内田樹氏の言説は、インポの論理だと僕は受け取っている。
いや、彼の性生活のことなんか知らないですよ。あくまでその言説が人をインポにしてしまうような論理だ、と言いたいのです。
それが具体的に表れている文章は、「ためらいの倫理学」にあります。
彼は、「売買春」という行為が嫌いで、したことがないそうです。そういうことをするやつの気が知れない、と言う。
    __________________
私がよく分からないのは、自分の性的欲望がカタログ化され、値踏みされ、課金され、誰かがそのもうけを帳簿につけて、一部が税金として国庫に収まるというようなことを想像すると、すごく気分が悪くならないだろうか、ということである。
    __________________
そりゃあこんなふうに、守銭奴みたいに金のことばかり考えていたら、フーゾク店になんかあほらしくて行けないでしょう。
ああいうところは、基本的に、金なんかどうでもいいという場所です。
僕がフーゾク嬢に直接手渡すたとえば2万円は、まるごと彼女のサービスとセックスアピールの代価だと思っている。たぶん、みんなそう思っている。そのあとどんなふうに分配されるかなんて、考えたこともない。
自分の性的欲望がカタログ化され、値踏みされているなんて、ぜんぜん思わない。それはあくまで、彼女のサービスとセックスアピールの代価なのだ。
こちらとしては、ただお茶飲んで話だけして帰って来てもいいのだ。逆に、最後までやっちゃいけない決まりになっているところでも、やらせてくれる女もいれば、外でデートしてくれる女もいる。遊び方は、それぞれが工夫すればいい。
それは、性的欲望がカタログ化されているのではなく、まあスポーツのルールのようなものでしょう。
われわれだって、われわれなりの純情と心意気がある。
自分が払った金の流れまであれこれ想像せずにいられないインポ野郎にはわかるまい。
内田氏は「愛のあるセックス」などというものを考えているのだろうか。
また、そういう場所に行く気がしない理由として、「私の理解を絶したような種類の快感がそこで得られるのかもしれないけど、私にはうまく想像できない」という。
あのですねえ、内田先生。われわれだって、そんな快感など体験したこともないし、あるとも思っていない。べつに、その2万円なり3万円の代償を求めて行っているのではない。あそこは、お金を捨てに行く場所なのですよ。快感があるとすればそういうたぐいの快感であって、性的には、取り立てていうほどのこともない。フーゾク嬢だからといって、特別な女でもなんでもない。
快感どころか、けっこうしんどい場所かも知れない。ただ、言わせていただければ、あそこには、ふだん味わうことのできない原初的でピュアな男と女の関係がある。貨幣などというものがなかった時代の男と女の関係です。金を捨てに行くところだとは、そういう意味です。そうして、学ぶことはいくらでもある。
愛なんか、どうでもいい。そこに女の裸があるということそれじたいに対するときめきがあればいい。この体験は、貴重だと思う。
その小さな部屋には、フライパンとか茶碗といったような日常的なものが何もない。それでもその空間は、いじらしいくらい「彼女の部屋」であるという気配を漂わせている。するともう、そこがこの世界のすべてであるかのような錯覚に陥ってしまう。そういう状況に置かれて、はじめてわれわれは、女が女の体を持っているということそれじたいに驚きときめくのだ。
欲情するとは、日常から離脱するということだ。そのとき客もフーゾク嬢も、社会的な関係という日常から離れて、ひとりぼっちの人間になっている。
しかし内田氏は、こう言う。
     _________________
考えてみたら、性以外の欲望についても、ほとんどの人びとは「他人の欲望」を模倣して生きているわけである。自分がほんとうは何を求めているのか、人に教えてもらわないと分からない人たちが私たちの社会のマジョリティであるならば、性的欲望がその例外であるはずもない。
私の性的欲望や性的行動の様式は、私が「貧しいマジョリティ」とみなすものに対する反発と嫌悪感によって強く規定されている。そのかぎりにおいて私は現在の性制度のネガティブな虜囚にすぎない。
     _________________
なんだかステレオタイプで、おそろしく人を見くびったものの言い方じゃないですか。
それはともかく、人間は、「他人の行動」を模倣するのであって、「他人の欲望」を模倣しているのではない。それがその人にとってはいやいややらされていることでも、好奇心を刺激されれば他人は模倣してしまうのだ。
たとえば、工場労働者のつなぎの服が流行のファッションとして採択されたりする。労働者は、しょうがなく着ているだけです。着たくて着ているわけではない。それでも、一般の人びとがかっこいいと思えば、まねしたくなる。その流行は、あくまで「行動」を模倣しているのであって、「欲望」を模倣しているのではない。その欲望は、そのときの個人の身体と社会との関係から生まれてくるのだ。
誰の性的欲望であろうと、ちんちんが勃起するということは、あくまで個人的に、女の裸そのものにときめいているのだ。他人の欲望がそうやすやすと模倣できるのなら、この社会にEDなどという悩みは生まれてこない。
ちんちんが立つかどうかは、あくまで「個人」としての勝負なのだ。
J・ラカンだかなんだか知らないが、そうかんたんに「他者の欲望を模倣する」なんて言ってもらいたくないのですよ。内田氏はそれを安直に引用しているのだろうが。
「愛のあるセックス」なんて、ただの幻想です。相手の気持などいちいち詮索していたら、かえってポテンシャルが落ちてしまう。そんなものを気にせず、当てにせず、相手の体そのものにときめくかどうかです。そのようなわれわれの態度に内田氏が「反発と嫌悪感」をいだくのは勝手だが、そう言う内田氏の性的欲望や性的行動が高級だとも思わない。
ビデオなどで他人がやっているのを見て自分もやりたいと思うことだって、「欲望」ではなく「行動」を模倣することであり、ましてやフーゾク店の部屋は、一対一の空間ですよ。誰の欲望を模倣するのですか。内田氏は「性的欲望が公共化され、制度化された」場所だというが、そうじゃないのですよ。身銭を切って、一対一の真剣勝負をしにいくところなのですよ。勃起することが約束されているわけではないし、「公共」も「制度」もそれを助けてなんかくれないのです。
また、つまらない態度をとったら、あとで女に思い切り軽蔑される。いや、その部屋に入ったばかりでも「お金なんかいらないから、今すぐとっとと出て行きなさいよ」と言われる客だっているのですよ。
大学教授だというレッテルだけでみんなにちやほやしてもらえるような、そんな「公共化され制度化された」場とはわけが違うのだ。
「愛のあるセックス」とか「恋人や夫婦のセックス」というような、むしろそういうだらけて一般化したイメージこそ「性制度」そのものだと思う。
言い換えれば、たとえ恋人や夫婦のセックスでも、愛よりも、じつは相手の体そのものにときめくというところで成り立っているのではないだろうか。
夫婦のセックスの度数が年月とともにだんだん少なくなってゆくのは、それこそがもっとも「公共化され制度化された」セックスだからでしょう。
「公共」や「制度」は、けっして勃起を助けてくれない。現代のフーゾク店は法制度によって管理されているが、お客は法制度に助けてもらって勃起しているわけではない。内田氏のいうような「公共化され制度化された性的欲望」などというものは、ありえないのだ。
内田氏に言わせると、性制度とは、「愛」に対するイメージ貧困な庶民に、せめてその間に合わせとしての性的欲望を与えてやるためのものなのだそうです。
まったく、バカにしてくれるものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