「ためらいの倫理学」の中で、内田氏は、こう言っています。
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世の中にはもっと大事なことがいくらでもある。暇さえあれば「セックス、セックス」と言い募っている人たちは、よほどそういうことが好きなのだろう。・・・・・・私は「そんなことはどうでもいいじゃないか」と思っている。
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この人は、セックスに何か恨みでもあるのだろうか。「そんなことはどうでもいいじゃないか」という社会的合意、すなわち「誰もセックスに興味を持たなくなくなってしまう日が来る」ことを「待望」しているのだそうです。
そうしたら、フーゾク産業なんかなくなるし、「セックス、セックス」といい募るやつらもいなくなる、というわけです。
しかし、たぶんそうはいかない。
セックスさえあればいい、と思っている人がいてもいいじゃないですか。
僕の知り合いの、真面目で純情で心やさしい67歳の人は、「もう一度だけ若くてきれいな裸を抱いてみたい、それが人生最後の夢だ、だから、誰か一緒にソープランドに行ってくれないだろうか、行ったことがないんだよ」と言っていた。
真夜中の街角で、もう10年以上セックスをしていないホームレスのじいさんが「おまんこ、やりてえ」と、うめきようにつぶやいていた。
そういう人たちに向かって「そんなことはどうでもいいじゃないか」と内田氏は言うのだろうか。
「もっと大事なことがある」と思っている人が、「そんなことどうでもいいじゃないか」と言うのは、聞いていて不愉快です。それは、差別発言です。
ひといちばいセックスを堪能している人が、「そんなことは俺だけの楽しみで、それが世の中の一番大事なことだと思っているわけではない」というのなら肯けるのだが。
この生に「大事なこと」なんか何もない。あるいは、人それぞれのそのときその場で無数にある、というだけのこと。
自分にとってどうでもいいからといって、それを他人に押し付けることもないだろうし、大事にしている他人をさげすむこともないだろう。
こんなことも言っている。
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(フーゾク産業が用意してくれる)「適度の非合法性」、「適度の非日常性」、「適度の抑圧」、それがマジョリティたちの哀しいほど貧困な性的想像力にとっては、おそらく「適度のスパイス」なのである。「逸脱の制度化」、それが性管理というあざとい仕事の本質なのである。
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「性的想像力が貧困」でわるうござんしたね。おおせの通りでございます。
仕事帰りにフェラチオ専門のフーゾク店に行き、30分の制限時間で3回抜いてきた、といばっている若者がいた。それは、体力の問題ではない。イマジネーション(想像力)の問題なのだ。「美人かどうかなんて関係ない。女にやってもらう、ということだけでいいんだ」と彼は言う。一種の天才だと思う。
そうしてふだんは仕事でいっぱいストレス(抑圧)を抱えている彼は、生まれ変わった気分で店を出てきた。フーゾク通いの楽しみなんて、つまるところこれだけだと思う。べつに、特別な「快感」が得られるわけでもない。スムーズにそこでの時間を体験できれば、生まれ変わった気分になれる。ほとんどのものは、そういう楽しみで通っている。そのわびしい小部屋は、非日常の世界であり、厳密には、客とフーゾク嬢の「関係」それじたいが「非日常」なのだ。客は、非日常の世界を潜り抜けて生まれ変わる。
彼の「性的欲望」の水源であるその「抑圧」は、店から与えられたのではない。彼個人の「実存」の問題なのだ。
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内田氏は、セックスが「非日常」のものだという考えが気に入らないらしい。そんなものは、「性的想像力が貧困」だから必要になるだけのことだと言う。フロイトを引き合いに出しながら、おまえらなんにも分かっていないという調子で、こう語ってくれる。
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性は「抑圧」という機制を経由してはじめて実体化する。性制度とか性道徳とかいうものは、この「抑圧」の効果として出現したものである。だから、本質的にはすべてが擬制である。しかるに、私たちの性的欲望というのは、この擬制としての性制度や性道徳に媒介されてはじめて「かたち」をとる以外に表現の仕方を知らない。だから、性に関わる制度は、つねに「抑圧されたもの」を「日常的な領域」に顕在化し、統御し、カタログ化し、商品化するという文明的営為として構築されてきた。
性的欲望は性制度に媒介されて、事後的に「あたかも起源にそれがあったかのような」かたちをとるものである。だから性というのは徹底的に日常的なのである。
