内田樹という迷惑・テキストを読む

内田樹氏は、どうしても「おしゃれな人間」を気取りたいのですね。
だから、文学のセンスなんか何にもないくせに文学通を気取りたがる。文学通を気取るための手練手管はよく心得ているし、じつにまあ勤勉でもある。
村上春樹にご用心」という村上春樹論の内容なんか、スカスカです。ほめ殺し、という言葉があるが、もし僕が村上春樹なら、自分の文学が卑しめられている、と思ってしまう。
と言っても僕だって文学オンチだから、えらそうなことはいえない。
それはまあいい。しかし、どうしてああもあさましく「おしゃれな人間」を気取りたがるのだろう。
それはたぶん、強迫観念であり、何かに対するルサンチマンであろうと思えます。
若いころ、自分が思うほどまわりはかっこいいと認めてくれなかった、ということでしょうか。
自分をかっこよく見せようとするやり方は人さまざまだけど、見せようとしなくてもかっこいいと見られてしまう人間は、そんな努力はしない。
内田樹は特別だ、と思われるようなものは、何も持っていない。そういう人間は、そう思われるための努力をしなければならない。
自分をどう見せるか、という努力ばかりしている。それが、あさましい。
どうしてそこまで「自分」にこだわるのか。
たぶん、自分の領分、というのを持っていないからです。
「自分の領分」を持ってしまっている人間は、自分にうんざりしてしまっている。自分に気づくことの鬱陶しさを知っている。そんなとき、「世界の輝き」が消えている。だから、自分になんか気づきたくない。いつも、「他者」に気づいていたい、と思う。
世界が輝いて見えることの恍惚というものがある。そういうことを表現したのがカミユの「異邦人」という小説なのだろうと思います。
主人公ムルソーは、自己分析なんか何にもしていない。「自分を見つめなさい」と言う司祭に対して、「いやだ」と反抗する。しかしそういう人間は、「無用」の存在としてこの社会から抹殺されるしかない。よろしい、だったら抹殺されてやろうじゃないか。どうせ生きることになんの意味もないのだ。そう言ってムルソーは、死刑囚であることを引き受けた。
たぶんあのときアラビア人を射殺したのは正当防衛だったはずなのに、彼は、なぜ殺したのかという問いに「太陽がまぶしかったから」としか答えなかった。
そのとき自分の命が危機に瀕していた、という自覚がなかった。それが、彼を死刑囚にしてしまった。
この小説における「自己」に対する視線の欠落は、いわば「キリスト教」に対する挑戦だった。ムルソーは、「救済」を拒絶した。それは、「自己」を見つめることを拒絶して「世界の不条理」を見つめることだった。
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若者は、自分との関係に混乱している。
それに対して大人たちは、自分との関係をアイデンティティにして生きている。「自分を確立している」のが大人の世界らしい。そして内田樹先生は、その代表選手です。自分をかっこいい人間に見せる手練手管を心得ている。だから一部の若者が、彼に憧れ崇拝する。
内田氏のブログには、内田氏と同様に自分をかっこよく見せたくてうずうずしている若者たちが群がっている。そこに捨て身の「イカフライ」氏が切り込んでいって暴れている。なんだかそれは、「異邦人」の中のムルソーと司祭の対決の場面を連想させます。
僕も参加したいところだけど、僕は彼ほどには言葉も世間も知らないし、そんな暇もない。
しかし、彼とは何かを共有しているかもしれないというそこはかとない連帯感は、密かに抱いています。向こうさんはいい迷惑かもしれないけど。
それは、自分をかっこよく見せることばかりやってないで、少しは「世界は輝いている」ということにも気づけよ、ということです。
内田氏も内田氏のファンも、世界に対してどこか恨みがましい視線を持っているし、「イカフライ」氏の方がずっと素直に世界を肯定している。
煙草のポイ捨てに顔をゆがめるのは、恨みがましいことです。いまや、そんな恨みがましさが正義の世の中になっている。でも僕は、「こんな世の中ろくなもんじゃない」という感じでちょいと顔をゆがめながらポイ捨てする若者を見るのは嫌じゃない。
自分が正義のがわに立っていることをアイデンティティにしている人間なんか、反吐が出る。自分がかっこいいことを示したがっている人間なんか、ちっともかっこいいとも思わない。
「ちょいわるオヤジ」に見せようと頑張っているお父さんも、文学通を気取っている内田氏も、根は同じなのだと思う。なんか恨みがましくて、ぶざまなくらい野暮ったい。
「冠婚葬祭はフルエントリーで行え」とか「結婚とは親族をつくるための制度である」とか、内田さん、それじゃあ野暮ったすぎて「文学」になっていないのですよ。しかしあなたがほんとうに文学通であるのなら、そういうところにこそ文学性が滲み出てこなければならない。文学を論じなければ文学通であること認めさせることができないなんて、垢抜けない態度だし、それだけで何とかなると思っているのだとしたら人をなめている。
文学の本質は、テキストを読むとか書くという行為にあるのではない。この「世界」をどう体験するかとしてあるのだ。
