内田樹という迷惑・あきはばら

そりゃあ、こんな殺され方をされたらたまらないに決まっている。悔やんでも悔やみきれないに決まっている。
怖かったろうと思う。
酷い事件だと思う。
だけど、こんな事件が起きるたびに、犯人という「人」を憎んだり蔑んだりして、なんだか特別に劣悪な人間であるかのように決め付けたがるやつらがわんさか沸いて出てくるのは、あまり気持ちのいいものではない。
自分はあの男と違う、と当たりまえのように思っている。
そんなことあるものか。みんなたいして違いはしない。同じ人間なんだもの。
彼がグロテスクだとしたら、あなたたちだって、あなたも、あなたも、あなたも、そうとうグロテスクだ。
そういう事件が起きる社会(時代)だったということ、誰かがそういう事件を起こしてしまう世の中だったのだ。
その「誰か」は、特別に劣悪な人間だったわけではないし、そんな人間なんかこの世にいない。
彼は、時代に選ばれてしまった。そういうしかない。特別劣悪な人間でもなかったのに、選ばれてしまった。
彼がもともと頭がよくてマニアックなところがあったということにしても、運命みたいなものでしょう。べつに、彼が親や環境を選んで生まれ育ってきたわけではない。
あの携帯サイトのメールのひとことひとことが、ぜんぶ僕にはせつなかった。
朝起きたら、まだ頭が痛かった・・・・・・僕だったらそれだけで決心がぐらついてしまうのに、彼は、当たりまえのようにそれを受け入れた。彼は、すでにもう、みずからの運命に身を委ねてしまっていた。
こういう態度を、識者やマスコミは、冷徹な計画実行性、などというのでしょうね。
僕は、そうは思わない。自分の運命に素直に従ってしまっただけなのではないだろうか。
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内田樹氏は、この事件をなんとコメントするのだろう。そして「イカフライ」氏は、それになんと反応するのだろう。
まあ、今のところは、「イカフライ」氏や世間の反応を気にして、そうかんたんにブログには書けないだろう、と思う。書けたら、たいしたものだ。
内田氏は、ニートに対して、働くことには意義があるのだから「黙って働け」という。
しかし、働くとこういう追いつめられ方をしなければならないケースもある。
ここまで派手な展開にならなくても、公園の野良猫や鳩を殺すとか、そんなようなことはもう数え切れないくらい起きているし、精神安定剤が手放せない若者がたくさんいる。多くの若者たちが、働くことによって精神を病んでゆく時代になっている。
また内田氏は、仕事を辞めてニートになることは「仕事に自己実現の妄想を抱いた者のなれの果ての姿だ」というのだが、彼は、「自己実現の妄想」など抱いていなかった。人間関係でひどく悩んで追いつめられていただけだ。
エリートサラリーマンの世界ならともかく、普通の労働者は、だいたいこんなように悩んで辞めてゆくのではないだろうか。
彼は、彼女がいたらこんなことはしない、と言っていた。
内田氏は、仕事の世界からドロップアウトしてゆく若者はみんな勘違いしたのうてんきなやつらばかりなのだ、という言い方をいつもするのだけれど、そんなことあるものか。誰もがそれなりに追いつめられているのであり、秋葉原で通り魔殺人をしてしまうくらい人間関係に追いつめられてしまったりするのだ。
内田さん、あなたは他人を見くびりすぎる。
若者が仕事を辞めてゆくのは、たいていの場合「人間関係」なのではないだろうか。
仕事の夢が挫折することくらいたいしてストレスにもならないが、恋愛も含めた人間関係の挫折は、生きるか死ぬかの問題になってしまう。
彼女さえいれば、ぜんぶ耐えられる、と彼は言っていた。
新聞の写真を見れば、そんなにぶさいくな男とも思えないのだが、いわゆる「ロリコンオタク」ということだから、選り好みがあったのだろうか。
女なら誰でもいいじゃないか、と彼に言ってやりたかった。
人嫌いのひねくれものだから人に嫌われやすいという自覚があったようだが、それでいて「彼女さえいれば」と言い、「人間と話すのはいいもんだ」なんて言ったりする。
内田氏は「この世にはセックスよりももっと大事なものがある」というが、「セックスがあってこその人生だ」と思ったらいけないのでしょうか。
若い男というのは、おおむねそういう生きものでしょう。
もしかしたら彼だって、すでに「女なら誰でもいい」という気分になっていたのかもしれない。それでも人生なんて、うまくいかないときはうまくいかない。
