やまとことばと原始言語 15・「手向(たむ)け」

僕がこのページで山姥さんというやまとことばの専門家であるらしい人と出会ったのは、3、4年前、ネアンデルタールの問題ににからめながら「ことばの起源」について書いたのがきっかけだった。
山姥さんでも、ことばの起源については考えあぐねるところがあったらしい。それは、日本列島古代の「かみ」の起源について考えることでもある、といっておられた。
そうやってコメントも寄せてもらったのだが、けっきょく中途半端なことしか書けなくて、それは僕の宿題になった。
その宿題を、今ここで書いている。
山姥さんがいつ死んでもかまわないように、その「たむけ」として書いている。
しかしだからといって、山姥さんに同意してもらいたいとか、そんなことではない。そんなことは、山姥さんの勝手だ。
とりあえずここまではたどり着いたということは、報告しておきたいのだ。
ちょっと焦っている。
だから見切り発車で行き当たりばったりのような書きざまになっているが、僕はもう、気分としては半分死にかけている人間だし、山姥さんはもっとそんな感じかもしれないから、今のうちになんとしても「たむけ」を差し出しておきたいのだ。
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山姥さんと折口信夫は、たぶんことばを扱う才能の質が似ている。でも、どこか決定的に違うところもある。男と女くらいに違う。女のリアリズムと男のセンチな妄想くらいに違うところがある。
折口信夫もどこかで「たむけ」ということばの解説をしていたような記憶があるが、もう思い出せない。ただ「たむけ=手向け」という漢字にとらわれた俗っぽい解説だったように思う。
折口信夫の書いたものは僕にとってももっとも重要なテキストで、天才だとは思うが、どうしようもない俗物だなあ、とも思っている。
天才なんて、たいてい俗物なのだ。
死者に対する「たむけ」。もともとは旅人に対する餞別(はなむけ)のことをいったらしいが、いずれにしても「別れ」の悲しみを込めて差し出す行為やものを「たむけ」という。げんみつな語源において、死者に対することばだったのか旅人に対するものだったのかは、定かではない。しかし神に対する捧げものも「たむけ」というから、もしかしたら最初は死者に対する葬送儀礼をあらわすことばだったのかもしれない。
奈良の東大寺裏手に手向(たむけ)山という小高い森がある。そこら当たりは、縄文・弥生時代からの埋葬の地だったらしい。
しかし、死者に向かって手を合わせるとか旅人に向かって手を振るとか、そういうことの「手向け」だったというのは、たんなるこじつけである。それは、漢字などなかった時代に生まれてきたことばのはずであり、仏教のような死者に向かって手を合わせるという習慣もなかった。「たむけ」とは、手を向けることではない。
「たむけ」の「た」は、「立つ」「足る」の「た」、「達成」の語義。「手」なんか関係ない。「た」は「た」であり、「て」ではない。
「む」は「無理」の「む」、「むむっ」という困惑からこぼれ出る音声。
「け」は「蹴る」の「け」、「けっ」とふてくされる。「分裂」の語義。この場合は、死の世界に旅立ってゆくこと、死者との別れ、を意味するらしい。
この「け」は、「たむく」という動詞を名詞に言い換えているかたちの語尾かというと、そうとはかぎらない。「開(あ)く」の名詞形は「開(あ)き」だろう。「あけ」の動詞は「あける」である。「あけ」が起こることを「あける」という。
「たむけ」の場合も「たむける」という。古語においては「たむく」といったとしても、それは「たむけをする」という意味だったのだろう。
「別れ」の意味は「け」にこめられているのだから、語源において「け」がつかなかったとは考えられない。この「け」は、語源を考えようとするならとても重要な音韻だ。
「たむけ」とは、親しい人の死を受け入れることの困難さを嘆きつつ、ひとまず受け入れて死者との別れを果たすこと。
仏教伝来以前の日本列島の古代人は、そのような心の動きで死者を葬送していた。別れること、この生に決着をつけること、そのことに彼らがどれほど切実であったかということの証しとして「たむけ」ということばがある。
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内田樹先生は、「葬送儀礼の本質は、死者との対話にある」といっておられるが、それは原初のかたちではない。「対話する」なんて、その人の死を受け入れていない態度だ。
もう対話できない、という現実を受け入れること。受け入れがたきを泣きながらけんめいに受け入れてゆくのが、原初の葬送儀礼だった。死者との対話の不可能性を泣いて泣いて泣ききる行為だった。
原初の人類は、親しい人の死に対する嘆きがどんどん深くなってきて葬送儀礼をはじめたのだ。それだけのことさ。べつに「霊魂」とやらを発見したからとか、そういうことではない。そういう迷信は、現代人のものなのですよ。現代人ほど迷信深いのだ。
