男をセックスの問題に引きずり込むこと、それが、「スカートの下の劇場」という本を書いた上野千鶴子氏がとったフェミニズム運動の戦略だったのかもしれない。
それは、正解だ。
何といっても、女は生まれながらにしてセックスや恋愛のプロフェッショナルだし、男はいつまでたってもアマチュアでしかない。
それに日本には、年上の女がリードをし世話してゆくという婚姻形態の伝統がある。
上野氏にとって、女子高生やフーゾク嬢の生態に詳しい宮台真司氏などの社会学者たちと共闘を組みつつ、彼らをたらしこむくらいわけないことだったにちがいない。
内田氏は、彼らのそういう一連の動きを、ただのバカ騒ぎだと、苦々しく吐き捨てた。とくに宮台氏に対しては、「女子高校生の生態に詳しいくらいのことで、なんでこの男はこんなに威張っているのか、私にはよくわからない」と悪意をむき出しにしていた。
しかしそれは、上野氏の戦略に加担することだということを、彼は気づいていただろうか。
上野氏の戦略が、宮台氏らを手なずけることによって、セックスや恋愛論に関しては、男なんて幼稚で軽薄な生きものに過ぎないということを知らせようとするものだったとしたら。
内田氏は、彼らに対してこう言う。
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私がこれまで「いやだな」と思っていたのは、ようするに「セックス・コンシャス」の高さと知的な開放性みたいなものがリンクしているという図式に対してだった。セックス・コンシャスの高い人間というのは、自分が「性的存在」としてどういうふうに評価されているかということばかり意識しているせいで、それ以外の人間的資質についての反省や向上心が組織的に欠落している人間のことである。私はそんな人間とはあまりつきあいたくない。
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セックス・コンシャスとは、性意識、というような意味でしょうか。
だったら、僕も、セックス・コンシャスの高い人間のひとりかもしれない。知的な開放性はいささかも持ち合わせていないけれど。
それに「自分が性的存在としてどういうふうに評価されているかということばかり意識している」つもりもない。
われわれのようなだめ人間は、他人による自分への評価を知ることは、できれば避けたいと思っているくらいだ。評価してもらえる「自分」なんか、悲しいことに持ち合わせていない。
ようするに内田氏自身が、「自分がどういうふうに評価されているかということばかり意識している」から、人間というのは誰もがそうやって生きていると思いこんでいる。
われわれ庶民は、あなたほどには他人の評価なんて気にしていないのですよ、内田さん。
そして「セックス・コンシャス」が低いらしい内田氏は、自分は「それ以外の人間的資質についての反省や向上心」をそなえている、と言外に主張している。つまり、そういう自分が「どういうふうに評価されているかということばかり意識している」というわけです。
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われわれは、内田氏のように、他人の評価を気にしなければならないほどのご立派な「人間的資質」など持ち合わせていない。
われわれが「性的存在」であるのは、あくまで他人のセックスアピールが気になって仕方がないからです。自分のことなど忘れて、ついそういう目で他人に見とれてしまう。それだけのことだ。
それは、ただ美人とかグラマラスな体つきをしているということだけではない。人格そのものの気品として滲み出てくるセックスアピールもあるし、逆にいえば、気取った女よりも男にだらしないやらせ女のほうにずっと清純な人格を感じたりするときもある。
まあ、そんなあれやこれやが気になってしまう人間を、「セックス・コンシャスが高い」というのではないのですか。
われわれは、女は男に幻滅している、と思っているし、「それ以外の人間的資質についての反省や向上心」も持ち合わせていない。したがって「それ以外の人間的資質についての反省や向上心」を他人にどう評価されているかというスケベ根性も、たぶん内田氏の半分も持ち合わせていない。
セックスアピールは、純粋な精神性から純粋な肉体性のあいだに、じつに多様なグラデーションがある。
相手にセックスアピール(色気)を感じたらいけないのか。
高潔な人格や魅力的な人格を、セックスアピールとして評価したらいけないのか。
また内田氏は、「それ以外の人間的資質についての反省や向上心が組織的に欠落している」とさげすむが、そういうスケベったらしい人格意識が欠落していることそれじたいが無垢な精神性としてのセックスアピールになっている場合もある。
セックスアピールとは、精神を削ぎ落とした精神性のことだ。
身体とは、精神を削ぎ落とした精神性のことである。したがって、女が女の裸をしているということそれじたいが精神性としてのセックスアピールになっている。
われわれが女の裸にセックスアピールを感じるとき、どこかしらで日常的な「精神」というものの暑苦しいうっとうしさに幻滅している、つまり「それ以外の人間的資質についての反省や向上心」という精神を。
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続けて内田氏はこう言う
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私はこれまで性制度についてまともに論じたことがないけれど、それは性風俗の先端的なあり方に訳知り顔をしてうなずいて見せて、それを受け入れられない人間の知的後進性をあざ笑うかのような論議の進め方が気に食わなかったからである。
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これだって、上に書いたことと同じです。自分が他人をあざ笑うような「論議の進め方」ばかりしているから、他人もそんな態度にちがいないと決めてかかっているだけです。
つまり内田氏は、この本の中で、「性風俗の愚かな制度性を訳知り顔で吹聴し、性風俗に親しむものたちの<知的後進性>をあざ笑うような議論の進め方」を、さんざんしてきているのです。「哀しいほど貧困なマジョリティの性的想像力」などという言い方は、ようするにそういうことでしょう。