「セックスよりも大事なものがある」といい「愛」がどうとかこうとかとほざきまくるバカな大学教授がいる世の中なのだもの、そりゃあ追いつめられた気分にもなってしまうでしょう。
女の裸であるということ、それだけでじゅうぶんなのに。
フーゾクに通って女の扱い方に慣れるとか、そういう試みはしていたのだろうか。
けっこうけちだという話だから、そういう金の使い方はできなかったのかもしれない。だとしたら、たぶんこのことも彼を追いつめていたのだろう。
共同体の秩序が崩壊したからだ、なんてあほなことを言っている社会学者がいた。そうじゃない、共同体の秩序が彼を追いつめたのだ。
のうてんきにやってもいいと思ったのではなく、追いつめられてやらずにいられなくなってしまったのだ。
一種の「無理心中」事件でしょう。「人間と話すのはいいもんだ」といっていた彼は、「社会」と「人間」と心中しようとした。
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内田氏は、「彼らは、こういう事件を起こせば自分の人生がどうなるかという<未来>の予測ができないのだ」などともよく言うのだが。まったく、何を幼稚なことを言っていやがる。そんな予測くらい、小学生でもできるさ。
彼は、自分の人生と決別しようとしたのだ。あと50年生きようと明日死のうと同じだ、と思ってしまったのだ。いや、明日死んでしまうほうがいっそさっぱりする、と思ってしまったのだ。
内田さん、あなたは「街場の現代思想」の中で、「自分がどのように老いて死んでゆくかをちゃんと想像しなさい」と若者に向かって説いた。そして彼は、誰よりも明確にそれをイメージし、そのイメージに追いつめられて爆発してしまったのですよ。
俺なんか一生一人暮らしのまま6畳一間のアパートで冷酒くらいながら死んでゆくのだ、と言っていた。先のことなんか何があるのかわからないのに、そんなことばかり考えているうちに、あほらしくて生きてゆく気がしなくなってしまったのです。
あなたが熱っぽく「勧奨」したその「老後の人生に対する想像力」こそ現代の病理なのだということが証明されたのですよ。
われわれとしたら、おまえが煽って焚きつけたんだぞ、と言いたいくらいです。
あなたのような病的な思考は、共同体にうまくフィットして「勝者」の立場で生きているときだけ有効なのです。みんなが異常なら、正常になる。これが「共同幻想」というやつだ。戦争なんか、まさにこのパターンです。
あなたがもし、彼のような立場に立ったら、おそらくあなたも似たような行動をとるでしょう。今あなたが、現在のすべての栄光を失いホームレスになってしまったとしたら、それでもあなたは、自分の老いて死んでゆく哀れな姿を懸命に想像しますか。あなたがそうやって「未来」のことばかり考えてしまう習性を持っているかぎり、その想像からはけっして逃れられないのですよ。
この世の中は、誰も彼もがうまく生きてゆけるとはかぎらないのですよ。
あなたがもし、明日ガンだと宣告されたら、その瞬間からあなたは半分ホームレスと同じ立場の人間になり、淋しく哀れな死にざまを想像するしかない身になってしまうのですよ。
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携帯メールの、決行日の朝のメールが、「みなさん、さようなら」だって。
人恋しくてしょうがなかったから、あんなにもたくさん殺してしまったんだよね。
人殺しの衝動の裏には、人恋しさがそっと張り付いている。
人間はなぜ人殺しをするようになったか。それは、単純に「邪悪な心(憎しみ)に目覚めたから」とか、パンドラの箱を開けたとか、そういうことじゃないのですよね。
人恋しさと裏表のようなところがあるから、いつの間にか自然にそんなことをするようになってしまったのだろう、と今のところ僕は考えています。
というか、憎しみは人恋しさの別名であるような一面もあるわけで、時代を経るにしたがって憎しみで殺すようになってきた。
原始人は、もしかしたらわれわれが考えるよりももっと無邪気に殺し合い(戦争)をしていたのかもしれない。だから、いつまでたってもわれわれはそれを反省できない。
われわれは、人殺しをどんなふうに裁けばいいのだろう。
僕は当事者ではないし、社会を背負って生きているわけでもないから、うまく彼を憎むことができない。
殺した彼に対しても殺された人たちに対しても、なんだかせつなくやりきれないばかりです。
通り魔殺人事件が起きてしまった・・・・・・このことを、人間の歴史が遭遇した運命として考えるのは、不埒なことでしょうか。