内田樹という迷惑・武道と哲学

内田氏は、杖術とかいう古武道もやっているのだそうです。
ひとりで素振りのようなことをしていると杖と腕が一体化する体感が生まれてきてどうのと、なんだか教科書みたいなことを得意げにブログで説明していました。
面白くも何ともない。そんなことは哲学の教授がわざわざ言うほどのことでもなかろう、というような内容です。
教科書、すなわち基本ですね。そういうことを俺はちゃんとできるんだぞ、と自慢していやがる。そりゃあ、長くやってりゃ、誰だってできるようになるさ。そういうことをちゃんとできると自慢したがるのは、鈍くさい運動オンチであることのコンプレックスなのだろうか。
基本であり、極意でもある・・・・・・と言いたいのだろうが、体の動きが鈍くさいやつにかぎって、「体感」とか「一体化」という言葉にこだわる。そんなことばかり言っているのが、なんとも野暮ったい。
つまり、自分がちゃんとできるということを自慢したいものだから、体のことばかり言ってくる。体をちゃんと動かすよろこびばかりにこだわっている。
体(からだ)フェチ・・・・・・?
うまくなれば体なんか勝手に動いてくれるのだから、「体感」もくそもないじゃないか。
そのとき「私」という「意識」は、つねに身体から一瞬遅れてはたらいている。したがって、「体感」を経験することは論理的に不可能なのだ。
武道にしろスポーツにしろ、基本を修めつつ、基本から逸脱し展開してゆくことに醍醐味がある。身体が動くとは、意識が身体から離脱(逸脱)してゆくことです。身体(体感)を持たないことが極意なのだ。
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つまり、杖を振り回すのなら、とくに「空間」を意識させられるでしょう。
身体が動くとは、動くことのできる「空間」が身体のまわりにある、ということです。
どんなに身体のことを意識しても、「空間」がなければ身体は動けない。
意識が身体から離れて「空間」に気づくこと、これが、スムーズに体が動いているときの意識のはたらきです。
意識は、身体と空間の両方を同時に意識することはできない。ゲシュタルト心理学でいうところの「図」と「地」の問題です。意識が空間に気づいているとき、身体に対する意識は消えている。
「杖と腕の一体感」なんて、どうでもいいのです。そんなものは、初心者がワンランクアップしたときの感覚にすぎない。中途半端な「巧者意識」にすぎない。ようするに、「内田氏が言っていることは、いつだって「俗物の武道」なのだ。
杖と腕が一体化することなど、基本となる前提です。その状態のまま、さらに「空間」に溶けてゆくときにこそ、もっとも自然で美しい動きが生まれる。
そうやって意識は、身体=基本から逸脱してゆく。
身体の動かし方を自慢しているあいだは、いつまでたっても三流の俗物です。
そのとき達人は、空気の粘り気を感じている・・・・・・。
たとえば水の中でひとかきすれば、その余韻で体はしばらく進んでいく。そのときわれわれは、水の粘り気を感じている。粘り気がありすぎると、その「抵抗」で体はすぐ止まってしまうし、なさ過ぎると、体がうまく水におさまらなくて変な方向に動いていってしまう。
空気だって、適度な粘り気を感じながら体が動いてゆくとき、なめらかで美しい動きになる。空気の粘り気と戯れること、そうやって達人は身体から「逸脱」してゆく。
空気は、「無」であると同時に、「無」ではない。無であるから素早く動くことができるし、無ではないから「寸止め」ができる。
素早く動きながら、しかもスローモーションの世界にいるような、あるいは世界が止まってしまったような感覚がある。それは、空気の粘り気を感じているからだ。
空気の粘り気を感じることができるようになれば、武道家も一人前だ。「体感」がどうのと言っているあいだは、ただの半ちくな隠居芸にすぎない。
哲学的に言えば「世界内存在」の問題です。それは、世界に気づくことであって、身体に気づくことではない。
身体も世界も「空間」として感じてゆくこと、それが武道の極意なのではないだろうか。
武道において、身体は、たんなる息の出し入れの「空間」にすぎない。というか、息の出し入れで勝負が決まる。
イチローのバッティングの写真を見ると、インパクトのときに頬がふくらんでいる。それは、その瞬間に息を吐き出しているからです。
