現代人は「風雅」の伝統を失った、などとかっこつけてほざいていやがる。
内田氏のブログでの話です。
家事労働の中の「風雅」。廊下を拭き掃除するときの洗練された体の動きとか、隅々まできれいにできる心配りとか、そういう風雅を持った生活術を明治の文豪幸田露伴は娘の幸田文に伝えた。
しかし現代の女たちは、家事労働に風雅を体験する能力を失い、厭うようになった。そうして、男たちにその分担を要求し、みずからも社会参加してゆこうとする風潮になってきた、と内田氏は言う。
まあ、最初に言いたいのは、おめえみたいに半端な「プチ・ブル」の「プチ・インテリ」ごときに「風雅」の何がわかる、ということです。虚栄心と自己顕示欲の塊みたいなやつが「風雅」だなんて、笑わせてくれる。
「自分の払った金がどのように分配されるのかと思うと<フーゾク店>なんか行く気がしない」などとほざいている俗物に、「風雅」の何がわかる。フーゾクは金を捨てに行くところであり、金なんかどうでもいいと思うこと、それが「風雅」というものだ。
フーゾク嬢が、そのわびしい小部屋をまるで自分の部屋のようにいつくしむ風情で脱いだものをそっと隅に置く。それだってもう、じゅうぶん「風雅」をかもし出している情景なのだ。
この日本列島に暮らすかぎり、風雅はいたるところにある。
風雅が失われたと発言することじたい、風雅を読み取る感性が欠落しているみずからの鈍感さを露呈しているのだ。内田氏にとってそれは、たんなる「概念」であって「実感」ではない。「風雅という概念」をまさぐっているだけのこと。おあつらえむきの類型によってしか、風雅を語ることができない。だから、幸田文がどうたらこうたらと言い出すのだ。
私にとって杖術の古武道は風雅の実践である、なんて自慢していやがる。鈍くさい運動オンチが杖振り回して、何が風雅か。そんな自慢をしないことを「風雅」というのだ。
「風雅は失われた」などという言い草は、ただの精神の麻痺をさらしているだけのことだ。
イメージ貧困なんだよ。みずからのその鈍感さに、いいかげん気づけよ。そう言っておけば、風雅をわきまえている人間であるふりができる。それだけのことじゃないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もともと家事労働は、しょうがなくやるものです。むかしの人だって、やるよりしょうがないからやっていただけです。そんなものに<意味>やら<意義>があるのなら、金持ちだって女中にやらせたりはしない。
言い換えれば、金持ちであればもう、女中を雇う金があるから「やるよりしょうがない」という気分になれない。
「やるよりしょうがない」という気分におかれたとき、はじめてそれが粛々と遂行される。
やるよりしょうがなければ、やらないわけにいかない。もうあれこれ考える余地などない。何にも考えないで、行為そのものに没頭してゆく。女中だろうと主婦だろうと、そうやって「無心」になれるものだけがその仕事を続けられるのだ。
そこに意味や意義などを理由づけてやろうとすると、つねに意味や意義を問う「自分」がついてまわって、だんだんいやになってくる。社会的な仕事だろうと家事労働だろうと、意味や意義を問うものは、かならず挫折する。
誰だって仕事など楽しいはずがない。その行為に意味や意義を見つけるから夢中になれるのではない。なんにも考えていない状態を「夢中になる」というのだ。
昔の家事は、体を動かす仕事だった。体を動かせば、意識は「体=自分」から離れてゆく。雑巾で床を磨きながら、意識は、きれいになってゆく床の表面に憑依して、しだいに「体=自分」のことを忘れてゆく。
しかし、現代の便利になった家事労働においては、体を動かすことがずいぶん省略されてしまった。掃除機を動かしながら自分を忘れてゆくことなど、できるはずがない。もともとそれは「しょうがなく」やる行為だから、便利なものが現れてくれば、どんどんそちらの方に流れていってしまう。
現代人は無心になる感慨(風雅)そのものを失ったのではなく、家事労働がすでに無心になれるような仕事ではなくなった、というだけのことです。
現代の家事仕事に「風雅」などというものを問われたら、たまったものではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる
このときの「おと」は、「音」のことではない。昔の人は、音のことを「ね」と言った。「笛の音(ね)」というように。
「おと」とは、「おとずれ」のこと。この歌の場合なら、「おとずれの気配」というような意味でしょう。
夏が過ぎていったある日のあるとき、「あ、風が・・・・・・」というつぶやきをもらすことは、いまどきの都会のバカギャルだって体験している。風の気配に思わず胸がときめく・・・・・・「風雅」というのなら、これが基本でしょう。
