「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?39・冠婚葬祭

三流の俗悪なコラムニストが哲学者づらしてのさばっていやがる。
内田樹氏のことをこのように評していた人がいます。
まったく、その通りだと思います。それは、とても悲しいことです。いったいいつからそんな世の中になっちまったのだ、という話です。
そんな世の中なら、そんな世の中でいいですよ。それはもう、受け入れるしかない。
しかし、そんな世の中だからこそ、内田氏のごときくだらない言説を批判する意見もあって欲しい。そうでなければ、僕のようなこの社会にうまくフィットできない落ちこぼれには希望がなくなってしまう。
おまえも内田氏に共感していけばいいではないか、そうすれば落ちこぼれにならないですむ、といわれたって、それはできない。あんなあほに共感できるくらいなら、落ちこぼれになんかならないって。
べつに能力がないから落ちこぼれになるのではない。あんなあほに共感できるほど鈍感じゃないからだ。自分を鈍感にしてでもいい思いをして生きていきたいと願うほど、この世の中を悲観していないからだ。
いい思いなんかできなくても、この世界は輝いている、という瞬間を体験してしまうからだ。
そうやって自分のことなど忘れてしまうからだ。
そういう体験なら、たぶん、内田氏よりも僕のほうがずっとしている。
僕に足りないのは、「俺もまんざらじゃない」と悦にいる体験です。この体験なら、僕は内田氏の万分の1も持っていない。そして、たいていの人は、この体験こそが大切なのでしょうね。内田氏のように。
なにはともあれ僕はもう、内田氏のような下品でレベルの低い思想に共感して生きてゆくことなんかできない。
そしてそういう人間がけっして自分だけじゃないということが、このごろ少し見えてきたような気がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まったく、ていどの低いことばかりほざいていやがる。
内田氏は、自分が父親の何周忌かを体験した感動をしたためつつ、最後に突然こんな傲慢なことを言い出す。
「冠婚葬祭はフルエントリーで行えというのは人類学的に真である」と。
これは、聞き捨てならない言い草です。
つまり、冠婚葬祭を「フルエントリー」で行っている人間は由緒正しい人間で、略式にしたり儀式そのものをしなかったりする人間は人間として間違っている、と言っているのです。
世の中には、いろんな事情でしたくてもできない人、したくない人はいくらでもいる。そういう人たちより「フルエントリー」した人のほうがたくさん喜び、悲しみ、弔っていると、ほんとうにいえるでしょうか。
こんな贅沢な世の中でも、結婚式などというものとは無縁にひっそりと二人だけの暮らしをスタートする男女もきっとどこかにいるでしょう。そんな二人に対して、映画スターみたいに派手な結婚式をして外国旅行に行ったあげくに帰りの成田空港で別れる、という夫婦だっている。
通夜も葬式もなく、ただ焼き場で焼いてきただけ、という弔い方だってあるでしょう。
僕も、3年前に母親が死んだときは、兄弟三人だけで通夜をして焼き場で焼いてきた。女房も親戚も参加させなかった。僕じしんはたいした感慨もなかったが、弟や妹は、その悲しみを他人に汚されたくない、という思いがあったらしい。
そういう弔い方もある。
どうして「フルエントリー」でしなきゃいけないのか。
やりたきゃやればいいけど、こちらとしても、あなたみたいな俗物に偉そうな顔をして差別されたくはないのですよ。悲しみは儀式の中だけにあるのではない、儀式の中だけにあると思っているのはあなたがイメージ貧困だからだ。
内田さん、だからあなたには「文学」がわからないのですよ。わからないやつが虚勢を張って、文学のことをしきりに語りたがる。そうして語れば語るほど底の浅さが露呈してくる。
ところであの「イカフライ」氏は、このことについてこうコメントしている。
「フルエントリーの儀式をして自己満足に浸るやつもいれば、簡素な葬式に出されたオレンジジュースの色を見て涙が止まらなくなる人もいる。そういう人の悲しみを逆撫でするようなことをよくも平気でいえるものだ。恥を知れ。」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、結婚式もしていないし、父親の何周忌だということもした記憶がない。
「異邦人」の主人公ムルソーが、「ママンの死を悲しむ権利など誰にもない」とつぶやいた感慨を、内田さん、あなたはなんと考えているのか。その薄っぺらな脳みそでなんと考えているのか。「冠婚葬祭はフルエントリーで行え」という人間が、「異邦人」の新訳をするつもりなのだとか。笑わせてくれます。
僕は、父親の仏壇に手を合わせたことなど一度もない。そんなことは、死んでしまった人にとっては何の意味もないからだ。自分のためだったら、どうでもいいことだし、自分のためにすることの卑しさに恥ずかしくなってしまうからだ。