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内田氏によると、テキストを読むことの醍醐味は、「自分だけが言葉の背後に潜んでいる作者のメッセージを読み取った」という愉悦にあるのだとか。くだらない。じゃあ、他人はどう読み取ったのかということが、あなたにわかるのか。「自分だけ」などという認識は、あなたのナルシズムの上でしか成立しないんだぜ。
そして裏を返せば、テキストを書くことは、そうやって相手をいい気持にさせてたらしこむことだ、と言っていることになる。読者は、そういう自惚れの自己満足のためにテキストを読み、作者はそう思わせてやるための「コールサイン」をあちこちに仕掛けていて、それが優れたテキストであることの資格になっているのだとか。
この人は、どうしてこんな卑しい読み方や書き方をするのだろう。文学=テキストを愚弄している。
つまり、文学に対するセンスがない人は、そういう倒錯的なことに快感を見出してゆくしかない、ということをさらけ出しているだけです。
僕だって文学オンチだけど、それがいかに倒錯的な愉悦かということくらいはわかる。
僕は、作者がどんなメッセージを仕込んでいるかなんて、ぜんぜんわからない。ただ、村上春樹に「ママレード」なんて言われると泣きそうになるだけです。そこに書かれてある言葉を、自分を忘れて体験してしまっているだけです。舌なめずりして「自分だけが読み取った」なんて、そんな薄気味悪い愉悦など体験したこともない。
そのとき僕は、作者の意図を追体験しているのではない。そこに書かれた言葉を体験しているだけです。
僕と村上春樹のあいだに「テキスト」がある。僕とテキストとの関係は、僕と村上春樹との関係ではない。そんなこと、当たりまえでしょう。僕は読みながら村上春樹のことを思うが、村上春樹と関係を結ぶことの不可能性も承知している。村上春樹の何がわかるわけでもない。たとえ何かを読み取ったとしても、それが村上春樹からのメッセージであると、どうやって確認するのですか。
僕は、自分の能力の範囲でそこに書かれてある言葉を「体験」するだけであって、村上春樹についてわかることなんか何もない。
僕は、言葉の背後に潜むものを読み取ることはできるが、作者のメッセージを読み取ることはできない。それはたしかに「自分だけの体験」であるが、「自分の範囲でしか体験できない」ということであって、「こんなことを読み取ったのは俺くらいのものだろう」というような倒錯的な自意識とは別のものだ。そんな薄気味悪い自意識に浸るために、僕はテキストを読むのではない。
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言葉は、他者の前に差し出される。相手に伝える(届ける=贈与する)のではなく、ただ相手の前に差し出すだけです。これが言葉の本質であり、ふだんの会話だろうとテキストだろうと同じです。他者(の身体)とのあいだに「空間」が存在することをよろこび、その「共有」している「空間」を祝福してゆく。これが、直立二足歩行する人間性の基礎です。
表現された言葉は、この「共有」された空間で生成する。
根源的には、他者に伝えようとする欲望を持つことは不可能なのです。他者が自分の表現する言葉をぜんぶ知っているとはかぎらないし、どのように受け取ってくれるかはなおわからない。しかし「私」と「あなた」のあいだの「空間」では、日本語という「信憑(=合意)」が「共有」されている。その「共有」された「信憑(=合意)」に向かって言葉を投げ入れるのが、話す=書くという行為です。
村上春樹のテキストの優秀さは、他者とのあいだの「空間」をどう多様に彩ってゆくかということにあるのであって、他者をたらしこむのがうまいことにあるのではない。
内田さん、あなたは、村上春樹はたらしこむのがうまい、といっているのですよ。だから村上春樹からすれば、あなたになんと誉められようと、誉められれば誉められるほど、はずかしめられていると思うしかないのですよ。村上春樹は、あなたと違ってもっと他者を畏れている。
内田氏の文学や映画の読みは、「解釈」といえば聞こえはいいが、下司の勘ぐりばかりで「体験=感動」が欠落している。俺はこんなことを読み取ったんだぜ、と得意顔で吹聴するばかりで、「体験=感動」がない。というか、内田氏にとっての「体験=感動」とは、「自分(のかっこよさ)」を確認する(=自分が生起する)ことであって、自分を忘れて「共有」された「空間」を祝福してゆくことではないらしい。
「テキストを読むことによって私が生起する(<女は何を欲望するか?>より)」なんて、そういうさもしいことばかり考えている人間の「下司の勘ぐり」が、内田氏における「批評」という行為らしい。
だからあなたは、文学オンチなのですよ。
あなたにとってテキストを読むことは「自分が生起する」体験らしいが、われわれは単純に「自分を忘れる」体験をしているだけなのです。
誰もがあなたほど暑苦しい自己顕示欲にうつつをぬかして生きているわけではない。
小ざかしくかわい子ぶりっ子しながら、そのじつ「俺が俺が」と吹きまくっているだけじゃないか。