先生は、自分の物差しでそんなことをいっているだけだ。
先日のブログでは、こんなことを言っておられた。こういう道学者ぶった物言いに、善男善女がころりとしてやられる。
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深く息をして、眼を閉じて、心を静めて、「存在しないもの」からのメッセージを聴きなさい。これは服喪儀礼と同じものである。…略…「死者が私のこのふるまいを見たら、どう思うだろう」という問いがことあるごとに回帰して、そこにいない死者の判断をおのれの行動の規矩とする人にとって、死者は「存在しないという仕方で存在する」。それどころかしばしば死者は「生きているときよりもさらに生きている」。死者をそのように遇すること、それが服喪儀礼である。
この「存在しないもの、遠来のものからの声に耳を傾けることができる」能力が人間の人間性を基礎づけている。
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自分を捨てて古代人の心の世界に推参するということは、内田先生にはできない。自分に執着して、自分の都合のいいように考えてばかりいる。
死者は、おまえらが立派な人間になるためにあるのか。そうやって「他者」を利用することばかり考えていやがる。おまえが立派な人間になることなんか、どうでもいいことだ。そういう自分なんか捨てて、率直に深く悲しめ。それが人間性の基礎だ。古代人は、死者のメッセージなんか聞いていたのではない。なぜならおまえみたいに、立派な人間になろうというようなスケベ根性なんか持っていなかったからだ。ただもう、深く悲しんでいただけだ。それが人間性の基礎だ。
死者は何も語りかけてこない。ただ、われわれに悲しみだけを残して去ってゆく。それが、死者の死者たるゆえんである。
人間は、死者の声を聞くのではない。死者のことを想う存在なのだ。死者は、何も語りかけてこない。その、「何も語りかけてこない」というイノセントな悲しみが生き残った者の心を洗うのであり、死者の声を聞いて人格者ぶっているやつなんか、薄汚いただの俗物なのだ。
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内田先生は、「赤ん坊の模倣行為は、自分の体とお母さんの体を<同期>させることだ」という。そういう発想をするところに、この先生の限界がある。
「同期」できるはずがないじゃないか。お母さんの体と赤ん坊の体では、まるで別のものだ。豚とねずみほども違う。
ラカンが「鏡像」などということばを使ったのが、すべての間違いのはじまりかもしれない。そして内田先生はその間違いにすがっておられるのだが、お母さんと赤ん坊が「鏡像関係」であるはずがないじゃないか。
そのときなぜ模倣行為が成り立つかといえば、赤ん坊は自分の体のことは忘れてお母さんの体になりきるからだ。そういうかたちでしか、その行為は成り立たない。
われわれが古代人の心に推参してゆくときも同じだ。古代人の心とわれわれの心は、まるで違う。それでもわれわれは、古代人になりきって考えることができる。なぜなら、われわれの中にも古代人の心の痕跡が残っているからだ。
先生はまた、赤ん坊は心の動きまでお母さんを模倣して自分の中につくってゆく、というようなことをいっているのだが、そんなことができるはずがないじゃないか。わけのわからないことばかり、いいやがる。
人が悲しんで泣いているのを見たら、すでに自分の中にも悲しみがあったことに気づいてもらい泣きするだけだ。泣くことは模倣しても、悲しみそのものは自分の悲しみである。心を模倣するなんてことが、できるはずないだろう。
われわれだって、古代人の心になれる。現代人の中にも古代人の心の痕跡が残っている。それが、古代人の心の世界に推参するということだ。
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何はともあれ埋葬をはじめる前の原初の人類が、「死者との対話」などできるはずがない。それは、埋葬をはじめる前に埋葬をしていた、といっているのと同じなのだ。そんなわけのわからないことが成り立つのか。成り立つはずがない。
長い歴史をかけて埋葬を繰り返してゆくことによって、そういう観念のはたらきが生まれてきただけのこと。話は逆で、埋葬をしたから、「死者との対話」をするようになっていったのだ。
死んだ人とはもう話をすることができない、ということの悲しみ。話をしない猿には、そんな悲しみは希薄だろう。
人は、言葉を生み育てていったこと引き換えに、親しい人の死に対する嘆きも深くしていった。
