあえずの仮説を提出して見せることくらいわけないでしょう。
一方、今をときめく分子生物学者の福岡伸一という人は、雌雄の発生について、「単体生殖のリスクを軽減するため」と言っているのだそうです。
まあ何もいわない養老先生よりましかもしれないが、言ってることの内容はくだらない。
「・・・・・・するため」だなんて、そんなもの、とっくのむかしに滅びた進化論でしょう。近代合理主義に冒された人間は、すぐこういう功利主義的なことを言う。
「リスクを軽減するため」とか、「効率を求めて」とか、そういう安直な「下部構造決定論」では、現在の経済理論も進化論も成り立たなくなってきているのだ。
内田氏が語る人間の原初の歴史など、すべて下部構造決定論のレベルでしかない。それは、想像力の貧困であると同時に、人格的な発想の卑しさでもある。
進化論や人間の原初の歴史は、そうした下部構造決定論では説明がつかないからミステリアスで面白いのだ。
進化に目的や意志なんかない、とにかくなるようにしてなっただけだ、と今西錦司は言っている。この言い方のほうが、おそらく最先端の進化論にずっと叶っている。
生きものが「生きてある」とは、「状況(環境)を受け入れる」といういとなみにほかならない。
畑に殺虫剤に強い害虫が生まれてきたのは、殺虫剤に強い身体をつくろうとしたからではない。殺虫剤のある環境を受け入れていった結果として、殺虫剤に強い身体になっただけだ。
進化に目的や意志などない、なるようにしてなっただけだ・・・・・・まったくその通りだと思う。「リスクを軽減するため」だなんて、そんな擬人化したものの言い方はやめてくれよ。そんな通俗的なスケベ根性の延長で進化論を語られてもだれが信用するものか、という話です。
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小林秀雄は、こういった。
マルクスの下部構造決定論は侮れない。しかしそれに負ぶさるだけでは芸がないこともたしかだ」と。
ひとまず僕は、この態度を踏襲したい。
200万年前の原始人が人類史上初めて「石器」というものを持ったとき、彼らはこれで動物の骨や硬い木の実を砕くことができるかもしれない、と思った。薄っぺらな石の破片を手にして、これで動物の肉を切ることができるかもしれない、と思った。そういう「類推する」思考のはたらきが、人類に「文明」をもたらした。
ところが養老先生と同じ思考形式の持ち主であるらしい内田氏は、大見得切ってこう言っています。
「文明とは要するにそこに境界線を引く必然性のないところに境界線を引いて、アナログな連続体をデジタルな二項対立に読み替える詐術にほかならない」
つまり内田氏は、石器になる石とならない石の区別を発見したのが文明の発祥である、と言っているわけです。石器を持つ前から石器のことを知っていた、というわけです。こんなとんちんかんな話がありますか。石器を持った「結果」として、石器になるかならないかの識別ができるようになっていったのだ。
最初は、野原に落ちているただの石ころを、骨や木の実を砕く道具として(アナログな連続体として)類推していったのが始まりでしょう。
そうして現代文明や知識の最前線としての相対性理論ミラーニューロンの発見も、ひとつの類推する仮説として提出されたものであるはずです。
文明や知識の発展(進化)をうながす本質は、アナロジーにある。
「デジタルな二項対立」は、発展(進化)の「結果」に過ぎない。
「である」ものと「ではない」ものとの二項対立など、「である」ものが生まれてきたことの「結果」に過ぎない。「二項対立」が本質になってそこから文明や知識がはじまることなど論理的にありえないし、現代のもっとも高度な学問である「基礎学」においてもアナロジーの上に成り立っているのだ。それによって、文明や知識が発展(進化)してきたのだ。
しょせんあなたたちは、二項対立の上でしかものが考えられないのだ。それは「近代」の病理でもある。
養老先生の雌雄の発生の考え方だって、「まず雌雄がつくられた。くっ付くことを前提にして雌雄が分けられた。そこのところがよくわからない」というようのものです。つまり、はじめに「二項対立」があった、というところから考えている。これが、この人たちの思考の限界だと思う。
「まず雌雄がつくられた」のではない、「アナログな連続性」としてしだいに雌雄になっていったのだと思う。
石器になる石とならない石を分けたのではない。ただの石ころを石器として類推していったように、ときどき生まれてくる風変わりな(不完全な)個体が、しだいに雌雄になっていったのだ。
養老先生は「くっ付く」ことを、生殖の目的を持った性行為、というレベルで考えている。
しかしわれわれは、そうは考えない。原生生物から人間まで、体を動かせて生きている生物は、他の個体をよけて動こうとする本性を持っている。ぶつかることは、体が動けなくなるということです。つまり「くっ付く」ことは、よける機能を喪失したときに起きる。そういう「不完全な個体」が「雌雄」になっていったのではないだろうか。
生殖のためではなく、よける機能を喪失した結果としてくっ付いていったのではないだろうか。
つまり「雌雄」は、「対立する二項」としてではなく、不完全な個体どうしの「アナログな連続性」から生まれてきたのではないだろうか。
養老先生は教えてくれないし、福岡先生はくだらないことを言ってくるし、しょうがないから、ひとまず自分でそんなふうに考えてみました。
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単細胞生物のアメーバは、単体生殖する。自分の体が分裂して増えてゆく。
そこでもし逆に、この単体どうしがくっ付いて二個の細胞からなる新しい種が生まれたなら、この種は、分裂して単体生殖できない。分裂したら、一個の細胞になってしまう。
