祝福論(やまとことばの語源)・閑話休題

イカフライという人は、死ぬまで僕にまとわりつくつもりらしい。
僕に相手をして欲しいんだってさ。僕が打ちひしがれて気が狂うまで、まとわりつきたいんだってさ。
何度かハンドルネームを変えて擦り寄ってきたこともあったのだけれど、そのつど僕はそれを消していった。だって、気味悪いじゃないですか。
ともあれ、それで怒らせてしまったらしい。
で、ここにコメントできなくなったから、今度は、僕をけなして挑発する2チャンネルのページをどこかにつくって、僕がコメントしてくるのを待っているらしい。
そんなことをされても僕は、2チャンネルにコメントをいれるやり方がよくわからないのですよ。
杉山巡さんのブログにコメントすることもできなくて、もらいっぱなしになってしまっているというのに。
しょうがないから、ここで書いて差し上げます。
久しぶりにイカフライ氏の「ブログ漂流」というページを開いてみたら、村上春樹批判をしていた。
無残としかいいようがない。
ある批評家の村上批判を持ち出し、その尻馬に乗ってあれこれ書いているだけで、オリジナルな意見なんてなんにもない。
村上春樹の小説には「物語の構造」があるだけで、人間なんかなんにも描けていない。その批評家のそういう意見を借りて同じことをいっているだけ。
それじゃあ、「批評」になるはずないじゃないか。その批評家がそういったなら、そこから考え始めないといけない。同じ結論で済ませてしまうなんて、思考停止以外の何ものでもない。
他人を攻撃することに忙しくて、ものを考える暇がないらしい。それをしていないと、「自分」というものが保てないらしい。そんな「自分」なんか捨ててしまえばいいのに。というか、「自分」が消えてしまう瞬間のカタルシスというものを知らないらしい。それは、他人にときめいたことがない、ということだ。
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村上春樹ほど精緻で洗練された「物語」をつくることのできる作家は、たぶん世界中のどこにもいない。その芸だけでもう、じゅうぶんに世界を席巻するだけの商品価値がある。それはもう、認めるしかないのだ。
村上春樹にしたら、お前ら書けるものなら書いてみろ、といいたいところだろう。
なぜ彼の小説が「物語」として完成されているかといえば、個人をつねにシステム(共同体)との関係に置いているからだ。そこでの「個人」は、つねに「システム」から追いつめられている。ドストエフスキーのように、人間から追いつめられて血を流しているとこところなんか、なんにも描いていない。
彼は、他者との関係を回避することの名人なのだ。すべてを、「システム」との関係として処理してしまう。村上文学の登場人物は、他人に傷付けられることも、他人にときめくこともない。そうやって、「おしゃれ」な関係を紡いでゆく。
なんといっても、ひとクラス60人70人の中で育ってきた団塊世代は、他人の頭をかぼちゃのように見ることの名人ですからね。そして、かぼちゃの頭の多さ(=システム)に傷ついたりうんざりして生きてきた。
村上春樹イスラエルでのスピーチをテレビで見たけど、まさに他人の頭をかぼちゃに見ているようななれなれしいしゃべり方だった。身振り手振りよろしくなれなれしいけど、ちっともときめいていない。あの能面のような表情は、怖がっているのではない。はにかんでいるのでもない。ニヒルなだけだ。僕にとってそれは意外だったから、少なからず驚かされた。ぞっとするような冷たさを僕は感じた。
そういう人だから、あんなおしゃれな関係が書けるのだろう。
村上春樹は、「小説を書くことは自分を細分化することだ」といっている。彼はたぶん、そうやって自分に執着して生きてきたのだろう。
「自分」との関係に執着するものは、「システム」との関係にも執着する。なぜなら、「自分」という意識は、「システム」との関係よって育ってゆくものだからだ。
団塊世代以降の戦後世代は、そういう人種が多い。彼らは、自分に執着し、システムとかかわろうとする意欲も旺盛だが、人にときめくということを知らない。人に「すれて」いる。