ことばの歴史が進化するということは、伝達の能力が進化するということではない。おしゃべり(会話)の楽しみが豊かになるということであり、それだけ人と人の関係が濃密になってゆく、ということだ。そして濃密になったぶんだけ、親しい人の死に対する嘆きも深くなっていった。
嘆きが深くなったから、埋葬がはじまったのだ。それだけのことだが、それは、霊魂の概念にめざめて死者との対話ができるようになった、などということよりずっと人間性の根源に根ざしていることのはずである。
死者と対話ができるのなら、嘆きもやわらげられる。しかし、歴史的にはまず、深く嘆いて親しい人の死を受け入れる、という段階があったはずである。そうして、受け入れることができなくなってきたから、「死者との対話」という観念作用が生まれてきたのだ。
「人類の葬送儀礼は死者との対話としてはじまった」などと安直なことをいってもらっては困る。「死者との対話」という発想は、音声をともなわない「文字」を介在して読んだり書いて伝えたりという習慣が生まれたことによって起きてきた観念行為にすぎない。
音声をともなわない「文字」によって、「霊魂」という概念が生まれてきた。
そうして、おもいきり死を怖がる存在になっていった。
人間社会が「文字」を持ってしまったということは、それくらいやっかいなことなのだ。
原初の人類にとっては、「音声」だけが対話の証しだった。
音声を失った死者と、どう対話するのだ。
そのとき彼らに負わされたのは、もう対話できないという事実、すなわち死者との別れをどう受け入れるかということだったはずである。葬送儀礼の歴史は、そこからはじまったのだ。
人類の歴史は、ことばによって人と人の関係が濃密になっていった。と同時に、親しい人との別れの悲しみも深くなっていった。
われわれが語り合うよろこびの文化を持っているということは、この生が別れの悲しみの上に成り立っているということでもある。
原初の人々は、のんきに「霊魂」などというものを信じて「死者との対話」などといっている迷信深いわれわれよりも、死や親しい人との別れについてずっと深く率直に問うていったのだ。それは、彼らが「嘆き」をけっして隠蔽したり消去しようとしなかったからであり、その「嘆き」から葬送儀礼が生まれてきたのだ。
「たむけ」の「たむ」とは「無理が立つ」ということ。「け」は「別れ」、必死の思いの別れだから、「蹴る」の「け」という音韻になった。
原初の人類は、そういう別れの悲しみを胸にいっぱいにためて葬送儀礼を果たしていったのだ。
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何度でもいう。原初の人類が埋葬をはじめたのは、「死者はもう戻らない」ということを深く嘆いたからであって、内田樹先生がいうように、死者との対話をするための「霊魂」とやらの存在に気づいたからではない。俗物が、何をくだらないことをほざいていやがる。
われわれより古代人や原始人のほうが迷信深かったのなら、直立二足歩行をはじめた原初の人類はもっと迷信深かったことになり、猿はさらに迷信深い、ということになる。
「霊魂」などという現代的な概念を持ち出さなくても、埋葬をはじめる契機はちゃんとあるのだ。埋葬せずにいられないくらい「死者はもう戻らない」ということに深く嘆いたからだ。それだけのことさ。われわれはそれだけのことである「イノセント」を失いつつあるし、それだけのことである「イノセント」を今なおどこかしらに古代の痕跡として残している。
人類の迷信は、時代とともに大げさでやっかいなものになってきたのだ。
縄文人は、「死者との対話」をしていたのか。文字を持たない彼らが、していたはずがないじゃないか。
折口信夫は「古代人は、水平線の向こうには永遠楽土の神の国があると信じており、そこからやってくる神のことを<まれびと>といった」という。この思考は、内田先生が「死者との対話」といっているのと同じくらい通俗的だ。
誰かが「人は自分の品性に合わせた発想をする」といったが、ほんとにそのとおりだ。おまえらの俗物根性が丸見えじゃないか。
縄文人は、水平線の向こうは「何もない」と思っていた。その世界観から、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という神道の生命観が生まれてきた。
この「何もない」という感覚こそ、古代人の心の動きのタッチなのだ。
このタッチから派生して考えれば、彼らがいかに「死者はもう戻らない」ということを切実に受け止めていたかがわかるだろう。
「死者との対話」などといっている俗物にわかる話ではないのだ。
僕だって、「死者との対話」ができると信じていたら、こんなにして鳥が飛び立つようなあわただしさで山姥さんに「たむけ」を書こうとはしない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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