「愛する」なんて、いったいどんな行為なのか、どんな心の動きなのか、よくわかりません。
「ときめく」とか、抱きしめたいほど「いとしい」とか、一緒にいると「たのしい」とか「ほっとする」とか、とても「すてき」だと思うとか、あるいは青い空が「目にしみる」とか、まあそんなような心の動きのことならなんとか想像がつくし、多少は自分も体験しているのかなと思わないでもないが、「愛する」といわれると、とたんにわからなくなる。
そういう心の動きを全部ひっくるめてそう言うのだといわれるのかもしれないが、しかしそういう心の動きは殺人犯だろうと詐欺師だろうと僕のようなだめ人間だろうと誰もが体験していることであって、大切なものでもなんでもない。
つまり、「愛」がそういうものであるなら、いまさらあなたたちに「愛が大切だ」とか「愛を持ちなさい」とか言われる筋合いはない。すでに誰もが持っているものじゃないか。
他人がどういう心の動きをしているかなんて、僕にはさっぱりわからない。言われたらわかるじゃないかというが、それは、言われなかったら永久にわからないということですよ。われわれは、そうやって相手の言うことや態度や表情に反応しているだけであって、ほんとうの心の動きそのものに対してではない。
たとえ本心は嫌いでも、上手ににっこり笑って見せられたら、騙されてしまうじゃないですか。言葉なら、なお嘘がつきやすい。
われわれは、そういう「表現されたもの」に反応しあっているのであって、心そのものを感じ合っているのではない。
どんなに言っても言い足りないと思うこともあれば、言い過ぎたかな、と思うこともある。自分の心を表現することはとても難しいことであるし、相手の心を察知することなんて不可能です。
心を伝えることができないからこそ、逆に嘘の心を伝えることができてしまう。ほんとうは自分の心を伝えたり相手の心を察知したりすることなんか不可能なのだが、この社会には、伝え合うことができるという「合意」がなされている。
そうして、伝え合っている気分になって仲良くすることを、「愛し合う」というらしい。
家族だろうと会社だろうと学校だろうと恋人どうしだろうと、この社会の集団は、伝え合っているという「合意」の上にいとなまれている。
そういう「合意」のことを、「愛」という。
「愛」とは、仲良くやってゆく手続きのことであって、心のことではない。
「愛を持ちなさい」と言うのではなく、「仲良くやってゆく手続きを持ちなさい」と言われるのなら、まあ多少は納得できる。それを、清らかな心のように言われるから、わからなくなるのだ。「愛」を持っているからといって、清らかな心を持っているとはかぎらない。
「心」は「愛」とは関係なく、ときめいたり憎んだりうんざりしたりよろこんだり悲しんだりしている。
われわれはそれを、伝えることはできない。「表現」できるだけです。そしてそれを相手がどのように受けとめるのかは、相手しだいです。大げさに受けとめる人もいれば、ちょっとしか反応しない人もいる。違うようにねじまげて受け取る人もいる。
われわれは、表現して相手の前に差し出すことができるだけです。
「伝える」ことなんかできない。
それをどう解釈しようと相手の勝手です。
そのように、人と人のあいだには、けっしてわかり合うことのできない裂け目がある。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、くっ付きあうことをやめて、おたがいの体のあいだに「空間」をつくった。そうして、胸・腹・性器などの急所という弱みをさらし合いながら、けっして攻撃しないことを誓い合った。
相手との出会いにときめきながら、わかり合うことを断念しておたがいのあいだに「裂け目という空間」を共有した。その「空間」を共有していることの証しとして、われわれは、言葉や表情や態度という「表現」をそこに投げ入れあう。
相手がどう解釈しようと相手の勝手だけれど、表現せずにいられないときめきがある。それは、共有している「空間」を祝福してゆこうとする身振りです。
つながりあいたいのではない、「空間」を共有しようとするのが人間の本性です。
男と女は、わかり合えないという絶望にうながされて抱きしめ合う。
彼と彼女は、心を伝え合うのではなく、「出会っている」というときめきを表現し抱きしめ合っている。
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人と人は、体がぶつかり合わないための「空間」を確保し合おうとし、その「空間」を祝福し合おうとする。