でもたぶん、僕だって人並みに父親を慕っていたし、人並みに殺してやりたいくらい憎んでもいた。二十歳のころ、僕が「親父なんか殺してしまいたい」というたびに、まわりの友人からは「おまえくらい父が好きな息子もいない」といわれた。
僕には、父の死を悲しむ権利はない。僕にとって父を慕うことは、殺してやりたいくらい憎むことだったのだから。
だから、父親の弔いなんかしない。
父親の弔いを「フルエントリー」でして自慢しているやつと出会うと、吐き気がする。
僕は、父親のことなんか毎日泣きたい気持で思い出しているから、いまさら供養をする必要も、仏壇に手を合わす必要すらない。
僕はたぶん、父親の思い出を、死ぬまで引きずってゆくだろう。
儀式なんか、生き残ったやつのためにやっていることであって、死んでしまった人にとっては何の意味もない。死んでしまった人にとっても何か意味があるように思うことなど、生き残った人間の自己満足や強迫観念にすぎない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なにが「人類学的に真である」だ。
内田氏には、決定的に人類学的な「センス」が欠落している。だから、どんなに知識をためこんでも真実や根源には届かない。
文学だろうと哲学だろうと人類学だろうと、あなたは決定的に「センス」が欠落しているのですよ。だから、「三流のコラムニスト」などといわれなければならないのだ。
たとえば、最近のブログで彼は、夏目漱石の「我輩は猫である」は、そういうモチーフで書いているイギリス文学が先にあって、漱石はそれを読んでいた、という。そうして同じモチーフがバトンタッチされていく文学的な現象をどうとかこうとかと説明しています。
ここに、内田氏の「センス」の限界が現れている。自分がなんでも「これいただき」と既成の言説をパクって口先だけで吹聴しまくっているから、人もそうだと思っていやがる。
夏目漱石は「これいただき」と思ったのではない。読む前からそういうモチーフがあって、それを先人と共有していることに気づいただけでしょう。そうして「ああこんな書き方もありか」と思った。先人の内面をバトンタッチされたのではない。自分の内面に気づかされただけです。
内面なんか、バトンタッチしようもないことです。「すでに共有している」だけです。
そのモチーフをバトンタッチされたものとして分析するか、共有された普遍性として抽出してゆくか。このへんが「センス」の問題です。
内田氏は、発想が卑しいのですよ。しょせんは、そういう「センス」なのですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の弥生式土器は、大陸から伝わってきた、ということになっています。この国の歴史学(人類学)においては、日本にあって大陸にもあるものはなんでもかんでも大陸から伝わってきたことになっている。
しかし、神奈川県で出土したある土器が、大陸で出土している同じ様式の土器よりもずっと古いことがわかった。
すると学者たちは、いずれもっと古いものが大陸から掘り出されるに決まっている、という。
どっちが古くても関係ないことです。男の手でつくられた土器は、大陸だろうと日本だろうとだいたいあんなかたちになるのです。
日本語の起源は、インドのタミール人が日本にやってきて伝えたものだと言っている言語学者がいます。これも、あほじゃないかと思う。じゃあそれ以前に日本列島に言葉はなかったのか、ということになる。言葉は、何百万年かかけて動物的な唸り声から原始言語に成長し、さらに何十万年かのちに現代の文節を持った言葉へと完成されていった。そういう気の遠くなるような長い歴史の上につくられたのであって、よそ者がいきなりやってきて広めてしまうことなんかありえないのだ。大昔のタミール地方と縄文時代とは社会の構造が似ていたのでしょう。だから、同じような発音の言葉がいくつかあるというだけのことだ。つまり言葉が生まれてくる条件のいくぶんかを「共有」していた、というだけのことだ。
われわれは、どんな感慨も「伝え合う」ことはできない。しかし、すでに「共有」している感慨がある。
縄文土器は、女だけでつくられていた。男には、あんな情感豊かな文様は産み出せない。縄文時代は、家は女と子供だけの空間であり、男たちは山野をさすらいながら、あちこちの女だけの集落を訪ね歩いていた。つまり、男が土器作りに参加しない社会の構造になっていた。そして農耕文化が始まり、男も家族のいとなみに参加してゆくようになると、男が土器をつくり始めた。男がつくる土器は、女がつくるそれよりも高品質で、模様はシンプルで直線的になる。縄文土器は、縄文人の感性というよりも、女の感性が表現されている。同様に、弥生式土器は、弥生人というよりも、男の感性によるものです。
そういうことを考えるなら、何もかも大陸から伝わってきたとはいえない。