いや、すべて同じ細胞なら、10個が分裂して5個になっても、それじたい「1」でもあるのかもしれない。
とりあえず、単細胞のアメーバを最初の生物だとするなら、そこから二つの細胞からなる生物が生まれてきた。これが、「進化」の最初のステップでしょう。
アメーバが、他の個体をよけて動くことができるのは、体のまわりに動く繊毛があるからだそうです。それによって水流が起きているから、近づいたらおたがい離れてゆくようになっているらしい。
では、この繊毛を持っていないか、繊毛がひどく貧弱だったらどうなるか。とうぜん、ぶつかり絡まりあってしまう。そうして、何かのはずみでくっ付いてしまい、二個の細胞からなる新しい「種」が生まれる。
あるとき、もっとも不完全な個体どうしがくっ付いてしまった。
完全なアメーバは、アメーバ以外のものにならない。しかし不完全なアメーバは、不完全であるがゆえに、アメーバ以外の種になってしまう可能性を持っている。
これが、「進化」の原則なのではないでしょうか。
進化するとは、「不完全」になってゆくということだ。
たぶん、猿としてうまく生きてゆけない猿が、人間になったのです。
優秀な猿が人間になったのではない。
人類学者は、4万年前、アフリカの優秀なホモ・サピエンスがヨーロッパに進出していって在来種であるネアンデルタールを駆逐した、と言っているのだが、優秀な個体ほど環境に適合してどこにも出て行かないのです。適合できなかった不完全な個体が、散発的に生息域からはじき出され、やがてその遺伝子がヨーロッパまで広まってゆくことになった。それだけのことだと僕は思っている。
人類拡散は、生息域からはじき出されたあぶれ者たち、すなわち「不完全な個体」によって実現されていったのだ。
「進化」とは、そういうことだと思う。
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とにかくそのようにして、複数の細胞からなる新しい生物が現れてきた。
複数の細胞になれば、その体の中の1個か2個は、不完全な細胞もどうしても混じってくる。そうしてそれが不完全のまま死滅してしまえばいいが、その中の一個があるとき違う種類の細胞になり、それによって生存が成り立つような仕組みになってしまったら、もう分裂して単体生殖することはできない。
細胞の数が多くなれば、どうしてもその中に不完全な細胞が混じってくる。そしてその不完全な細胞が別の種類の細胞としてそのまま機能しはじめる。
個体の細胞の数が増えれば殖えるほど、種において単体生殖できない個体が増えてゆく。
単体生殖できない個体は、分裂することができない。分裂したら、ともに死滅してしまう。
分裂しない不完全な個体は、変種であり、個体としても存在する能力が希薄だから、他の個体とぶつかったとき、うまくよけてゆくことができない。何とかよけることのできる他の個体と、どうしてもできない他の個体が現れてくる。
どうしてもできないのは、うまく組み合わさってしまうからだ。
複雑な細胞の組み合わせの個体は、もはや単体生殖はできない。しかし、他の個体と組み合わさるという行動性を持っている。そこで、たがいの身体が組み合わさって新しい個体が生まれるという現象が起きてきた。たがいの身体が組み合わされるとき、排出される余剰のものがあった。その排出されたものどうしが組み合わさって、新しい同じ個体になっていった。
というか、さらに不完全な新しい個体が生まれてくる。その「不完全さ」がどんどん進んでいって、やがてさらに新しい「種」になる。
たくさんの細胞を持った生物は、どうしても「不完全な」個体が生まれてくる。細胞が多くなればなるほど、「完全」であることができなくなってしまう。その「不完全さ」が、「雌雄」をつくっていったのではないだろうか。
「不完全な」個体は、他の個体と出会ったときに、よけることができずに組み合わさってしまう。この動きから「雌雄」が生まれてきたのではないだろうか。
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はじめに雌雄が分かたれたのだろう、という養老先生の考え方はおかしい。
くっ付くことを前提にして分ける。それだったら分ける必要がないわけで、そのへんのところがどうしてもわからない、というが、「分けた」のではない。くっ付くことが前提になっていたのでもない。よけることがでなくてくっ付いてしまっただけのことではないだろうか。
不完全な個体がたくさん現れてきて、その中の「過剰」な個体と「過小」な個体が雌雄になって「組み合わさって」いったのではないだろうか。
生きものは、孤立した「個体」として存在している。吉本隆明という人は、これを「原生的疎外」と呼んだ。であれば、他の個体とぶつかってしまうかよけることができるかという問題は、根源的な問題であるはずです。そういう行為の「まぎれ」から、雌雄が生まれてきたのではないだろうか。
これが、僕の考えた「雌雄の発生」の仮説です。
いいかげんといえばじつにいいかげんな仮説だが、これによって多くのことに説明がつくということもあるはずです。
人類の祖先は、不完全な猿だった。完全な猿は、二本の足で立ち上がることなどしない。
以前、イスラエルの動物園で、とつぜん二本の足で立ち上がって歩き始めた猿のことが話題になったことがあります。その猿は生死の境をさまようような大病をし、生き返ったとたん二本の足で立って歩き始めたのだそうです。おそらく、病気(たぶん熱)によって猿としての脳の機能が欠落してしまったからでしょう。
そうして、体が完全に回復したらもとのあたりまえの猿に戻ってしまったらしい。
進化するとは、不完全になるということだ。
「オスとメス=男と女」は、ともに不完全な個体であるということにその本質があるのではないだろうか。「不完全な個体」が生まれてきてしまったことが雌雄を生み、種の進化をもたらしたのではないだろうか。
不完全な個体は、進化の予感をはらんでいる。