性に関するすべての営みには「文明」が刻印されている。
私たちは制度化された性行動以外のものを想像することができない。・・・・・・だから、性制度が廃絶された瞬間に、人間は(本能的な衝動以外には)いかなる性的行動もとらなくなるだろう。
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おそろしくニヒルで粗雑な言い草です。
インポの論理丸出しです。
痴漢をしてはいけません、という法と道徳は、痴漢をしたいという「性的欲望」を「抑圧の効果」としてうながすために生まれてきたのか。この法と道徳が「廃絶された瞬間」には、痴漢という「性的行動」もなくなるのか。
違うでしょう。
われわれだって「抑圧の効果」を否定するものではない。しかしそれは、社会的な制度以前の、根源的な人間存在の問題であり、根源的な「男と女の関係」の問題なのだ。
男が女の裸を見たがる存在であるなら、女が服を着ることじたい、男に対する「見るな」という「抑圧の効果」を持っている。そうして、「見るな」と抑圧しつつ、そこにおっぱいや尻のふくらみを想像させにかかってくるという、さらに巧妙な「抑圧の効果」を仕掛けている。それはもう、社会的な制度の問題だけでは説明がつかない。
女は「見られる(=抑圧される)存在」であると同時に、「見るな」と男を「抑圧している存在」でもある。
これは、ただ「服を着ているから」というだけの問題ではないですよ。服を着ることによってそういう存在になったのではなく、そういう存在だったから服を着るようになったのであり、そういう存在のしかたに沿ってそのデザインが洗練されてきた。
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原初の人類が直立二足歩行をはじめたとき、尻の下で外にさらされていた女の性器は、その姿勢によってすっかり隠されてしまった。
その瞬間から女は、「隠す」存在になった。
そうして男は、四足歩行のときは腹の下に隠れていた性器を正面からさらしてしまうようになった。その瞬間から男は「見る=見られる」存在になった。
(性器を)見られている状態で生きている男は、自分を外側から、つまり他者の目を借りて眺める観念を発達させていった。
一方「隠す」存在である女は、そういう「外」からの視線を持っていない。だから「鏡」を手放せない存在になってしまったのだし、他者からどういうふうに見られているかということにもあんがい無頓着なところがある(たとえば、あの人たちが私を嫌うのは、あの人たちがいじわるだからだ、と勝手に思い込んだりする)。また、車の運転で「車庫入れ」が下手なのも、そういう観念性による。(フェミニストの女たちによる「男性学」があまりに自己中心的であるのを内田氏はひどく怒っていたが、もともと女はそういう生き物なのだから仕方がないのであり、フェアにやれというほうが筋違いなのだ)。
ともあれ、セックスをするときは女の性器も見える状態にしなければならない。見えなければ、ペニスをはめこんでゆくことができない。そうやって男は、見ようとする存在になっていった。
しかし隠す存在である女は、見られることにストレスを覚えた。見られることに対して、鬱陶しがったり恥ずかしがったりする「拒絶反応」を持った。
男は、見ようとする女の性器が隠されていることと、女が見られることに拒絶反応を持っていることと、二重の「抑圧」を負ってしまい、その抑圧を媒介にして、性的欲望をさらに募らせていった。
そうして隠す存在の女にとっても、男にそういう目で見られていることは「抑圧」以外の何ものでもないし、その状態から解放されるためにはもう、見せてしまうしかない。
見せてしまうという自己処罰、それが、女の性的欲望になっていった。
人間は、直立二足歩行をはじめたことによって、サルの「性的欲望」から逸脱して、だれかれかまわずいつでもやりまくらずにいられない存在になっていった。人間の繁殖力は直立二足歩行をはじめたときからすでに約束されていたのであって、「文明」によってもたらされたのではない。爆発的に繁殖していったから「文明」が生まれてきたのだ。
人間の性的欲望を引き起こしている「抑圧という機制」は、直立二足歩行をはじめたときからすでにはじまっている。
人間が正常位でセックスするのは、「文明=性制度」の問題ではない。直立二足歩行の問題なのだ。
内田氏は、「性というのはフロイトがいうように<機能する欠如>であるのだから、そもそもそこには語るに足るようないかなる<根拠>もない」というのだが、そうじゃない。「欠如」それじたいが人間であることの「根拠」なのだ。
男の、見ることができない欠如。女の、隠してしまう欠如。二本の足で立っていることの居心地の悪さ(=欠如)、それが、人間性の根拠になり、性的欲望の水源になっている。