横隔膜を上げておいて、その瞬間に息を吐き出す。そのとき身体は空っぽの「空間」になり、意識はボールに憑依してゆく。
武道は、身体に「居着く」ことではない。身体から「逸脱」することだ。いや、武道だけじゃなく、セックスすることも、生きることそれじたいも、つまるところそういう仕組みになっているのではないだろうか。
ひたすら「空間」を感じながら、しだいに身体に対する意識が消えてゆく浄化作用(カタルシス)に入ってゆく。そこに武道の稽古の醍醐味がある。
あんがい、師範の内田先生よりもきれいな体の動きをする弟子の女子大生がいたりするかもしれませんよ。なんといっても身体が消えてゆくことの醍醐味は、女のほうがよく知っているのだから。
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武道をする内田氏は、かならず「身体」という「解答」を得ようとする。鈍くさい運動オンチは、それがないと不安なのだ。
彼は、「解答」に向かって問うことしかしない。
「解答」のない問いは、けっして発しない。発する度胸がないのだ。哲学なんて、もともと解答のない問いを発する行為なのだろうが、彼はつねに「解答」を提出してくる。「解答」のない問いを発することが哲学であるということはちゃんと知っているから、「解答」のない問いを発しているポーズだけはいつも見せる。そういうポーズをすることが、彼の「解答」なのだ。
彼は、「解答」のある世界で生きてゆこうとしている。しょせん、そういう世界でしか生きてゆけないのだ。「解答」を見つけ、「解答」することが彼の生きがいなのだ。
その能力だけで飯を食ってきた、といつも自慢しているじゃないですか。しかしそれは、じつは彼には哲学をする度胸がないことをさらしてしまっていることでもある。そういうことに、彼自身は気づいているのだろうか。
「性的欲望は性制度を媒介にして生起する」という彼の言説にしても、人間の性的欲望を「性制度」という「解答」の中に封じ込めて納得しようとする彼の強迫観念から来ているのだろう。
普通に考えれば、人間の性衝動を説明するのに「性制度」だけではすまないことくらい気づきそうなものです。そういう人間存在の実存の問題を、あなたは「性制度」だけで説明できますか。
実存の問題に分け入ってしまったら、もう「解答」はない。「仮説」を提出することができるだけです。
彼は、「仮説」を考えようとしない。想像力がないのか怖いのか、たぶんその両方でしょう。
たとえば、「貨幣」とか「共同体」とか「戦争」の起源は知らない、といつも言っている。「知らない」と言うことが「知性」、すなわち解答のない問いをする哲学という態度だと、いつも居直ってくる。
誰も知らないのだから、知らなくていいのだ、という。
そりゃあ、いまさら「正解」など確かめようもない問題だが、「仮説」だけは立てられる。そういう試みはしなくていいとか、するだけ無駄だ、とはいえないでしょう。
「知らない」というせりふは、そういう試みを繰り返して一敗地にまみれたものだけに発する資格があるのではないだろうか。
そういう自覚がないから、「性的欲望」を「性制度」だけの問題にしてしまって平然としていられるのだ。
われわれは、「貨幣」の起源も「共同体」の起源も「戦争」の起源も、「仮説」に向かって問いつづける。まだ「知らない」とは言わないし、言える資格があるとも思っていない。
鈍くさい運動オンチが、かっこつけて「武道」だの「身体論」だのと気取るんじゃないよ。その鈍くささが、哲学的思考や文学センスの貧しさになって現れている。べつに鈍くさくてもいいのだけれど、べつに哲学する度胸がなくてもいいのだけれど、それを隠蔽してかっこつけてくるから、すべての言説においていちいち自分勝手で、見え透いて下品になってしまうのだ。
哲学をするということは、頭が変になってしまいそうになる状況に身を投ずることであって、「わからない」という「解答」にしがみついて安心することではない。
幸せな常識人として生きてゆければけっこうなことだけど、幸せな常識人でなければ哲学はわからない、俺の言うことを聞け、などという態度に出られたら、そりゃあわれわれだって、ちょっと待ってくれ、と言いたくもなる。
われわれは、内田樹とかいう幸せな常識人から哲学を取り戻さねばならない。あんな薄っぺらな俗物に哲学を占有されたくない。