欧米では、言葉の機能と構造じたいが、すでに男という存在の観念や生態に沿うようなかたちになっている。
フェミニストの女たちの異議申し立ては、そうした言葉そのものに対する違和感からも来ているのではないかと思えます。
欧米の言葉は、男言葉です。「自己意識」にこだわり、自分というものがわかっているつもりの男の観念構造に沿って成立している。
そしてやまとことばは、女言葉の要素を多く持っている。
このことに関して「女は何を欲望するか?」の中で内田樹氏が書いていることなど、「あたし、結婚しちゃったの」というのが女言葉で、「おいどんは男でごわす」というのが男言葉である、というような分析のレベルです。
そんなことじゃないのですよ、内田さん。欧米では、「I=アイ=私」という言葉じたいが、すでに男言葉なのです。つまり、西洋人の「私」という概念そのものが、社会制度にはまり込んだ男の観念を表しているのであり、それは、「即自的な私」から超出したもうひとつの「対自的な私」のことです。「アイ」という音韻は、「私」を見つめ「私」の存在を確信している観念の上に成り立っている。
それにたいして「即自的な私」は、「私」という意識が発生する以前の「私」です。やまとことばはそういうプリミティブな「即自的な私」の感慨を表現する言葉であり、そういう「即自的な私」になることこそ女のアイデンティティなのだろうと思えます。
セックスしているときの女は「即自的な私」になっているし、じつはわれわれの暮らしのほとんどの局面が「即自的な私になることによって成り立っている。買い物に行こうか、と考えるのは「対自的な私」だが、スーパーまでの道を歩く行為は、「即自的な私」になることによって成り立っている。誰も自分の足を「動け」と命令なんかしていない。足が勝って勝手に動いてゆくような歩き方をしている。人間が長く歩きつづけることができるのは、「即自的な私=無意識」で歩きつづけることができるからです。ライオンや猿は「対自的な私」が命令して歩いているから、すぐ飽きてやめてしまう。
ヘーゲルや内田氏は、「即自的な私」から「対自的な私」へと超出することこそ「人間になる」ことだと言うのだが、そんなものは、じつは猿の観念を反復しているだけなのです。「近代合理主義」とは、猿の論理なのです。
「人間になる」とは、そういう自己意識から解放されて「即自的な自分」になりきることです。そのときにこそ世界は輝いて見える。内田氏の言ってることなど、愛だの美だのといたずらに概念を分析しているだけで、即自的な「感動」がないのですよ。
つまり、猿にだって、人間ほどの「感動」はないでしょう。その代わり、敵か味方かとか、オスかメスかとか、そうやって世界を概念的に分析することだけはじつによく心得ている。内田氏が「この世の性秩序は絶好調に機能している」という分析は、ようするに猿の世界観なのですよ。
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女は、「即自的な自分」になることがどんなに人間的なことかを、男よりもよく知っている。
しかし欧米の言語は、そういう「即自的な私」の感慨を語る言葉ではすでにない。「アイ」だけでなく、ほとんどの語彙が、「対自的な私」=「男の自己意識」によって翻訳(変形)されてしまっている。
英語で身体のことを「ボディ」という。人間の体というのは、たしかにそんな印象のかたちをしているのかもしれない。それはたぶん、外から見た身体の印象を説明する言葉です。いかにも「論理的」な男の観念傾向に合っている。
それにたいしてやまとことばでは、「身(み)」という。「み」とは、現前すること、気づかされること、気になって仕方がないこと、注目すること。つまり、身体にたいする感慨を表現する言葉であって、身体の形状を説明しているのではない。
意識は身体に気づく。空腹だと気づくこと、息苦しい熱い寒い痛い痒いと気づくこと、そこからこの生のいとなみが始まる。やまとことばでは、意識の根源的なはたらきのことを「身(み)」という。「人の身になる」「身に覚えがない」というときの「み」は、意識も含めた「存在」そのものを意味する。ただの「体=ボディ」ではないのです。
言葉は、まず「感慨」があって、そこから生まれる。人類史のはじめの原始言語は「感慨」の表現であったのであり、伝えるためでも説明するためでもなかった。
やまとことばは、原始言語がそのまま洗練されてきたかたちで成り立っている。
一方英語は、「感慨」だけの原始言語に「伝える」とか「説明する」という機能を加えながら育ってきた。
ヨーロッパでは、数万年前の旧石器時代から、すでに「共同体」のようなかたちの群れをつくって暮らしていた。
日本列島で「共同体」が生まれたのは、おそらく縄文時代が終わった二千年前以降のことです。
原始言語は、「共同体」の発達とともに「伝える」とか「説明する」という機能を加えていったのだろうと思えます。
そして日本列島では、共同体が生まれる前に、すでに言葉が完成されていた。
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言葉は共同体ごとに違うのであれば、けっきょく言葉は、それぞれの共同体(社会)の構造によって決定されている。
言葉によって人間の普遍性を類推することはできない。人間の普遍性がどのように言葉として表現されているかということが問えるだけです。そこのところをソシュールも内田氏も誤解している。
言葉は「私」のかたち(感慨)を表現できるか?
