「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?36・カリスマの正体

内田樹氏のブログは、不愉快になるだけだからあまり見ないようにしています。
でも先日のぞいてみたら、コメント欄で「イカフライ」というブロガーが、みごとにやっつけてくれていました。
たぶん内田氏に、このブロガーに再反論する能力はない。しらんぷりするのがせいいっぱいでしょう。
こういう人の存在は、世の中捨てたものじゃないな、という気分にさせてくれる。
もっともこの人は「こういう低劣な思考の大学教授が跋扈(ばっこ)するなんて、いやな世の中になったものだ」と嘆いているのだが。
この人は、内田氏よりもはるかに人間として誠実だし、内田氏よりもはるかに深く人間の本質や社会の構造を問うている。
大学教授だからかしこいというのは、ほんとに幻想だな、と思う。そして世の中は内田氏を支持する人間ばかりではない、もしかしたらだんだんメッキがはがれてきているのかもしれない、であれば内田氏の言説に異議を唱える潮流はあってもいいのではないか、という気がしてきました。
どう考えても内田氏の言うことはレベルが低すぎるし、健全ではない。楽しくもないし、美しくもない。グロテスクなだけだ。そういうことがよくわかりました。
そして内田氏を擁護する人たちも「イカフライ」氏に「あほ」呼ばわりされて、誰も反論できない。それは、彼の言い方が過激だからではなく、みんな彼ほど誠実に人間や社会を問うていないからです。問うているという自信がないからです。彼の「過激さ」に負けているのではなく「誠実さ」に負けているのです。
内田氏だって同じです。口の達者なことでは負けない自信があっても、彼よりも人間や社会を誠実に問うているというカードを持っていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日内田氏は、現代社会の風俗としての「週末婚」の流行、という話題を取り上げていました。週末だけ一緒に暮らすという夫婦が増えているという現象のことです。そして彼は、こういう。これは収入の高いクラスの人たちがやっているちょっといびつな夫婦関係である、と。
まあ内田氏の想像力では、そこまでしか思い至らないのでしょう。
べつにそんなアッパークラスでなくとも、単身赴任のサラリーマンは、みんなそうしている。東京と福岡じゃ大変だけど、東京と茨城くらいの距離なら、みんなそうしている。僕の知人の中にも、何人かいる。
夫婦別床で、遅くまで仕事をして家なんか夜中に寝に帰るだけだ、というサラリーマンだって、実質的には「週末婚」でしょう。
男と女が毎日くっつきあっていたくないと思うのは、自然なことだと思う。亭主元気で留守がいい、というじゃないですか。そんな関係は、今に始まったことじゃない。いびつでもなんでもない。
毎日一緒にいようといまいと、夫婦や男と女の関係は「拒絶反応」を交換し合うというパラドックスの上に成り立っている。だから、そういう夫婦生活の形態も生まれてくるのだし、現代の一部のサラリーマンが仕事漬けにされて耐えられるのも、誰もがそういう男と女(=家族)の関係から逃れようとする衝動を持っているからでしょう。
鎌倉に住む僕の友人は、退職金をもらったら、それで東京の下町にアパートを借りて週日は一人暮らしをしてみたい、と言っている。
男も女も、一緒に暮らしながら「ひとりになりたい」という思いを汲み上げてゆく。「ひとりになりたい」と思うことが、一緒に暮らすということです。
女房に逃げられた恨みや未練を残す男なら内田氏のように、そんなことは不自然だとかいびつだとかと思うかもしれないが、普通の男と女は、たいていそんなふうに暮らしたいと願っているし、それこそがいちばん自然な結婚生活の形態だと思っている。
男と女が毎日同じ顔を突き合わせて暮らしてゆくなんて、とてもしんどいことだし、不自然なことです。とくに子供のいない夫婦なら、もっとしんどいのだから、とうぜんそういう工夫もするようになるでしょう。金がいっぱいあって子供のいない夫婦なら、そうなるに決まっている。そうでもしなきゃ、子供のいない夫婦生活なんかしんどくてやっていけるものじゃない。そうでもしなきゃ、ちんちんが立たなくなっちまう。
内田さん、あなたは「関係」というものに対する想像力が貧困なのですよ。それは、インポの論理なのだ。
