人間の体毛はなぜ抜け落ちたのか、ということがよく議論されています。
水の中に住む猿だったったから、陸に上がったときは最初から毛がなかったのだ、という説があります。こんないいかげんな仮説を出されて本気で信じてしまっている人がけっこういるというのだからあきれます。
そうして、現在の体毛が陸上世活に対応するために生えてきたのだというのなら、いちばん生えてこなければならないのは、胸や腹の急所です。そして、手や足に毛が生えている意味なんか何にもないでしょう。
話が逆なのですよ。
なぜ生えるべき胸や腹に毛がないのか。しかもなぜ女のほうが体毛が少ないのか。
その部分は、女のほうが、体毛でプロテクトする必要は多いはずです。
直立二足歩行によってホルモンに変化がおきたとか、まあいろいろ言われているけど、納得できる仮説なんか、何もない。
僕が考えることは、もっと誰もうなずいてくれないかもしれないけど、あえて書きます。
人間にとって胸や腹は、急所であるにもかかわらず外に晒してしまっているから、大きなストレスがたまっている。ストレスで抜け落ちていったのでしょう。そして抱き合って体をくっつけたりしているから、体の正面の肌はとくに敏感になっている。
女のほうがその部分の危険性は高く、とうぜんより敏感になってストレスも多く、とうとうつるつるになってしまった。
しかも、女の身体は、「見られる身体」です。男の視線は、あちこちから張り付いてくる。そういうストレスもある。さらには「触られる身体」です。「触られる身体」だから見られることのストレスや羞恥も募る、ということでしょうか。そんなわけで、ほとんどの部分が抜け落ちてしまった。
女は、男ほど熱心には見ないし、男は見られることに女ほどのストレスを感じていない。だから、男の体毛は女よりたくさん残っている。
直立二足歩行する人間は、猿や犬よりもはるかに強いストレスを抱えて存在している。だから体毛が抜け落ちたのであり、そのストレスから知能が発達し、文明や文化を生み出してきたのだ。
氷河期の北ヨーロッパのクロマニヨンなど、極寒の環境だったのだから、体毛はあったほうがずっとずっと過ごしやすかったはずです。それでも女には毛が生えなかった。ヨーロッパの男が毛深いのは、氷河期に好きこのんでそんな寒いところで暮らしていたことのなごりでしょう。
人類の体毛が抜け落ちたのは、直立二足歩行によって発生した「ストレス」によるのだろうと思えます。
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男に見つめられるから、女はよけい自分の身体のことが気になってしまう。
ベッドの上の女は、目をつぶる。それは、「画像」としての男の身体に対する「無関心」であると同時に、「物体」としての男の身体をより深く感じようとする強い「関心」でもある。
女は、根源において、みずからの身体を「物体」として認識している。体温の上下動や毎月の「さわり」など、彼女らは、みずからの身体を内がわから認識している。
しかしその一方で、社会的には、「見られる身体」として存在している。ここがやっかいなところです。見られることは鬱陶しいことだけど、身体が「画像」になってしまうことによって、物体としての身体に対する鬱陶しさから逃れられる。女は、みずからの身体が「画像」であることを受け入れつつ拒絶している。拒絶しつつ受け入れている。
他者の身体とのあいだに空間があれば、「見る」ことができる。しかし抱き合ってしまえば、もう「物体」として感じるだけしかできない。
女にとって身体は「物体」である。女は、身体を「物体」として認識している。にもかかわらず、社会的には「画像」としての「見られる身体」として生きることを余儀なくされている。
女は、みずからの身体を「画像」として認識する実感が欠落している。だから、彼女らには「鏡」が必要なのだ。
たとえば、男はネクタイを結んだあとに鏡で確認しなくても平気だが、女はそうはいかない。どんな些細なことも、必ず鏡で確認せずにいられない。それは、「見られる身体」であることを強く意識していると同時に、「見られる身体=画像」であることの実感が希薄だからでもある。
女は、見られることに強いとまどいを持っている。みずからが「見られる身体」であることと「和解」していない。だから、見られることに羞恥や嫌悪や不安をいだく。
女は、見られることの緊張を生きている。それは、身体を強く「物体」として意識しているからであって、「見られること」と「和解」しているからではない。和解していないから羞恥や嫌悪や不安をいだくのだ。
女は、身体を「画像」として認識する観念を持っていないのに、「画像」として生きることを余儀なくされている。
女に「見られる身体」を生きることを余儀なくさせているのは、男です。
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男は、女の身体を見ようとする。男は、本性的に身体を「画像」として認識している。
このことを考えようとするなら、われわれはまた「直立二足歩行」の問題に戻らねばならない。
男と女の関係において、身体を意識することの根拠(根源)は、性器にある。
性器を意識したときに、男(オス)と女(メス)になる。
猿や犬のオスは、「匂い」でメスの性器を察知する。メスの性器はすでに外に晒されているから、わざわざ見ようとする衝動を持つ必要がない。
しかし直立二足歩行する人間の女の性器は、その姿勢であるかぎり完全に隠されている。
人間の女は、直立二足歩行することによって、性器を隠してしまった。つまりそのとき、「見られる身体」であるという自覚がもてない存在になってしまった、ということだ。
そして男は、女の性器が隠されたことによって、見ようとする存在になるほかなかった。男にとってセックスをしようとすることは、見ようとすることである。見ようとする男と、見られることと和解していない(=拒絶している)女、この落差(非対称性)において、「人間的快楽」が生まれてくる。