欧米のフェミニストの女たちは、「すでに男性化されているわれわれの言語ではそれは不可能である」という。それにたいして内田氏は、J・ラカンなどを引き合いに出しながら「<私>の感慨のかたちはすでに<他者>によって決定されている。したがってその不可能性は男も女も同じなのであり、フェミニストたちはなぜそんなかんたんなことに気づかないのか」と言っています。
「私」の感慨のかたちは、「他者」によって決定されているのか?
他者がはいているミニスカートを自分もはきたいと思うのは、他者のはきたいという欲望を模倣するからではない。単純にその姿を「すてきだ」と思ったからです。「私」がミニスカートをはきたい(すてきだ)と思った感慨は、時代や社会によって決定されているのであって、他者の感慨を模倣しているのではない。このとき「私」にとっての「他者」は、たんなるショーウィンドーの「マネキン」なのです。
われわれはそうした感慨を社会的に共有しているが、他者から受け取るのではない。われわれの意識は他者によって「表現されたもの」に反応するのであって、他者の意識に反応するのでも、ましてや他者の意識が自分に乗り移るのでもない。
人の気持ちがわかるなんて、幻想なのだ。結婚詐欺師の口から出まかせだって、淋しい女は、ついほろりとなってしまう。人は、相手の「心」に反応するのではなく、「表現されたもの」に反応するのだ。
「私」から発せられる言葉はあくまで「私の感慨の表現」であって、「他者の感慨の模倣」ではない。そのとき「他者」もまた「私」に反応しているのであって、「私」の感慨を支配する能力はない。
内田氏の言う「他者に対する始原の遅れ」などというパラダイムは、ただの受け売りでご当人の実感などまるでないから、平気でこういうわけのわからない「物語」をでっち上げてくる。
欧米の女の自分を語ることのもどかしさは、内田氏の薄っぺらな脳みそではわからないのですよ。
ショシャナ・フェルマンは、「女性は自分を主語にして語る言葉を持っていない」と言っている。この言葉の意味は重い、と僕は思っている。
ところが内田氏は、この意見に対してけちな揚げ足とりで難癖をつけておいてから、男だって「自分自身に完全に同一化してはいない」という。
そういう問題じゃないのですよね。自分自身に同一化しているかどうか問うのは男の習性であって、女は、そういう「もうひとりの自分」を捨てて「自分自身」だけの存在になろうとする。
我を忘れて対象に見入っているときの自分、そういう「自分自身」を主語にして語りたいのです。しかし欧米社会の言語は、そういう機能をすでに解体してしまっている。「ボディ」という言葉は、身体の形状を説明する表現であって、「自分自身」の身体に対する感慨の表現ではない。
欧米には、身体に対する感慨を表現する言葉がない。というか、身体に対する感慨を表現しようとする観念が流通していない。そこのところで女たちのアイデンティティは、つねに不安に晒されている。みずからのアイデンティティを確認しようとする観念を、すでに社会から奪われてしまっているのだ。
欧米のフェミニストたちが「女性は自分を主語にして語る言葉を持っていない」と言うのなら、読者としてはひとまずその言葉を信じて、そんな彼女らの不安はどこにあるのだろう、と問うしかない。しかし内田氏は、その言葉に「抵抗」して、けちな難癖をつけたあげくに、そんなことは人間と言葉の関係の普遍的な問題であり、男だってそう思っていると言う。
内田さん、あなたは想像力が貧困なのですよ。
女は、みずからの身体に対する「嘆き」を抱えて存在している。問題は、そこから始まっている。男が軽々しく「男だってそうだ」と言える問題ではないのですよ。
おまけに、「自分自身の心」は他者の心に憑依してしまって半分「自分自身の心」じゃない、とあなたは言う。この言い方も女をコケにしている。あなたからしたら、「学術的」なつじつまがあえばいいだけなのだろうけど、たとえば、男が「飯を食いたい」と思うことを自分自身の心だと自覚しているのだとすれば、女は、「腹が減った」という嘆きの感慨を自分自身の心にしている。わかりますか。そういう違いなのですよ。その感慨は、純粋であればあるほど、他者とは関係のない固有のものでしょう。あなたみたいに「12時になったら腹が減る」という人種とは、生存の根源を自覚するレベルが違うのですよ。