べつにインポであってもかまわないのですけどね。それに居直って自己正当化し、読者までインポにしてしまうような言説をまきちらすことはないじゃないですか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
続けて内田氏はこういう。
結婚とは親族をつくるための制度である、と。
つまり親族は、夫婦が困った事態になったときのセイフティネットであり、そのために結婚という制度があるのだ、という。人は、そういうセイフティネットを確保しようとして結婚するのだそうです。
わけのわからないことばかりおっしゃる。
たとえ親子であろうと「親族」という関係がいかに当てにならないものかということをおまえは何にもわかっていない、親族なんて、おおむね遺産相続のときにしゃしゃり出てくるだけの存在なんだぞ、と「イカフライ」氏はいう。
その通りです。遠くの親戚より近くの他人、というじゃないですか。
家族というのは安心して「拒絶反応」を表現できる関係だから、いざとなったら他人以上に冷たくなったりする。それは、むしろ自然なことなのです。
何の利害関係もない見知らぬ他人との出会いがいかに貴重なことかということを、内田氏は何にもわかっていない。
街ですれ違っだけのもう二度と会えない相手にだって、なんだか恋をしたような気分になってしまうことはあるじゃないですか。線路に倒れた見知らぬ他人を助けようとして自分が死んでしまった人だっているじゃないですか。そういう見知らぬ他人との出会いのときめきの延長として、われわれはそんな相手と結婚するようになるのだ。
この世に「親族」がいちばん大切なものなら、誰も結婚しないって。親族を振り捨ててあかの他人と一緒になるのが、結婚という制度なのだ。
「馬の骨」である僕は、女房の親族から「あいつは変わり者で、戸籍も汚れているから被差別部落の住民に決まっている」というレッテルをいまだに貼られている。僕の両親は、二人とも私生児です。だから親戚づきあいなんか、いっさいない。僕は、親戚からお年玉をもらった記憶がない。「親族」をつくるためなら、女房はぜったい僕と一緒にならなかった。
僕は寒いから結婚しただけだし、女房は、誰でもいいから親族の外に出てゆくことのできる相手と一緒になりたいと思っていた。籍を入れたとき女房は、「これでもとの姓で呼ばれなくなるのかと思うとほっとする」と言っていました。
つまり僕は、内田氏から「おまえのやったことなんか結婚したうちに入らない」といわれているわけです。だから僕は、インポ野郎がなに言ってやがる、と言い返すしかない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結婚とは、もとはといえば見知らぬ他人だった相手と一緒に暮らし始めることです。そういう事態に対する驚きやときめきの上に結婚しょうと決意するのであって、困ったときの「保険」のために親族を増やそうとか、そんな意地汚いスケベ根性でするのではない。そんなゲス野郎は、内田さん、あなたくらいのものだ。
あんまり気味悪いことばかりいわないでいただきたい。
人間が、誰もがあなたみたいに「未来」のことばかりに執着して生きているとはかぎらない。そうやって「今ここ」に対する反応を失ってインポになっちまうのですよ。
われわれは、未来のために生きることの可能性と不可能性の狭間で生きている。
生き物であるかぎり、明日も生きてあるという保証は誰にもない。だからこそ「今ここ」にヴィヴィッドに反応してちんちんが勃起するのだ。そういう自分と、未来のスケジュールを消化してゆくほかない自分との狭間でわれわれは生きている。
未来に「保険」をかけることもして生きてゆくしかないのがわれわれ現代人だが、それが正義であるかのような、人間の本性であるかのような、どうしてそんな卑しいことを平気で口にできるのか。
人間がそんなことのために結婚するなんて、損得勘定ばかりしている自分のそのげすな根性に少しは気づけよ。気づいて少しは身悶えしろよ。われわれはそうやって身悶えしながら生きているんだぜ。
身悶えしないインポ野郎になってもいいとは、われわれは思えない。
ときには、明日のことなんかどうでもいいと思えるくらいの愚かさで「世界の輝き」を体験してみたいと願っている。