イカフライ氏だって、つねに「システム」との関係を意識しながら生きてきたはずだ。それは、それほどに「自分」に執着して生きてきた、ということを意味する。あの執着の仕方は、きちがいじみている。だから、あんなにも他人に対してニヒルな態度が取れるのだろう。他人との関係に執着しても、ときめいてなんかいない。はにかみなんか、まるでない。彼にとって他人と関係してゆくことは、システムと関係してゆくことだからだ。他人との関係を確保することは、システムとの関係を確保することだからだ。
村上氏にしてもイカフライ氏にしても、そのようにして他人と関係している。他人なんか、自分を確認するための道具だと思っている。
われわれ庶民にとって、「他者」との関係によって知らされるのは、「自分」ではない。「他者」が知らされるだけだ。そんなこと、当たり前じゃないですか。少し大げさに言えば、「他者の絶対性」が現前することだ。そうしてそのとき、「自分」は消えてしまっている。「自分」は消えてしまっているから、「他者」が「絶対性」として現前するのだ。
そういう「他者の絶対性」というものを村上春樹はなんにも書けていないし、イカフライ氏もなんにも感じていない。
「物語」とは、「システムの絶対性」の中に身を置くところから生まれてくる。「神の絶対性」を語る「神話」なんか、まさにその典型だろう。村上春樹の小説は、その「システムの絶対性」から、もうひとつの「システムの絶対性」へとワープしてゆく仕組みになっている。それが、彼の小説が紡ぎ出すカタルシスだ。
われわれだって、「自分」に執着し、「システム」に対するこだわる部分は持っている。だから、いっときは、はしかのように村上春樹の小説に魅入られてしまう。世界中の人が魅入られてしまう。
しかしわれわれは、どこかで気づく。自分を追いつめているのは「システム」ではなく「人間=他者」だ、と。
他者と向き合ったとき、「自分」は消えて「他者の絶対性」ばかりが迫ってくる。だから、深く傷ついてしまうのだ。
「システムの絶対性」と向き合い「自分」に執着しているかぎり、そうかんたんにはへこたれない。何はともあれ、「自分」は確保されているのだ。
しかしそうやって「自分」に執着しながら、人は、他者にときめくことを失ってゆくのだ。
お前らなんぞに「他者」の何たるかを語られたくはない。これが、このブログのコンセプトです。
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村上春樹氏の「ノルウェイの森」がどんなにすごいかしらないが、あれはたぶん、恋愛小説ではなく、自己確認の物語だ。
そのていどのことなら、僕だって、先日来の「のりを=ゆか」さんとのコメントの往還で、ささやかに「ノルウェイの森」のごとき体験をさせてもらった。その彼女がどんな感想を自分のブログに書いてくれたかは、もったいないからここでは紹介しません。
しかし、誰に対してということではないが、「ざまあみやがれ」という思いはなくもない。
骨身を削って書いていれば、どこかで誰かが受け止めてくれる。それはもう、信じられるような気がします。
僕は、誰かの尻馬に乗ってものを書く、というようなことはしません。そこまで無能ではない。自分の頭で考える。そのために、支払うものは支払って生きてきた。
べつに、支払いたかったわけではないけどさ。
人生なんかただの成りゆきなのだから、そのつど誰かにときめいていればいいだけさ。そういう体験を持てないやつが、あれこれ画策してなれなれしくまとわりついたりしてくる。
あれこれ画策して、世界的なベストセラーを書いている人もいる。
おまえもがんばって、ベストセラーを書けよ。そしたら、僕のような名もなき庶民にまとわりつく必要もなくなる。その才能がないとはいわない。おまえだって、村上春樹に負けないくらい「自分」に執着しきっているではないか。そのエネルギーを、そういうことに向ければいいだけじゃないか。考えることは、どうしようもなく陳腐で薄っぺらだけどさ。そういうことはさしあたって小説家には必要ない、ということを、村上春樹が立証してくれている。