だいいいち「分節」するのが言葉だといいながら、「他者と分節されていない心」を表現するのが言葉だなんて、言うことがめちゃめちゃじゃないですか。
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他人の心なんかわからない。他人と分節されていない心なんかあるはずないじゃないですか。われわれは、先験的に他者と分節されてある。他者の「表現」に反応する自分固有の心がある。われわれは、「心」を交換するのではない。言葉という「表現」を交換し合っているのだ。
他者の心を見ようとするのは、「もうひとりの自分」です。現代=近代は、そういう自分が「無意識的即自的な自分」を支配しコントロールしてゆこうとする観念の上に成り立っている。そうやって他者の心を見ようとする「心理学」が隆盛を極めている。そうやって彼らは、みずからの支配欲を満足させようとしている。
「言いたいことがじゅうぶんに言えないもどかしさが言葉を生む原動力になる」と内田氏が言うとき、「もうひとりの自分」の立場に立っている。「もうひとりの自分」こそほんとうの自分である、という意識がある。
しかし、だったらおしゃべり好きな人間はみな「言いたいことがじゅうぶんに言えないもどかしさ」を抱えているのか、という話になる。そうじゃないでしょう。言いたいことが言えているという満足が、彼らをますますおしゃべりにしている。
「もうひとりの自分」は、言いたいことを持っている。言いたいことを言っているだけだから、どんどんおしゃべりになってゆくのです。そういう「もうひとりの自分」が肥大化してしまうことは、現代(近代)的な病理のひとつでしょう。そのとき人は、「もうひとりの自分」によって「無意識的即自的な自分」を完璧に支配しコントロールしている。
「言いたいことがじゅうぶんに言えないことのもどかしさが言葉を生む原動力になる」なんて、権力欲の強い自意識過剰の人間の言い草です。自分の自意識=権力欲を正当化するために、人間とはそう言うものだと分析して安心しているだけのことです。内田氏は、「人間」を問うてなどいない。自分の都合のいいようにでっち上げているだけです。多くの現代=近代人がそうであるように。
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「無意識的即自的な自分」は、言いたいことを持っていない。ただ世界に対する「反応」として、無意識的に言葉を発するだけです。
たとえば、何かに怖がった娘が思わず「きゃあ」と言ってしまうように。
そういう「無意識的即自的な自分」のはたらきを封じ込めて言いたいことだけを言っているとき、世界に対する反応=感慨がどんどん希薄になってゆく。
運動神経の鈍い人は、「もうひとりの自分」という自意識が強くて、そういう自分で体を支配し動かそうとするから、よけい動きがぎこちなくなってしまう。体なんか、「即自的な自分」がちゃんと世界に反応すれば、勝手に動いてくれるのです。どこかからごみのようなものが顔の近くに飛んでくれば、思わずよけるでしょう。よけてから「もうひとりの自分」が「あ、あぶない」と思う。
内田氏は、たぶん運動神経が鈍いのだろうと思います。そう思えるくらい、「もうひとりの自分」にばかり執着した発言を繰り返している。つまり、世界に対する反応=感慨が希薄だから、「もうひとりの自分」の分析だけで世界や他者との関係を解こうとしている。
運動神経が鈍いとは、世界に反応する「即自的な自分」のはたらきが希薄だ、ということです。「即自的な自分」を「もうひとりに自分」による支配から解放すること、それがスポーツをすることであり、セックスをするということの醍醐味なのではないでしょうか。
やまとことばの「身=み」とは、「無意識的即自的な自分」のことです。欧米にはそういう言葉がない、と近代のフェミニストたちが気づいた。そういう意味で、フェミニズムが「近代」を超克しようとする運動であることを、僕は認めます。
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