「近傍と確からしさ」さんのコメントで考えたこと

僕が内田氏の批判を続けていることに賛成してくれる友人は、今のところいません。
「おまえにはおまえの世界があるのだから、それを書いてゆけばいいではないか」と彼らは言う。何もそんな耳障りなことを書くこともないだろう、と。
しかしそんなことを言われても、僕自身には「自分の世界」などというような自覚はないのです。
自分の何を表現したいとか、そんな「自分」という自覚がないのです。
僕はただ、「世界」に反応してしまうだけです。
僕は、「自分」になんか興味がないし、よくわからない。自分が感じている「世界」について語りたいだけです。
たぶんここにおいて、「自分」のことばかり語っている内田氏と決定的に袂を分かっている。
イカフライ」氏は、よく「弱者ぶっている」という非難を内田氏のとりまきから浴びせられているのだけれど、そういうことじゃないのですよね。
僕もまあ同じようなスタンスに立つこともあるのだけれど、べつに「弱者ぶっている」のではない。「俺は、あんなあほと一緒にされたくない」と思って書いているだけです。
僕もいちおう、この社会では「大人」という人種に属しています。「若者」ではないし、若ぶっているつもりもさらさらない。
そして内田氏こそ、この社会の「大人」の代表選手です。すくなくとも「知」というカテゴリーにおいては。
しかし、あの人の言説に「知」の輝きなんか何も感じないし、むしろこの社会の「大人」という人種の愚劣さを一身に体現しているのを感じるばかりです。
僕が内田氏を批判するのは、この社会の「大人」に対する批判と同義です。この「時代」における「大人」というのがどういう人種かということに、僕はうんざりしている。
そういう意味で、内田氏を批判しながら同時に自分を罰している、という部分もないではない。だから、やめられないのであって、内田氏を批判する自分に酔っているわけではない。断じてない。
自分に酔っているのは内田氏であって、僕はあんなあほと一緒にされたくない。
「近傍と確からしさ」さんがいったように、あのアホがどうがんばっても気づかないであろう「世界」の相貌を僕は見てしまったという自信はある。そしてそれはたぶん、十七歳のバカギャルも秋葉原で通り魔殺人をした若者も見たであろう世界です。というか僕は、そういう世界の眺め方を、彼らから学んだ。
すくなくとも、彼らから学ぶ能力は、内田氏よりも僕のほうがずっとある、と思っている。
僕は、内田氏のように自分になんか酔っていないし、内田氏のように自分を大切にして生きてきたわけではない。自分にうんざりし、自分に手を焼いて生きてきただけです。
そして内田氏が、僕が自分の人生や人格を支払って得た世界の見方を、口先だけでかっこつけていってくる。それがむかつく。
たとえば「他者に対する始原の遅れ」とか「根源的疎外」とか、こういうことはおまえみたいなあほがどう逆立ちしても分からないことなのだよ、ということが、どうしても言いたいのです。僕が同じようなことを言ったからといって、あんなあほと一緒にされたくない。あの人の場合は口先だけなのだということを、なんとしても示したい。
そうやって僕が言いたくて言いたくてつい口ごもっていたことを、「近傍と確からしさ」さんは、もっと明確に認識しているのかもしれない。
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ところで、内田氏も秋葉原事件のコメントを自身のブログでしていました。
しかし、内田氏自身の「感想」というようなものではない。
これを機会に自分が以前に書いた社会評論を再録しているだけです。
この期におよんでも、まだ自分を見せびらかすことしか頭にない。
というか、ひとりの人間としてあの若者と向き合うという度胸も能力も誠実さも内田氏にはない、ということです。
あの若者を「ひとりの人間」として見る能力、あの若者を「ひとりの人間」と感じて向き合い反応する想像力や誠実さなどかけらもないということをさらしてしまっているのです。
さんざん文学が分かっているようなことばかり自慢しているのだから、この機会にこそ自分の文学的資質を世に問うてみせろよ、と言いたいところです。
専門外の社会学でコメントするなんて、卑怯じゃないか。
彼の「人間性」そのものを問うということが、なぜできない。
たとえば、彼は、青森の人です。青森という風土の情の深さや人恋しさや、人間に対する敏感さ、そして太宰治寺山修司に通じる「自己諧謔」の執拗さなどなど、彼はそういう青森の風土性を身に染み込ませた若者だったのではないだろうか。
べつにブ男でもなく、どちらかというと端正な部類の顔立ちをしているのに、自虐的に「俺は不細工だ不細工だ」と言い募る。そういう傾向は、太宰治寺山修司の文学性と、どこか通じている。寺山修司が、包帯を巻いた少女や義足や義眼の人間を登場させたがる趣味と、どこか似ている。
勝者の自己意識は自分を美化し、敗者のそれは自虐的な露悪化に向かう。
「絶望」をもてあそびたがる性癖、それは太宰にも寺山にもそしてあの若者にもあった。
基本的には、若い男は女がひとりそばにいればどんなに劣悪な環境に置かれても生きていける、と僕は思っている。