人間の女にとっての身体は「隠す身体」であり、「隠す身体」は「物体」として認識される。彼女らは、男との関係において、みずからの身体を「隠す身体=物体」として認識し、男から「見られる身体」として取り扱われていることを自覚している。
したがって女は、根源的に「見られる身体」であることを拒絶している。
拒絶している心模様として、見られることの羞恥や嫌悪や不安が生じる。
女は、男の視線を受け入れつつ拒絶している。拒絶しながら受け入れている。
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男に「見るな」と言っても無理な話です。男とは、そういう生きものです。それを変えることはできない。ひとまずそれを受け入れるしかない。
人間は、二本の足で立ち上がることによって、正面から向き合う関係を持つようになった。正面から向き合うことを止揚して生きてゆく存在になった。
他の動物はこんなことはしない。正面から向き合うのは、けんかするときだけです。敵意の表現として、正面から向き合う。正面から向き合えば、敵意が生まれる。蛙は、蛇ににらまれると体が固まってしまう。孔雀のオスの広げた羽の模様には、たくさんの「目」がついている。それは、メスを威嚇して動けなくしてしまうためです。それは、求愛行動であると同時に、威嚇でもある。
求愛行動は、本質的に「威嚇」の要素を含んでいる。多くの動物においてオスの体が大きく派手な模様を持っていることは、メスに対する「威嚇=求愛」として機能している。
魚が大きな体のオスの求愛を受け入れるのは、優秀な種を残そうとする「種族維持の本能」によるのではなく、単純に大きければ大きいほど威嚇されてしまうからでしょう。
僕は、「種族維持の本能」などと言われると、めちゃめちゃむかつく。種族が維持されてゆくことは、そうした自然のいとなみのたんなる「結果」であって、維持しようとする「本能」があるからではない。そういう「優生思想」というのは、ほんとうにくだらないと思うし、真実ではないと思う。そういうことを何の疑いもなく信じきっている動物学者というオタク連中は、ほんとうにげすなやつらだと思う。一般人は、やつらがそんなことばかりほざきまくるから「種族維持の本能」とやらを信じているだけなのですよ。研究者のくせに、ひとまず疑ってみるくらいの思考力想像力がなぜもてないのか。
魚の名前をたくさん知っているとか、そうやって知識を蓄える頭のはたらきくらい、幼稚園の生徒でも持っている。
セックスアピールとは、ひとつの「威嚇」でもある。ただ人間の場合は、その「威嚇」の表現が動物ほど単純ではない。「弱さ」それじたいが「威嚇=セックスアピール」になることもある。なぜなら人間は、二本の足で立ち上がって向き合ったとき、胸や腹などの急所である相手の「弱み」を見てしまったからです。
人間にとって正面から向き合うことは、単純に「威嚇」だけではなく、本質的にはむしろ「弱み」をさらし合う関係になっている。その「弱み」をさらし合う関係が、抱きしめ合う行為へと向かわせる。相手の「弱み」を見てしまうことが、相手を抱きしめようとする契機になる。
直立二足歩行する人間においては、「見られる」ことはそのまま「弱みを見られる」ことでもある。したがって他者を見ようとしつつ、それでいて自分が「見られる」ことには「拒絶反応」を持っている。この不条理性の中に、人と人の関係の本質がある。
女が抱く男に対する根源的な「拒絶反応」は、「見られる」ことに対する「拒絶反応」である。
人間は、相手の「弱み」を「見てしまう」存在である。であれば、「見られる」ことを拒絶することは不可能である。だから、いったんは受け入れるしかない。しかし見られるのはあくまで「弱み」なのだから、受け入れつつ拒絶してしまう。拒絶しつつ受け入れてしまう。
女は、そういう人間存在の本質を、男以上に過激かつヴィヴィッドに抱えてしまっている。
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男は、二本の足で立ち上がることによって、もともと隠れていたはずの性器が外に晒されてしまった。だからもう、見られることと「和解」して生きるしかなかった。
男は先験的に見られている存在であり、見られることに対する「拒絶反応」を持つことの不可能性を負っている。そして性器を隠している女によって、「見ようとする存在」にさせられてしまっている。
男と女の観念傾向の差異は、ここから始まっている。
西洋の男は、乳房がまるで女の性器であるかのような意識を持っている。乳房によって女を確認する。乳房は、男のペニスと同様に、先験的に見られている部分である。西洋の男たちは、そのようにして女が性器を隠す存在であることを否定している。つまり「ヴァギナ」の存在を否定している。
そして西洋の女は、比較的「見られる」ことに対する「拒絶反応(羞恥・嫌悪・不安)」が少ない。西洋人の「まなざし」は濃い。彼らは「見つめる」民族である。彼らは「見られることに対する拒絶反応」が薄い。彼らは、「見られる」ことと「和解」している。それは、男の観念傾向に女たちも組み込まれてしまっていることを意味する。彼らの社会は、そういう観念傾向の上に成り立っている。
すなわち西洋の女たちは、女として生きることを奪われて(制限されて)いる、ということだ。
西洋の男の「乳房信仰」は、「隠す性器としてのヴァギナ」の否定の上に成り立っている。そうやって彼らは、女の無意識を抑圧している。
西洋の女のフェミニズム運動は、そのような男と女の、女にとってはいわば被虐的な「関係」から起こってきている。西洋における男社会に異議を唱えようとするフェミニズムは、この国におけるそれよりはるかに深刻で根源的な問題を抱えている。
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