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人間は、社会的な制度を持ったから「性的な存在」になったのではない。もともと性的な存在だったのであり、その過剰な性的欲望を管理したり、ときに抑圧しようとして、社会的な性制度が生まれてきたのだ。
したがって、社会的な性制度が性的欲望の媒介になることはありえない。むしろそれを減衰させる装置として機能している。
父と娘はセックスしてはいけない。これは、西洋社会におけるもっとも原初的な性制度(禁制)のひとつでしょう。この制度的な「抑圧」があるから西洋人は父が娘に対して性的欲望を持ってしまうのか。そんなはずがない。おそらく夫婦の関係がハードだから、そのはけ口を求めて性的欲望が娘に向かってしまうのでしょう。それに西洋の母親は、30歳をすぎると急速に肌や体型が衰えてゆく傾向があるのに対して、娘はどの民族よりも早く成長し美しくなってゆく。見ようとする存在である男にとってその対照は、何かどうしようもなくなやましいものがあるのかもしれない。
とにかく、「性的欲望は、性制度に媒介されて生起する」などというようなことではないのだ。たぶん西洋では、その「禁制」がなければ、実際にいくらでも父娘の相姦が起きてしまうのだろう。つまり、その制度が生まれる以前は、いくらでもそういうことが起きていたのだ。
近親相姦の禁止の制度があるから、近親相姦が起きるのではない。もともと人間は、直立二足歩行をはじめたときから、すべての異性に毎日のように欲情してしまう存在になったからだ。そして、それでは共同体が成り立たないから、そうした禁制をもうけた。
家族は、どうしても関係がハードになりがちだから、解放されたいという衝動も強く起きてくる。西洋では、夫婦関係がハードだから、父と娘の近親相姦が起きやすくなるし、儒教の国韓国では親子関係が厳しいせいで、兄妹や姉弟の関係が男と女の関係になってしまいやすいらしい。
近親相姦が禁止されているから、近親相姦の衝動が起きてくるのではない。もともと人間は、近親相姦でもかまわずやってしまうくらい性的な存在なのだ。
フロイトは、父と娘の関係の「禁制」を問題にするだけで、夫婦の関係がハードであることとリンクして考えようとはしなかった。それは、「禁制」を侵犯しようとする衝動ではなく、おそらく妻という女による「抑圧」から逃れようとする衝動なのだ。
内田氏は、「性道徳からの解放」なんてドーナツを食べたあとのドーナツの穴のようなものだから、そんなことは何にも意味がない。よりましな性道徳を考える方がよほど生産的である、と言う。
ほんとうに性道徳から解放されたら何も残らないのか。われわれは、そうは思わない。やりまくるに決まっている。それが、人間ほんらいの性的欲望のかたちなのだ。人間は、やりまくらずにいられない存在そのもののいたたまれなさ(=欠如)を抱えている。
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個人的であればあるほど人は性的になり、共同体的になったぶんだけセックスのポテンシャルは減衰する。
内田さん、「性制度」で勃起できるのなら、EDなんか起きてこないって。
性道徳から逸脱しようとして性的欲望が起きるのではない。逸脱してしまっているときに起きるのであり、だから「非日常」のタッチが必要なのだ。すでに逸脱してしまっている、という非日常感覚において勃起が起きるのだ。
社会意識が希薄な若者ほど、セックスのポテンシャルは高い。若者は社会意識が希薄だから、セックスのポテンシャルが高い。仕事にのめりこんでゆけるのなら、セックスなんかする必要がない。いやいややっているから、セックスがしたくなるのだ。しかしいやいややっていたくないからついのめりこんでしまい、セックスから遠ざかってゆく。仕事がストレスであるうちは、EDにはならない。
セックスをするためには、仕事の日常から逸脱する必要がある。セックスが逸脱させてくれるわけではない。仕事の日常から逸脱できなくなったとき、EDになる。
性道徳は、人間ほんらいの性的欲望を抑圧し、管理しようとしている。性道徳なんか、性的欲望の生起の邪魔にこそなれ、何の役にも立っていない。そんなこと、当たりまえじゃないですか。
人間は、存在そのものにおいて、すでに日常を「逸脱」してしまっている。性道徳は、そうした意識を日常に引きずり込む装置として機能している。
人間ほんらいの性的欲望とは、毎日でも、誰にでも発動してゆく、ということにある。基本的根源的には、そういうことなのだ。二本の足で立ち上がった人間は、そこから人間であることをはじめた。つまり、それほどに孤立した存在になった、ということだ。人間の性衝動の問題は、じつは人間存在の「根源的疎外」すなわち「実存」の問題であって、性制度の問題なんかではない。
内田さん、われわれが考える人間という存在においては「セックスのことなんかどうでもいいじゃないか」というわけにはいかないのですよ。
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