内田樹という迷惑・上野千鶴子という問題

日本でいちばん有名なフェミニストといえば、上野千鶴子氏でしょうか。
彼女は、「スカートの下の劇場」という刺激的な本を出しているくらいで、女であることの自覚と、社会的な性規範によって「女にされている」こととはまた別の問題である、という意識を持っている。
社会的な性規範がなくなれば女であることの自覚から解放されるかといえば、そうはいかない。もっと根源的に女であることを自覚させられる。
女であるという自覚の上に立って、性規範によって女にさせられるのはごめんだというのが、フェミニズムの運動であろうと思えます。
だから彼女らは、女としての感性で発言する。
それは、男に幻滅している、ということだ。
「ためらいの倫理学」で「アンチ・フェミニズム宣言」をした内田氏にとって気に入らないのは、そのことです。
そんな内田氏が、唯一賛成した上野氏の発言とは、こんなようなことです。
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 あえて言いたいけど「セックスなんて、したってしなくったって、私は私」って、どうして言えないのか。セックスって、それがないと自分の人格を否定されるような、そういうものなのか。男にとっても女にとっても、セックスしなくちゃ男は一人前じゃなく、セックスしてもらえなくちゃ女としては認められないのか、という見方に対して、異議申し立てするということだってできるのですよ。
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たしかに、その通りです。そして女は、いったんセックスをしない習慣がついたら、死ぬまでしなくても平気になってしまう人たちです。それはたぶん、根源的なところで男に幻滅し、男を拒絶しているからでしょう。拒絶のかたちとして、セックスをする。女にとってセックスすることは、男を拒絶することであり、拒絶のかたちとして快感を汲み上げてゆく。そういうパラドックスがある。
女は「隠す存在」であり、「拒絶する存在」なのだ。
だから、セックスをすることに公的な意味を付与して満足しようとするのはおかしいという彼女の言い分は、女としての実感でしょう。
まあ庶民の女が、「あなたは社会的立場や知的で美人であることをみんなから認められているからそれでもいいだろうけど、私たちは彼氏がいること以外にアイデンティティを主張できる(自分の存在証明になる)ものが何もないのですよ」と言ったら、彼女はなんと答えるのだろう。苦笑いして「好きにやれば」と答えるのだろうか。だから「異議申し立てをすることだってできる」といっただけで、そうでなくちゃいけないとは言っていない。
彼女らがそんなふうに生きるしかないのは、セックスするのが当たりまえの世の中になって、セックスが大切なものだという意識が希薄になってしまっているからだ。
セックスすることなんか当たりまえだから、「セックスしなくちゃ一人前じゃない」という風潮になってしまう。
だからたぶん上野氏は、「私はもっとセックスを大切にしたい」と逆説的に言っているのだろうと思う。そんなに安っぽく女の体を欲しがるなよ、そんなに安っぽく男に体を開くなよ、と言っているのではないだろうか。
女がかんたんに男にしてやられるなんて、そりゃあ同性として見るに忍びないものがあるにちがいない。だから、経済的に自立して自前で男を調達できるようになれ、という。
そうして女をそんなにもかんたんに扱おうとする男に対しては、それなりに腹立たしくもあるのだろう。だったら、金を払ってやらせてもらうことや、金を要求してやらせてあげることのほうがまだいい。女がセックスすることは、精神的にも身体的にも、いろんな意味でリスキーな要素を含んでいる。男にとってはかんたんなことでも、女にとってのセックスは、それなりの「自己責任」がともなっている。
上野氏のこうした言い方には、ある種の純潔というか処女性のようなものを感じさせられる。
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男は、インポテンツにでもならないかぎり、女ほどセックスから自由にはなれない。だから、売春という産業が成り立つ。
上野氏のこの発言は、われわれからすると、ああ女だったらそう思うんだろうな、と感じさせられただけだが、内田氏は、まったく同感だという。
われわれは、フェミニズムを尊重するが、フェミニストと何かを共有しているとは、さしあたって思っていない。われわれはフェミニストの男に対する幻滅や悪意を認めるが、内田氏は、そこのところでは猛然と拒否反応を示す。
とすれば、上野氏のこの意見に内田氏が賛成であるのは、おそらく自分の都合のいいように解釈しているからだろうと思える。
内田氏は、賛成するわけをこう語っている。
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このまま性が商品的に扱われる実情がどんどん勢いづいてゆくと、やがてあらゆる変態行為や性倒錯を含む性商品が極度に日常化してしまい、あまりに日常化したあげく、誰もセックスに興味を持たなくなってしまう日が来る。そのような日が来ることを上野自身は待望しているように私には思えたからである。これはそうとうにラディカルな態度であり、私は上野のこのスタンスを支持する。
