内田樹という迷惑・村上春樹とノーベル賞

内田氏が、「村上春樹は世界的に人気があるからえらい」とおっしゃっておられる。だから、村上春樹の文学は「普遍的」で、とうぜんノーベル賞をもらうべきだ、と。
村上春樹をどう評価するべきかは文学通でもない僕にはよくわかりません。しかしねえ、世界的に人気があるからえらいというものでもないでしょう。
スピルバーグをはじめとするハリウッド娯楽映画は世界中に人気があるから「普遍的」かといえば、そうともいえない。ようするにアメリカ的で通俗的だから世界中で受けているだけだ、という人はたくさんいるに違いない。
現在、世界中の人類が「共同体(国家)」というものをいとなんで暮らしている。その「共同体(国家)」を持って暮らしている精神の「ゆがみ」というものはあるだろう。われわれは、そういう「ゆがみ」を世界中で共有している。だから、そういう「ゆがみ」につけ込んでいけば、そりゃあ、世界中で受けるさ。
世界中で受けるということじたい、ゆがんで通俗的だということの証しかもしれない。
いや、村上春樹がそうだと言っているのではないですよ。しかしすくなくとも内田氏の書くものが現在のこの国で受けているのはそういうことだ、と僕は思っている。僕だけじゃない。全体からいえば少数派かもしれないが、けっこうたくさんの人がそう思っているらしい。
内田さん、「文学」を語るのにそういう尺度を持ち出してくることじたい、あなたの思考がいかに低俗かを物語っているのですよ。
批評精神とは、たった「ひとり」の孤立した存在になり、世界中を敵にまわして何かを語ることだ、と僕は思っている。
村上春樹が敬愛するカフカもカミユもR・カーバーも、そういう立場に立って「文学」を紡いでいる。彼らに比べると村上春樹はねえ・・・・・・と言葉を濁す人がいる。その通りかどうか僕にはよくわからないのだが、すくなくともそれは、世界的に人気があるとかないとか、そんなこととは関係ない。
世界的に見ても、カーバーより村上春樹の方が人気がある。カーバーの地元のアメリカ国内にかぎっても、そうかもしれない。しかしカーバーの方が文学としては格上だという人はいくらでもいる。
村上春樹自身が、そういう限界を自覚しているのかもしれない。だから、がんばって翻訳をしたのだろうか。
村上春樹は、なぜあんなにも耳触りのいい言葉やイメージを次から次へと紡ぎだせるのだろうか。もしかしたらそれは、彼の精神がどこかしらで共同体と馴れ合ってしまっているからかもしれない。そのあたりの「芸」においては、世界中の誰にも負けない。だから人気があるし、だから限界がある・・・・・・?
われわれは、「共同体」とか「宗教」とか「貨幣経済」とか「戦争・殺人」とか「家族問題」とか「死の恐怖」とか、さまざまな精神の「ゆがみ」を抱えて暮らしている。そういう「ゆがみ」につけ込んで安心と慰めを与えてやれば人気者になれるし、逆にそういう「ゆがみ」を告発すれば、世界中を敵にまわすことになる。
内田氏は、そういう「ゆがみ」を人間であることの「受難」として自覚していない。
鈍感で単細胞だから。
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内田氏によれば、村上文学の普遍性は、「死者とのコミュニケーション」を表現していることにあるんだってさ。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』などは、まあそんなふうにも読める物語でしょう。
しかし、そこで彼が表現したかったのは、もっと別のことかもしれない。
われわれがふだん暮らしている現実のこの世界に対する信憑性が薄らいでいったとき、もうひとつ別の世界が心の中に浮かんでくる・・・・・・現代人のそういう精神の病を美しく書きたかったのだとしたら、そのもうひとつの世界とは、死者の世界ではない。
彼は、つねに現代人の精神が抱くこの世界に対する手触りのあいまいさ不確かさを描いている。
村上春樹は、現代人の精神の病を美しく書く達人なのだ。そして、登場人物の他者に対する態度がいつも伏目がちで、あからさまに「見つめる」ということをしない。それはきわめて日本的な作法で、そんなところが「関係の美しさ」として外国人に新鮮な感動を与えているのではないだろうか、と思わないでもない。
「見つめる」のではなく、他者を「許す」視線。
外国人じゃ、あそこまで繊細で甘美な関係というのは書けない。「もののあはれ」というか、「源氏物語」と通じているのかもしれない。
いやまあ、村上春樹のことは、あまり語りたくない。それよりも「死者とのコミュニケーション」という問題をものすごく粗雑に考えている内田氏の態度が、僕は気に食わないのだ。
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人類史的にいえば、死者とのコミュニケーションを最初にしたのは、政敵を殺した権力者です。その強迫観念に死者が現れてきたのがはじめです。
江戸時代の「狐憑き」や「四谷怪談」は、権力者のそうした強迫観念が庶民のレベルまで下りていった結果です。
古代の庶民は、親しい人の死を前にして、すでにコミュニケーションが断たれたことを、ひたすらなげき悲しんだだけでしょう。そしてその事実を受け容れるために「葬送儀礼」をはじめた。
死者とのコミュニケーションをとるのは、いつだって巫女などの呪術者の仕事であり、そのほとんどはインチキだった。古代人が死者とのコミュニケーションの不可能性を自覚していなかったら、そうした職業も生まれてこなかったはずである。
そして現代人は、「スピリチュアル」だのなんだのと称して、死者とのコミュニケーションをさかんにしたがる。そして、している気になってゆく。
死者とコミュニケーションをとることなど、ただの現代病なのだ。そんなことをしているから、「狐憑き」になり、「鬱」になっちまうのだ。
「死者とコミュニケーションをする」というテーマなど、すっかり手垢のついた、どうしようもなく通俗的なテーマにすぎない。そんなテーマなど、三流の通俗小説の作家だって持っている。ハリウッドの娯楽映画界だって、そのテーマで腐るほど映画をつくってきた。
「死者とコミュニケーションをする」という観念行為は、われわれ現代人に背負わされた「負債」であって、文学に課せられたテーマは、その負債をいかに返済(克服)してゆくかにある。
『異邦人』の主人公であるムルソーが「ママンの死を悲しむ権利は誰にもない」と呟いたのは、「死者とのコミュニケーションを断念することこそがわれわれの希望である」という作者カミユのメッセージなのだ。
わかりますか、内田さん。
村上春樹が描く現実世界の手触りの不確かさは、「死者とコミュニケーションをする」ことによっては克服できない。その不確かさを携えつつ、なお死者とのコミュニケーションを断念してゆくことにある。不確かさを味わい尽くすこと、それが生きることだ、とカーバーは言っている。
村上春樹があんなにもカーバーの翻訳にこだわったのは、もしかしたらそんなところにあるのではないか、と僕には思える。
いずれにせよ、内田氏にそんなふうに持ち上げられても、村上春樹にとってはいい迷惑なのではないだろうか。
それとも、他愛なくよろこんでいるのだろうか。