内田樹という迷惑・未来のことはわからない

このブログで僕はろくでもないことをわめきちらしてばかりなのだから、いつ炎上しても文句はいえないと思っています。ひとまず、これを読んだすべての人が僕のことを軽蔑し、誹謗中傷が殺到することはあるかもしれない、と覚悟して書いている。
しかし今のところは、どうやら平穏無事であるらしい。
これでいいのだろうか。こんなくだらないブログなんか、炎上してしまうべきではないのか、とときどき思ったりします。
有名人じゃないのだから、そんな心配をすることもないのでしょうか。
それとも、僕の腹が立つことはちょっとずれているから、ほかの人にとってはどうでもいいのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田樹氏は、若者がニートやフリーターの立場でいることがものすごく気に入らないらしいのだが、そのわけは、次のようなことに尽きるのだそうです。ニートに対しては「いいから黙って働け」とまで言っている。「街場の現代思想」では、ニートの問題について、「(最後に)もうひとつ、誰も言わないことをいっておこう」なんて大見得切ってこう書いています。
_________________________________
人口の再生産が必要とされる一番大きな理由は、じつは年金や市場や労働力の制度維持のためではない。スキルもキャリアも年金も妻も子もなく孤独な死を迎えたフリーターにはその死を弔う「喪主」がいなくなってしまうからである。
あと数十年後に誰にも弔われず孤独死する単身者の数は数百万に達するであろう。この「誰にも弔われない死者たち」が21世紀後半の日本社会にどれほどの「祟(たた)り」をなすことになるか。
私たちが無言のうちに恐れているのは、じつはこの暗澹たる霊的未来なのである。
_________________________________
こういう言い方をされると僕は、殺意すらおぼえるくらいむかつく。しかし「ゲス野郎が、何をかっこつけてことほざいていやがる」というようなボキャブラリー貧困な悪態をついていても見苦しいだけで、そこが悔しいところです。
とにかく内田氏のこの言い方は、ほんとうに傲慢で下品です。悪臭ふんぷんの品性下劣な書きざまだと思う。
彼はここで、現在のニートやフリーターに向かい「おまえらは将来こうなるのがオチだ」と言い放ち、脅迫しているのですよ。
僕は、他人の将来のことを、こんなふうにして予言めいた言い方をすることは、畏れ多くてとてもじゃないができない。
生きていれば、誰にだっていろんなことが起きる。先のことなんか、誰にもわからない。
たとえ、いちばんバカでぐうたらなニートに対してだって、よういわない。だって、ほんとうに、先のことなんか誰にもわからないのだもの。
僕は、他者が出会うであろう「未来」に対しては、いくぶんかの敬意は払うべきだと思っている。
だめ人間なりの、自分に課しているささやかなルールです。
他人が、おまえの「未来」はこうなるに決まっている、なんてことはいっちゃいけないと思っている。
恥知らずな僕にだって、一寸一分のつつしみはある。
そういうつつしみのかけらもない内田樹とかいう大学教授が、そんなにえらいのか。品性下劣なただの俗物だろうが。品性下劣で、しかも哲学的思考のレベルが低く、おまけに鈍臭い運動オンチの癖にいっぱしの武道家を気取っていやがる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあいい、百歩譲って内田氏のいう通りになるとしましょう。
数十年後に数百万人の孤独死する老人が出現する・・・・・・。
だから、どうなんですか。それが「暗澹たる霊的未来」なのですか。
「私のように、未来のことはそのつど<ああこうなるのね>と涼しい顔して引き受ければよろしい」といったのは誰なのですか。内田さん、あなたでしょうが。
内田氏が言いたいのは、ようするに、そのときわれわれ善男善女が税負担やらなにやらで大いに迷惑する、ということです。いろんなところで、そういう言い方を何度もしている。
われわれが楽して平和に生きてゆくための邪魔をするな、だからおまえらだって真面目に働け、というわけです。
何が「霊的未来」だ。この世に内田氏の霊ほど呪われた霊もそうはないのではないかと僕には思える。
あなたたちが楽して平和に生きるために、ニートやフリーターは自分を捨てて働く義務があるのか。働かないことをみずからのアイデンティティと決めて生きている人間に向かって「働け」と命令する権利があなたたちにはあるというのか。彼らの生涯は、おめえらのために捧げなければならないのか。
何様のつもりでいやがる。
たとえそんな未来がきたとしても、あなたたちの負担なんか、たとえば重度の障害児を抱えて生きている親に比べたら、屁みたいなものじゃないか。障害児本人に比べたら、屁のカスじゃないか。
未来がそうなるなら、そういう未来を引き受ければいいじゃないか。ほんとにそうなるというのなら、せいぜいそのための心の準備をしておけよ。
あなたみたいな一介の大学教授ごときが、他人にどうしろと命令する権利なんかないんだよ。いや、そんな権利なんか、誰にもない。
「妻も子もなく」なんて言うけど、「友人」や「恋人」はいるかもしれないじゃないか。それでいいじゃないか。弔いぐらい、そういうまわりの人間でなんとかするさ。
われわれにいちばん大切な「他者」は、生きてゆく先で出会った目の前のその人であって、遠くの親族なんかじゃない。逆にいえば、親族が大切なのは、目の前にいるというそのことにおいてだけだ。血や法律上のつながりなんか、なあんも関係ない。
妻や子がいることがそんなにえらいことか。僕は、妻も子もいることが、少し恥ずかしく思っている。人間として、少し後ろめたくもある。この世の中にこんなにもたくさん人間がいていいとは思えない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
孤独死する老人が数百万に達する世の中が、僕は悪い世の中だとは思わない。子供もつくらずむやみな欲望に走ることもなく生涯を終える人は、尊敬に値する。そういう人が数百万もいるなんて、そんな悪い世の中だとも思えない。
そんな人がそんなにもたくさんいれば、あくどい政治やあくどい経済活動も少しは減るかもしれない。
今よりも人間が人間について深く考える世の中になるのかもしれない。
むかしは、野垂れ死にする人はいっぱいいた。
野垂れ死にすることが、人間として低級な死に方だとは僕は思っていない。
貧しい人や孤独な人は、そういう死に方を覚悟する。そういう覚悟ができないのうてんきなやつらが、それを悲惨だとか愚かだと勝手に決めているだけで、死そのものに対する覚悟はむしろそういう人たちのほうができている。
高級老人ホームで荒れ狂って死んでゆく人もいれば、孤独な部屋で夏の蝉のようにひっそりときれいに死んでゆく人もいる。
「立場」が人間を決める、というじゃないですか。たとえ現在はばかでぐうたらなニートでも、そういう淋しい死を覚悟しなければならない「立場」に置かれて生きていけば、そういう覚悟はするようになるさ。
死について覚悟することは、内田樹とかいう品性下劣なことばかり書いているあほで傲慢な大学教授から学ぼうとは、僕はさらさら思わない。
この世でもっとも孤独で貧しい人から学ぶ。