コンビニやカフェのおねえちゃんがもう一方の手を添えておつりを差し出すことだって、ひとつの「風雅」な態度であるともいえる。
彼女らだってはにかんだ微笑みやしぐさを見せることはあるし、彼女らが「かわいい」と反応する対象が古風な「わび・さび」の世界であったりもする。
鬱陶しくも冷ややかでもないちょうどいいあんばいの日本的な「まなざし」というのがある。これもまた「風雅」の伝統なのだ。
「風雅」の地下水脈(伝統)は、けっして涸れていない。というか、高度成長期のころに涸れかかったその水脈が、今よみがえりつつある。それがどこに湧出しているかという視線が、「風雅の伝統は失われた」とほざいている連中には決定的に欠落している。
「自己意識の確立」、これが内田氏の説く「人間性」です。
「自分」のことばかりにこだわって生きている人間に、「あ、風が・・・・・・」というような感慨はない。それは、自分のことを忘れているときに気づかされるのだ。
現代の若者たちはどこか「自己意識」が希薄だから、「あ、風が・・・・・・」と気づいてしまう。
戦後日本は、「自己意識の確立」というスローガンのもとに高度経済成長を実現してきた。現在の60歳から40歳くらいまでの戦後生まれの世代ほど、自己意識にこだわる世代もない。そんなやつらに「風雅」などわかるはずがない。彼らこそ、風雅の伝統を討ち捨てて生きてきた世代なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やまとことば」を壊したのは、団塊世代をはじめとする戦後世代だと言われている。高度成長期には、昔からの町名がどんどん消えてゆき、横文字や概念的な漢字の熟語ばかりがもてはやされていった。
全共闘の学生たちは、「総括」とか「自己批判」とか「前衛」とか「連帯」とか、そういう漢字の熟語を使うのが大好きだった。学生運動をしなかった内田氏だって、今、得意になって漢字の熟語を濫用しまくっている。それは、彼が、「自己意識」ばかり強くて「感慨」の希薄な人間であることを意味している。彼の使うやまとことばなど、ただのかっこつけにすぎない。だから、わざとらしさばかりが鼻につく。「擬制」とか「汎用」などと言っているほうが彼にはしっくりくるらしい。
そんなやつに「風雅」などわかるはずがない。
戦後世代に壊されかけたやまとことばのタッチは、現代の若いギャルたちによってよみがえりつつある。
たとえば、「きもい」という。
自己意識の強い大人たちは「気持悪い」と論理的に語るが、「きもい」は論理ではなく、気分なのだ。気分の表出こそ、やまとことばほんらいのかたちにほかならない。
「き」は「気」あるいは「息」。
「も」は、何かが「充満」してゆく感慨、あるいは「成熟」。だから「もっと」とか「もうすぐ」というし、「あれもこれも」といって増えてゆく感じを表したりする。
体の中に「気」が充満して「内臓」を感じる。「きも」とは内臓のことであり、内臓が意識される鬱陶しさのことを、「きもい」という。
現代のギャルたちは、おそらく「きも」が「内臓」であるという自覚はない。しかし「きも」と発声するとき、無意識のうちにやまとことばのタッチとして、体の中に重苦しい「気」が充満してしまうような鬱陶しさを体感している。「きもい」といったほうがぴったりくる「感慨」がある。
べつに面倒だから「気持悪い」を縮めたとか、そういうことではない。
あくまで「感慨」を表出していった結果なのだ。
思わず「きゃあ」と言ってしまってから、「ああ怖かった」と「私」が気づく。
「きゃあ」といったのは「私という意識(=対自)」ではない。「私」以前の「私という意識を持たない私(=即自)」なのだ。
やまとことばは、この「私という意識を持たない私」の、すなわち「きゃあ」という無意識レベルの感慨から表出される。
つまり「自己意識(自我)」の希薄な現代のギャルたちは、「私という意識を持たない私(即自)」の感慨との通路を持っている。だから、「きもい」でなければしっくりこないのだ。
そして「風雅」は、そういう即自的なレベルの感慨として気づかされ、表現される。
彼女らは、「きもい」とか「えぐい」とか「げろげろ」だとか「うざい」とか、女の特性としてのネガティブな身体感覚の言葉をたくさん持っている。だからこそ、そこからの浄化作用としての「風雅」も必然的に体験されてゆく。
「自分」にこだわる戦後世代は、「体に気が満ちてくる」などといって、それをポジティブな体験として自覚している。だからこそ、世界との出会いにときめきながら身体が消失してゆく浄化作用としての「風雅」を知らない。
風の気配にも空の青さにも「風雅」はあるのですよ、内田先生。そういうことは、あなたよりもバカギャルの方がずっとよく知っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