だから、現代社会の経済構造がどんなに理不尽でもそれはもうしょうがないことで、まあ企業や政府のやりたいようにやればいいと思っている。そういう状況で生きてゆくしかない、と思っている。
企業や政府に良心を求めることなんか、土台無理な話さ。
だって、内田氏のようなあほな大学教授がのさばっている世の中だもの、そうなるしかないのだろうし、なるようにしかならない。
いい世の中がくることなんか当てにしないほうがいい。女がひとりそばにいれば生きてゆける。あの若者はそう思っていたのだろうし、彼にとってはもうそういうかたちでしか生きてゆけるすべは見つからなかった。
そしてそれは、たぶん正解だったのに、因果なことに彼は、「絶望」に淫してしまう性癖を持ってしまっていた。このダブルバインド
べつに彼が、正当な所得を得る労働者にならなくたっていいのです。吉野家のアルバイトになったっていいのです。彼女さえいれば。
べつに正当な所得を得る労働者にならないと彼女が得られないというのでもない。
人は、どこかしらで自分の所得を納得してしまっている。なぜなら、手に入れた金のぶんだけは納得してしまうからだ。たとえ時給七百円でも、手に入れたらそのぶんだけ納得してしまうのだ。それはもうしょうがないことだし、だから、企業につけこまれる。
たとえ自分の給料に不満を持っていたとしても、それ以上に入った金をどう使おうかということを考えている。それは、納得している、ということだ。
内田氏は、給料の少ない人間はそのぶん給料に対する不満も大きいというようなことをいうが、そうじゃないのですよ。少ないものほど、入った金の貴重さをかみしめて納得しているのだ。内田氏のその言い方は、給料の少ない人間を侮辱しているし、人間というものをなんにもわかっていない。
また、内田氏は、余分に持っている者の「ほどこし」によってよい社会が実現すると言うが、「ほどこし」の精神は貧乏人ほど豊かだと相場が決まっている。なぜなら、貧乏なぶんだけ「ほどこし」のよろこびも大きいからだ。
内田さん、「ほどこしの精神」も「愛」も、あなたよりも貧乏人のほうがずっと豊かなのですよ。それを、俺こそその精神の持ち主だと自慢してきやがる。おまえの精神なんぞ、ただ下司なだけじゃないか。
給料なんか少なくったっていいのです。生きていけりゃいいだけです。女がひとりそばにいれば、そういう気分になれる。そしてその女は、女であればそれだけでいい・・・・・・あの若者は、誰よりもそういう境地に接近しながら、誰よりも遠ざかってしまった。
そこが、せつないところです。
彼は、自分にこだわりすぎた。自分を見つめすぎた。時代や親や青森という風土によって、そういう性癖を深く植え付けられてしまっていた。
彼に必要だったのは、「自己意識が人間性の基礎である」とか「自分の死んでゆく未来を想像しなさい」とかほざいているどこかの大学教授を深く軽蔑することだったのです。

僕は、内田樹なんか消えてしまえ、とは思っていない。ああいう「大人」を徹底的に軽蔑できる感性を彼に持って欲しかった。
内田氏のブログにコメントを入れるのはほとんど内田シンパだが、そのコメント欄を読んでいるのは、おそらく半分以上が第三者的な野次馬でしょう。そして第三者的な野次馬のほとんどは、「イカフライ」氏のコメントを読んで、内田氏を軽蔑することを覚え始めている。それは、大切なことだ。
内田氏を軽蔑することは、大人たちを軽蔑することだ。
若者が大人たちを軽蔑する知性や感性を磨かないと、「近代の超克」も「格差是正」も、たぶん何も始まらない。
自分にこだわってばかりいるとセックスアピールを失うという「病理」を、内田氏もあの若者も負っている。ただ勝者は、居直ることや、あるふりを偽装することができるが、敗者は「絶望」に抱きすくめられ、「絶望」に淫してしまう。
彼に必要だったのは、ほんの少しのセックスアピールだったのだ。それさえ持てば、若者は生きてゆける。それさえ持てば、誰にだって「つがい」になれるチャンスはやってくる。とりあえずわれわれは、生きものなんだもの。
そのためには、自分の美しさも醜さも研究しないこと。そうして、女なら誰でもいいと思ううこと。そうすれば「つがい」になれる。
ほんの少しセックスアピールを持って、われわれはまず内田氏=大人=時代を超えなければならない。そこからしか、何もはじまらない。
勝機はある、と思う。
敗者にしか持つことのできないセックスアピールというのがある。おおむね、セックスアピールとは、そんなようなものだ。ちんちんが勃起するとは、女に負けることだ。そういう論理で、若者は大人を超えてゆけばいい。若者とは、大人に対する敗者のことだ。敗者にならないと、ちんちんは勃起しない。
勝者にならないと生きていけない人間にさせられてしまったら、敗者になったら生きてゆけない。でも、誰もが一度は「若者」という敗者にならなければならないのだ。
自分を正当化するために、若者をはじめとする他人まで「勝者にならないと生きてゆけない人間」にしてしまおうと脅迫してくる。内田樹とかいうそういうげす野郎を、われわれが超えてゆくためには、どうすればいいのか。そういうことを、「近傍と確からしさ」さんのコメントを読んで改めて考えさせられ、じつはそれこそが僕が、あの若者と一緒に考えてみたかったことだったような気もします。