内田樹という迷惑・泣き女

葬式のときの「泣き女」をばかにしちゃあいけない。
人類の葬送儀礼は、たぶん、女が泣きわめくところからはじまっている。女が泣きわめいたから、「埋葬」するということをおぼえたのだ。
「死者の霊」という概念を持ったからとか、そういうことじゃない。
内田氏は、葬送儀礼は死者とコミュニケーションをする行為としてはじまった、というようなくだらないことを言っているが、「死者の霊」などという概念は現代人の持ち物であって、そんなさかしらな知恵など持っていない原始人は、ただもうひたすら深く悲しんだだけなのだ。
内田さん、「死者の霊」などという概念は、あなた自身の強迫観念にすぎない。あなたはいつだってそのように自分の物差しで他者をはかることばかりして、自分を捨てて他者の心に推参するという態度がまるでないのですよ。そんなやつに人類の歴史を語られても、学ぶことなんか何もない。
死者を前にして女がなぜ泣きわめくのかといえば、もうコミュニケーションできないことが胸に迫ってくるからだ。できるのなら、泣きゃあしない。そうして、埋葬することによって、ひとまずその事実を受け容れる。その事実を受け容れるために埋葬する。埋葬しないと、女はもう、死ぬまで泣いていないとならなくなる。
人類は、死者の霊に気づいたから埋葬をはじめたのではない。死者に対して深く悲しむようになったからだ。
埋葬することは、死者と語り合って安心してあの世に旅立たせてやる行為だなんて、内田さん、なにを漫画みたいなこといってやがる。
生き残ったものたちの、「深く断念する」という手続きとしてそれがなされているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死者が化けて出てくる、という強迫観念に悩まされるのは、「深く断念する」という心の手続きを怠ったからだ。そういう心の動きは、まず政敵を殺した古代の権力者に生まれ、歴史とともに、一般の庶民のところまで下りてきた。
人類は、死者の霊に気づいたから葬送儀礼をはじめたのではない。葬送儀礼をするようになって、葬送儀礼を怠ったときに、死者の霊という概念(=強迫観念)が生まれてきた。それは、死者を前にして深く悲しむという手続きを怠ったものによって発見された。
人類は、人殺しをおぼえたことによって、「死者の霊」という概念(強迫観念)を発見した。そしてそれは、数十万年前に葬送儀礼をはじめたときよりもずっとあとの、およそ7、8千年くらい前のことでしかない。つまり、そのとき「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。
毎朝仏壇にお線香を上げているのは、よくもわるくも、そうやって死者はもういないと「深く断念する」手続きを更新している態度にほかならない。それは、人間に課せられたひとつの「罰」のようなもので、それをしているから心がやさしいとか、そういう問題ではない。たんなる「人間という制度」の問題だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数十万年前、北ヨーロッパネアンデルタールは、死体を洞窟の土の下に埋めていた。
これが人類の葬送儀礼の起源で、おそらく赤ん坊の死体を埋めたのがはじまりだろう。
氷河期の極寒の地で、産んでも産んでも死んでゆく子供を前にして、ネアンデルタールの女たちは、ひたすら嘆き続けていた。
彼らがその死体を外にではなく洞窟の中に埋めていたということは、それほど深く嘆いていたことを意味する。そうしないと、あきらめきれなかった。
赤ん坊の死体を抱いて泣きわめく女からそれをひきはがし、外に捨ててくれば、女はもう発狂してしまう。
ひとまず洞窟の土の下に埋めて、女の嘆きをしずめる。
女だって、死者がもう帰らないことは経験的に知っている。しかし、あきらめきれない。もしも外に捨ててきて、夜中にふらふら出て行ってまたそこで泣きわめくというようなことをされたら、女自身が凍え死んでしまう。
泣きわめく女をなだめるためには、もう洞窟の下に埋めるしかなかった。
埋めてしまえば、ひとまずあきらめる。あきらめつつ、思い出を懐かしむこともできる。外に捨てられたら、思い出までも捨てられたような気持になってしまう。
ネアンデルタールの平均寿命は30数年、彼らの居住区では、死は、日常茶飯の出来事だった。だからこそ、いつも泣き暮らしていたし、泣き果てて、つぎつぎ新しい生命を誕生させていった。死者はもういない、ということをいやでも思い知らされる生存状況だった。
彼らにとって埋葬とは、死者を忘れるための行為だった。
死んだら天国に行くという信仰もなければ、死者の霊というような迷信もないのなら、もう泣きわめくしかないではないか。
人類の葬送儀礼の歴史は、そうやってはじまっているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本列島だって、古代には「哭き女(なきめ)」という職業的な役割を持った女がいた。
死者を忘れるためには、泣きわめくしかない。古事記によれば、男のイザナギですら、はげしく泣きわめいて死んだ妻のイザナミを葬ったのだとか。死者とコミュニケーションできるのなら、泣きわめいたりするものか。死者を葬ることは、泣きわめいて、「死者はもうここにはいない」という事実を受け容れることだ。泣きわめくことでしか、その事実を受け容れるすべはない。
おそらく大昔には、世界中に「泣き女」がいたのだ。
その習俗が今でも残っているかいないかは、歴史的な条件の違いでしかない。
儒教社会の韓国は、人と人の関係がとても密着している。だから、死にさいして別れを確かにするためには、できるかぎり大げさな「泣き女」のパフォーマンスを必要とする。それくらい大げさにしないと関係を断つことができない。関係を断たなければ、死者はあの世に旅立てない。
泣きわめくことは、「別れ」を受け容れる行為である。受け容れがたきを受け容れる行為である。まだどこかにいると思うのではなく、もはや存在しないと納得してゆく行為である。
そうやって嘆き尽くすということをちゃんとしておかないと、いつまでたっても未練を引きずってしまうことになる。
夜中にひとり暗い部屋にいて、どこかから死んだあの人が私を見ている、と思う。それが、死者の霊の発見だ。現代人でも、死者を前にして嘆き尽くすということをしなかったものは、よくそんな体験をする。そしてそれだけではすまず、知らない人が窓の外に立ってこちらのようすをうかがっている、というような妄想が四六時中起きたりしてきたら、それはもう、完全な「鬱病」である。
人と人の関係の基本は、別れることにある。どんな関係にも、別れは必ずやって来る。道で誰かとすれ違うことも、旅先でみやげ物を買うときの店員に対しても、いわば永遠の別れをそこで体験しているのである。われわれは、無数の別れを体験しながら生きている。
別れるという体験をちゃんとできないと、鬱病になっちまう。
「断念する」という心の動きのない人生はしんどい。その体験から逃れようとして、心はどんどん強迫されていってしまう。そうして、心が壊れてゆく。
人生には、たぶん、別れを嘆き尽くすという体験が必要なのだ。