その「空間」は、けっしてわかり合うことなんかできないという、他者とのあいだに横たわる「裂け目」です。
人と人は、体がぶつかり合うことを「拒絶」し合いながら、拒絶の証しとしての「空間」を祝福しあう。他者を祝福するのではない、この「空間」を祝福し合っているのだ。この「空間」の意味を祝福し合うのだ。
他者の「差異性」とは、他者と自分の違いがわかるということではない。他者のことなどわからないのだ。自分を忘れて見とれてしまうとき、みずからの「不在」と他者の「現前」という「差異」が体験される。そうして、もっとたしかに他者の存在を感じようとし、もっと強く自分を忘れようとしながら抱きしめあうことになる。「空間」を消去することが、よりヴィヴィッドに「差異性=裂け目」としての「空間」を体験することになるというパラドックス。つまり、自分を忘れるとは、みずからが「空間」になってしまう体験にほかならない。それは、「自分」を祝福することではない、あくまで他者の前に存在する「空間」を祝福しているのだ。自分を忘れて「空間」に憑依してゆくこと、「あなた」と「私」が出会っているという「空間」にときめくこと、それが、抱きしめ合って自分が「空間」になってしまうことの恍惚なのだ。
人間にとって、他者の存在そのものは、あくまで鬱陶しい対象です。だから、他者とのあいだに「空間」を必要とする。他者は「空間=裂け目」の向こうに存在する。他者の存在にときめくとは、自分が「空間」になってしまう体験にほかならない。他者と抱きしめあったとき、他者の身体ばかりを感じて、みずからの身体はたんなる「空間」として感じられている。
みずからの身体を、たんなる「輪郭=空間」として感じる(認識する)こと、これが人間存在の基礎であろうと思えます。この認識を基礎としてわれわれは、世界を認識し、他者にときめき、体を動かすということをしている。
私の身体は、他者の前に存在する「空間」である、という認識。この認識=身体感覚が、人間性を基礎付けている。
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逆に自分のいらだちや不安や恐怖が気になって仕方がないくらい他者に幻滅してしまったとき、「空間」を喪失した状態に陥り、つまり他者と体をぶつけ合っているような心地になって、他者からさらに離れようとしたり、他者を抹殺しようとしたりする。
生きてあることのストレスは、自分の身体を「空間=輪郭」として感じることを喪失した状態においてもたらされる。
腹が減れば、身体を「物体」として感じてしまう。
他者にいらだてば、体中がざわざわして「物体」として感じられてしまう。その苦い身体感覚を吐き出そうとして、言葉を投げつける。
言葉を失えば、ストレスはどんどん蓄積されてゆく。
言葉は、他者の前の「空間」に投げ入れられる。他者に届かなくても、ひとまず「空間」を確認することができれば少しは落ち着く。怒ったときは、相手が外国人だからといって、外国語を使う必要はない。むしろ日本語で「ばかやろう」といったほうがさっぱりする。向こうだって、「アナタバカデスネ」と、たどたどしく言葉を吐くようなことはしない。「ファック・ユー」と返してくる。
言葉の本質は、他者に伝える(コミュニケートする)ことにあるのではなく、他者の前の「空間」に投げ入れることにある。
他者とのあいだの「空間」を確保しようとすること、これが人間性の基礎です。
人間は、他者を「拒絶」している。拒絶しつつときめいている。ときめきつつ拒絶している。「一体化」することなんかできない。一体化していると思うことは病気(統合失調)です。
そして「拒絶」しているから、人殺しも起きる。
その差は、「空間」を確認できるか否かです。拒絶している「空間」が確保されていれば、人殺しは起きない。抱きしめ合ってなお確認される「空間=(私の)身体」がある。
われわれは、けっして「一体化=共生」することはできない。言い換えれば、観念的に「一体化=共生」してしまうから、人殺しや戦争が起きるのだ。
こういうことは、内田樹氏のインポな論理では説明がつかない。「他者と共生する」とか「他者の承認を得る」とか、そんなことを言っているから、あなたの体の動きは鈍くさいのだ。
われわれは、他者を承認しない。拒絶している。拒絶しつつときめいている。ときめきつつ拒絶している。拒絶して「空間」を認識する。
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