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なんですか、この「誰もセックスに興味を持たなくなってしまう日が来る」というのは。
どういう事情かは知らないが、「そのような日が来ること」を待望しているのは、内田さん、あなたくらいのものですよ。
内田氏にとって興味があるのは、具体的なセックスではなく、自分は男であるというアイデンティティであるらしい。だから「この社会の<性秩序>は絶好調で機能している」などと言う。
僕は、そんなものいらないから、やらせて欲しい。
上野氏はただ、「自己責任」で自分だけのセックスの世界を持とうよ、と言っているだけなのではないだろうか。彼女が「セックスなんかしてもしなくてもいい」と言うとき、「セックスはするもしないも自分の世界の中だけのことで、公的なものではない。だから公的に露出されてゆくものは、どんどん露出して自爆してしまえばいい」という思いを含んでいるのではないだろうか。
公的に露出されてゆく「変態行為や性倒錯を含む性商品」なんか、そりゃあなくなったほうがいいかもしれない。なぜならそれは、インポになる直前の花火というか狂い咲きみたいなものだから。
したがってそのあとには、「誰もセックスに興味がなくなってしまう日が来る」のではなく、正常位のノーマルなセックスへの回帰が来るだけでしょう。たぶん上野氏がイメージしているのであろう「私は私」というセックスです。
「癒し」とか「萌え」などという。近ごろの若者のあいだではもう、変態行為や性倒錯よりも、女に甘えてゆくような、女がリードするような、そういう静かなセックスのかたちが増えてきているらしい。
フーゾク店の小部屋で、マグロのようにじっとして女に愛撫されている男。
メイド喫茶で女に「奉仕」してもらうのも、まあそんなようなことでしょう。
それはたぶん歴史(伝統)への回帰なのだ。女がリードする、象徴的な意味での姉と弟のセックス。むかしの日本人は、そういうかたちでセックスをしていた。だから、最後の一線だけは超えさせないという日本的フーゾクが成り立つ。これは、「変態行為や性倒錯」とは対極にある性商品であるはずです。
内田氏はもしかしたら、フーゾク店は「変態行為や性倒錯」の巣窟のように思っているのだろうか。そうじゃない、あんがいみんな、素直で純情なのですよ。
そういう極彩色の世界は、一部の大人、すなわち内田氏のいうような「性規範」にしばられてセックスのポテンシャルが落ちてきている男たちの世界なのだ。そういう男たちは、極彩色の変態行為にしがみつくか「セックスなんかどうでもいい」と居直るか、両極端に走る。
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上野氏をはじめとするフェミニストは、自分たちは正しくて男は間違っていると当然の前提のように言い立ててくる、そこが気に食わないと内田氏は言う。
そして、ほんらい知性とは「自分は間違っているかもしれない」というスタンスに立てる思考のことだ、というようなしゃらくさいことを言う。
よくもいけしゃあしゃあと、そんなあつかましいことが言えるものだ。
「愛とは、他者の<承認>を求めることである」とは、内田氏がいつも言っていることです。
「自分は間違っているかもしれない」と思うのなら、「承認を求める」なんてあつかましいことをするなよ。その前に、「幻滅される」ことを覚悟するのが筋だろうが。「自分は間違っているかもしれない」と思う者に、「他者の承認を求める」資格なんかないんだよ。
つねに幻滅されることを覚悟して生きてゆくしかないんだよ。
「私の発言は、捨て身で他者の承認を求めることの上に成り立っている」なんてかっこつけたことも言っているが、その他者の承認を求めるもの欲しげな態度が、「捨て身」といえるのか。そんなもの、ただ甘ったれているだけのことじゃないか。「捨て身」というのなら、「他者の承認」なんか当てにせず、世界中の人間から軽蔑されることを覚悟で発言しろよ。
かっこつけたことばかり言いやがって。
「他者の承認を求める」ということは、「自分は正しい」と思っているからだ。承認される資格があると思っているからだ。そんなあつかましいやつが、どうしてフェミニストの態度を批判できるのか。あなたは、フェミニストを批判しつつ、フェミニストの「承認」を求めているのか。承認せよ、脅迫しているのか。
内田氏の「自分は間違っているかもしれない」という自覚なんか、口先だけなのだ。
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フェミニスト=女たちは、男に幻滅している。だから、どうしても男をなじる言いざま書きざまになる。それは、しょうがないことだ。
僕は、母親からは死ぬまでなじられつづけた。女房からもなじられつづけている。そのほか何人かの人生の途上で出会った女たちからも幾度となくなじられた。べつに恋人でもない女からもなじられた。