「訳知り顔」に性的想像力の何たるかは俺がいちばんよく知っている、という調子で吹きまくっているのです。
そういう自分の傲慢さを他人に当てはめて批判しているだけじゃないか。
この人は、何か人間の見方が卑しいのですよね。
僕は、「この世にはセックスよりも大事なものがある」と言う内田氏よりも、「セックスがあってこその人生だ」と思っている若者の方を支持する。
内田氏は、自分の考えと違う人間をことごとく否定する。
われわれは、自分の考えなんか持っていないから、他人からそれを学ぶ。
われわれは、若者から学ぶ。それに対して内田氏は、若者に向かって「そうじゃない、こうなのだよ」と教え諭すようなものの言い方ばかりしている。つまり、若者に対して親密なポーズを見せておいて、若者を否定しにかかっているのです。そういう態度で「この世にはセックスよりも大事なものがある」という。
だからわれわれは、「なにも自分のセックスに対するポテンシャルの低さを正当化する論理を若者にまで押し付けることないじゃないか」、と抗議したくなってしまうのです。
親しげな振りをよそいながら、自分を正当化するために若者を否定しにかかる。なんだか、赤頭巾ちゃんを騙そうとする狼みたいな話です。むかし「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説があったけど、それが、むかしも今も変わらない俗物の大人の常套手段なのです。
われわれは、こんな下司野郎にころっと騙される若者なんか信用しない。内田樹なんぞにまるで興味がないか、「うざったいオヤジだ」と反応する若者から学ぶ。
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内田氏は、「性規範」とは男と女のコミュニケーションの問題である、という。
一見もっともらしい正論です。
「他者」とは、理解不能にしてコミュニケーション不能の存在である・・・・・・これが、現代哲学のアプリオリというか常識です。
そこで内田氏は、こういう。
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コミュニケーションの不可能な相手と、身をよじるようになおコミュニケーションを試みる「私」のシステムのきしみから、「愛」は起動するのではあるまいか。
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だから、「コミュニケーションを断念する」という態度を間違っている、というわけです。ちょっと見には、たしかに、かっこいい意見のように見える。こういう気取った言いざまに、一部の読者がしてやられている。
だが、われわれは騙されない。
思想的インポ野郎が、かっこつけて何をいきがっていやがる。いい子ぶりやがって。清らかぶりやがって。われわれはこういう卑猥な態度を、「薄汚いスケベ根性」という。
こういうスケベったらしい言いざまこそ「この世の中にはセックスよりも大事なものがある」という態度にほかならない。
なにも「コミュニケーションしようとする」必要なんかないじゃないですか。そんな「私」に執着して見せびらかさなくったっていいじゃないですか。
われわれは、すでに他者との関係の中に投げ込まれてしまっている。どこかの哲学者の言う「被投性」というやつです。だから、「反応する」というかたちで意識が発生する。意識とは、世界に対する「反応」である。だから現象学者は、「意識はつねに何かについての意識である」という。
意識は、他者を拒絶しコミュニケーションを断念しつつ、しかも他者に対する「反応」として発生する。そういう「身をよじる」ような「反応」こそが、ときめきであり、セックスのエクスタシーであり、ちんちんが勃起するという現象なのだ。
「コミュニケーションしょうとする」なら、やがてはコミュニケーションできた気になってしまう。それが観念という運動の、当然の帰結です。「他者の承認を得る」とか、内田氏は、コミュニケーションができた気になっているようなことばかり言っているじゃないですか。コミュニケーションできた気になってしまうのが人間性の基礎である、と言いまくっているじゃないですか。たとえば、「葬送儀礼とは死者とのコミュニケーションである」という言い方など、まさにこの人のスケベ根性によってもたらされた論理的帰結にほかならない。
われわれは「葬送儀礼とは、死者とのコミュニケーションを断念するための儀式である」と考えている(まあこのことを突っつくと長い話になってしまうのだが)。
とにかく内田氏ほど、他者とコミュニケーションができるとのうてんきにスケベったらしくあつかましくえげつなく思っている人間もそうはいない。そういうえげつない態度こそ、「身をよじるようにしてコミュニケーションを試みる<私>というシステム」なのです。スケベったらしいゲス野郎が、何をかっこつけたことほざいていやがる。
コミュニケーションできると思うから、他人(読者)をたらしこむができると思っていやがる。だから、たらしこもうとばかりしてくる。たらしこむための「人間的資質についての反省や向上心」を組織することばかり熱心でいやがる。
やらせ女は、そんな資質など「欠落」しているから、すぐ「反応」してときめいてしまう。彼女こそ、もっとも「他者とのコミュニケーションを断念している哲学的存在」なのだ。
内田氏なんか、哲学を語りつつ、もっとも哲学がわかっていない人間なのですよ。
内田さん、あなたには「他者とのコミュニケーションの不可能性」という哲学的命題は、永久にわからない。なぜならあなたは、すでにコミュニケーションしているつもりになってしまっているからです。
われわれは、内田氏のようなへらへら笑ってばかりいる人間よりも、いつも怒っている「イカフライ」氏の方を信用する。いつも怒っている人は、裏表がない。へらへら笑っているやつは、本心を隠して人をたぶらかすことばかり考えている。
いつも怒っているということは、「他者とのコミュニケーションの不可能性」を深く認識し身悶えしている、ということです。
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