内田樹という迷惑・信頼関係

「瞳女王様」、という人からコメントをもらいました。おちょくられているのか励まされているのかよくわからないのだが、なんにしても高度な表現のメッセージだなあという印象です。
世の中には、いろんな人がいる。
もしも励まされているのなら、「ちくびがうずきます」と返信したかったのだけれど、このところいやみな横槍がときどき入ってくるようになったから、軽はずみなこともいえない、となんだかとまどってしまいました。
イカフライ」大明神が励ましてくれたのならうれしいのだけれど、たぶん、軽くおちょくられたのでしょうね。
まあ、いい。なかなかもらえるコメントじゃない。
「コミュニケーション」というのは、難しい。僕は、その人が男か女かということも、どういう意図があったのかもよくわからない。
そこに「言葉」があっただけで、「人(作者)」なんかよくわからない。
ただもう、高度な表現だと思っただけです。僕にはできない。
そのとき「言葉」によって「作者(話者)」が消され、コミュニケーションが解体されている。
コミュニケーションの不可能性のなかで、僕は身悶えするしかなかった。
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世の中ではよく、約束を守ることによって「信頼関係」が築かれるというが、言い換えればそれは、相手のことをばかにしていても嫌っていても約束さえ守れば「信頼関係」になる、ということです。
たとえば、デートの約束をしたが、彼女は着てゆくものが見つからなくて、待ち合わせの場所に行くのをやめてしまった。なんだか憂鬱になって、気が変わってしまったのだ。こんな気持で行ってもきっと嫌われる、と思った。
これは、彼女が誠実じゃないからでしょうか。あんな男かるくたらしこんでやる、といそいそ出かけるのと、どちらが誠実でしょうか。
あの人とうまく話せる自信がない、と彼女はだんだん憂鬱になってきた。
彼女は、言葉によって心と心がコミュニケートできるものではないということをよく知っていた。彼女は、言葉で男をたらしこむなどということはできなかった。
社会的な「信頼関係」など、「心」の問題じゃない。ただの「手続き」です。人をたらしこむ手続きが上手か下手か、というだけの問題にすぎない場合も多い。
内田氏のいう「コミュニケーション」とか「信頼関係」など、ただの人をたらしこむ手続きにすぎない。「女性の品格」がどうとかと言っているおばさんのいうことと同じレベルなのですよ。
おまえら、人をたらしこむのが上手で、そういうことにまめなだけじゃないか。そういう俗物だ、というだけのことさ。
まあ、世の中はそういう俗物根性の手続きで動いているのだから、それがいけないという気はさらさらないが、内田氏もあのおばさんも、自慢することはないだろう、という話です。
僕だって社会に出れば人をたらしこむ手続きは使うし、使うしかしょうがないと思っている。しかし、「信頼関係」などというものは信じていない。そんな薄汚い言葉は、好きじゃない。
内田氏もあのおばさんも、自分が社会的な「信頼関係」を得ていることを大いに自慢しているのだけれど、僕は、待ち合わせの場所に行けなくなってしまった彼女のほうがずっと尊敬に値する、と思っている。
人の気持は、動いている。だから、変わってしまうことはしょうがないことだ。しかし「気が変わったから行くのをやめました」といういいわけなど世の中ではぜったい通用しない。
「信頼関係」が裏切られた、という。
そうだ、「信頼関係」などという俗っぽい規範にしがみついているから、「裏切られた」と思うのだ。
「信頼関係」なんて、「心」の問題じゃない、たんなる「手続き」だ。
気が変わったのなら、しょうがないじゃないか。僕は、そういうことは「あり」だと思っている。自分がそんな言い訳をつかうほどの度胸はないが、相手の気が変わることはいつだってありうることだという覚悟だけはしている。そうやって裏切られるより、「信頼関係」という言葉をかさにきてえらそうに言うその俗物根性のほうが、よほどむかつく。