漆の技術にしろ稲作にしろ、大陸とは没交渉だった縄文人がすでに知っていた。そこに野性の稲が生えていたら、べつに大陸の人間に教えられなくてもいつの間にか自分たちで栽培するようになる。大陸の人間だって、そうやって稲作を覚えていったのだもの。
稲作の技術は、「伝えられた」のではない、アジアの各地で「共有」されていったのだ。
文学だって同じです。伝えられるのではなく、普遍的に「共有」されるモチーフがある、というだけのことです。文学的な内面なら、なおさら伝わりようもないことでしょう。内田氏が口からでまかせを吹きまくるような調子で「これいただき」というわけにはいかないのだ。
つまり内田氏の「センス」では、バトンタッチされるレベルの表面的なことしか分析できないわけで、それを普遍的な人間の内面かなにかのように決め付け言い立ててくるから、うざったいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「冠婚葬祭」が人間の歴史(=社会の構造)をつくってきたのではない、人間の歴史(=社会の構造)が「冠婚葬祭」を生み出し、変化させ、完成させていったのだ・・・・・・とレヴィ=ストロースは言っている。
縄文土器から弥生式土器への移行は、大陸の影響ではなく、社会の構造の変化によるのだ。
人間は最初から冠婚葬祭をやっていたわけではない。当たりまえですよね。
社会の構造とともに、冠婚葬祭も変化し完成されてきた。「フルエントリー」で行うのは、現代人だけです。中世なんか、川に死体がぷかぷか浮かんで流れていたのですよ。原始人や古代人なら、もっといいかげんにやっていたし、もっと別のかたちでやっていた。
江戸時代だって、堕胎した「水子」は、川に流されて魚の餌になっただけであり、これも「人類学的に真である」事実のひとつです。そういうことを考えるなら、脳みその薄っぺらなやつの「フルエントリー」なんて言い草には、殺意すらおぼえる。
冠婚葬祭なんて、時代や地域でさまざまだし、そんなことは「社会の構造」によって規定されていることであって、人間の本質とはなんの関係もない。関係ないことこそ「人類学的に真である」、とレヴィ=ストロースは言っている。
「社会の歴史は人間なしにはじまり人間なしに終わるだろう」と言ったレヴィ=ストロースの感慨は、永久に内田氏には伝わらない。この脳みその薄っぺらな大学教授には、そういう感慨を「共有」できるような「センス」はない。
冠婚葬祭になんの意義も意味も人間の根源も含まれていない。たんなる社会生活の手続きにすぎない。これは「人類学的に真」であり、レヴィ=ストロースの感慨もそこにある。
そんな手続きなどどうでもいいが、そんな手続きを生み出してしまうくらい、人は、他者の死を悲しみ、他者と出会えば一緒に暮らしたいと思うほどときめいてしまう。
他者=世界に深く感慨を抱いてしまうということは、冠婚葬祭以前のそれじたいとして人間にそなわっている資質であるはずです。
橋の上から死体を投げ捨てる中世の非人や、川にしゃがんで堕胎する江戸時代の農民よりも、「フルエントリー」で葬式をする内田氏の悲しみのほうが深いとは、けっしていえないでしょう。「いえる」と思う人は、どうぞかかってきてください。容赦はしない。
「あなた」と出会ったことはこの地球の歴史のたった一回きりの奇跡だと深く気づくなら、彼らに「フルエントリー」の結婚式など必要ない。友達を呼んでちょいとしたパーティをするだけでじゅうぶんだと思う。
想像力の貧困な人たちの凡庸な出会いのために、「フルエントリー」の結婚式が必要になる。
誰にも内緒でひっそりと「水子」を川に流してきた彼女は、この悲しみを自分だけのものとして一生背負っていこうと覚悟した。いや、彼女には、悲しむ資格さえない。流された「水子からしたら、悲しまないですむ選択をどうしてしなかったのか、という話です。
悲しむ資格のないことを自覚したものの悲しみを、内田さん、あなたは想像できますか。
「フルエントリー」の葬式や供養など、想像力や覚悟が貧困な人たちのために用意されているにすぎない。
冠婚葬祭の背後に隠されている「人類学的な真」というものがある。このことは、内田氏ていどの「センス」じゃわからない。
たぶん冠婚葬祭は、深くときめくことのできないものにときめきを与え、悲しみを深く味わい尽くすことのできないものにはそれを和らげてやるための制度なのだ。そうして、死者を忘れていい気になって暮らしている連中には、思い出すための供養の儀式が必要になる。
ネアンデルタールは、子供を失った母親の悲しみを和らげようとして埋葬を始めた。これが、冠婚葬祭の起源です。
この世の中には、自分よりももっと深く悲しんでいる人がいる、もっと深くときめいている人がいる、そういうことに気づいたとき、人は冠婚葬祭によって帳尻を合わせようとする。認めたくはないだろうが、これが「人類学的に真である」のです。
つまり、内田氏のごとき鈍感でのうてんきなお方には、「フルエントリー」の冠婚葬祭がどうしても必要になる、ということです。勝手にやってろ。