おまえはろくでもない女とばかり出会って生きてきたのだな、とよく言われるが、ともあれ女とはそういう生き物だと思っている。
男が「自分だけは正しい」と思うのと、女がそういう態度をとるのとは、ちょっと違う。そのとき男は「自分」に執着しているだけだが、女の場合は、自分を忘れて、相手のことが気になって仕方がないのだ。僕のようにただ目障りなだけの男の場合でも、自分捨てて幻滅しにかかっているのだ。
そこのところは、内田氏の薄汚い自己執着とは、ちょっと違う。
たぶん上野氏は、誰よりも深く男に幻滅している。しかしそれは、幻滅してしまうくらい関心がある、ということでもある。
われわれは、上野氏が、内田氏と同じように「セックスなんかどうでもいい」と考えているとは思わない。
上野氏が提唱する「男性学」は、「女が男をどう見ているかということを、男たちはどのていど分かっているか」ということを検証する試みであるのだとか。それはたぶん、フェミニズムにとっては、じゅうぶん意味のあることであろうと思います。
しかし内田氏は、このことを批判してこう言っています。
「つまり、女性は自分の目で男性を見ることが許されるが、男性は他人(=女性)の目を借りて自分を見ることしか許されないのである。なんだかずいぶん不公平なような気がする・・・・・・」
いいじゃないですか。女は、もともと他人の目を借りて自分を外側から見るということを苦手にしている。それは、性器を「隠す」存在として、根源的に「他者=男」の視線を拒絶しているからです。だから、男が自分たちのことをどう見ているかということには、あまり興味がない。あくまで、自分たちが男をどう見ているかということを男たちはどのていど分かっているのか、と発想する。みごとに女の感性だなあ、と思わせられます。
単純に「男は女のことをどう見ているのか」と問うのなら、それは、男のやっていること同じになってしまう。男は、他者の視線を借りて自分を見る、という観念傾向を持っている。だから、女にどう見られているのかが気になってしょうがない。それはつまり、自分のことが気になってしょうがない、ということと同じです。
でも女は、男にどう見られているかということは、たいした問題ではない。自分が男をどう見ているかということがどのていど伝わっているのかが気になる。女は、自分を見てくれ(承認してくれ)となど要求しない。隠す存在として、見られることは拒絶している。自分が見ている、ということを伝えたいだけです。
身体を隠す衣装は、同時にそれによって男や町の風景を見つめている。男は、女の衣装から見つめられている。見つめられていることに気づいて感動する。彼女らは、男の反応を試している。それは、「見つめる」という態度なのだ。このあたりの仕掛けは、ややこしいところです。単純に「見られたがっている」、というようなことではない。
女は、愛してくれなどと要求しない。自分が愛していることの反応として金を運んでくることを要求する。そういう意味では、家庭の主婦もフーゾク嬢も一緒であり、男は「返礼」として金を渡す。「贈与」とは、「返礼」の先渡しである。
女は、「返礼」しない。男の愛に応えるというようなことはしない。自分が愛するだけである。そして男は、「贈与」しない。女を愛するというようなことはしない。女の愛にこたえるだけである。
ベッドの上でマグロになった男を愛撫してやるサービスだって、それはそれで愛を確める態度です。自分の口の中でどんどんペニスが硬くなってゆき、ついには射精する。それはもう、まさしくリアルタイムで愛に反応されていることの確証そのものだ。
内田氏の言う「他者の承認を求める」態度など、他者への愛でもなんでもない。ただの自己愛です。内田氏によれば、「私はあなたなしでは生きてゆけない」と告白することは、この世で最も純度の高い愛の表現なのだそうです。ばかばかしい。それがどんなに自己中心的で醜く卑しい態度かということを、少しは思い知った方がいい。
内田氏は、女を口説いているばかりで、女に反応していない。女に反応できない男はもてない。なぜなら、女に反応できない男は、セックスのポテンシャルが低いからだ。
まあ、「金」で反応すればもっともてることも多いし、金で反応できない男はもてないという真実もある。
女は、男の「愛」など求めない。「反応」してくれることを願っている。たとえば離婚が起きるすれ違いには、こうした側面もあるのではないだろうか。
われわれは、フェミニズム運動の政治的戦略とか、そういうことにはあまり興味がない。というか、よくわからない。皆さんいろいろ相談してやっているのでしょう。そしてそういう部分で上野氏がおそろしく頭がよくてやり手であるのは伝え聞くところであるが、そんなことよりも、この人に人気があるのは、女としての実感をヴィヴィッドにそなえているからだろう。
正直な感想を言わせていただくなら、内田氏の言説はただもう卑しさばかりが鼻につき、上野氏にはやっぱり女なのだなあというものを感じさせられる(会ったこともないから魅力的な女性であるのかどうかは知らないけど)。
男に対する幻滅をどれだけラディカルにそなえているか、それがフェミニストの本領であり、それこそが女にとってのセックスを肯定する態度なのだ。