やまとことばと原始言語 14・ネアンデルタールのおしゃべり

赤ん坊がお母さんの動きを真似する。お母さんが笑えば笑うし、手を叩けば手を叩く。これが「学ぶ」ということのもっとも根源的なかたちだと、まあ一般的にはいわれている。
そうかもしれない。
で、このことを内田樹先生は、こう説明してくれる。
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脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(『日本人の脳に主語はいらない』、2008)
思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。
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脳科学の知見」は、ほんとにこんないい加減なことを教えているのだろうか。
「模倣」ということばがいやらしい。教育の本質は模倣することである、だから君たちは優秀な教育者である私を模倣しなさい、といっているのだ。
「思考も感情も私たちは外界から<学習>するのである」というとき、先生は、「生き物の生きるいとなみはこの世界と一体化してゆくことにある、われわれの身体は世界と<一体化=同期>している」と考えておられるらしい。だから「他者との身体的な<同期>が<理解>ということの本質なのである」ということになる。
何をステレオタイプなことをいっているのだろう。
赤ん坊がお母さんの真似をするのは「身体的な同期」ではないのである。
そのとき赤ん坊は、自分の身体のことなんか忘れて、お母さんの体になりきっている。そこに、赤ん坊のカタルシスがある。なぜなら赤ん坊は、みずからの身体が「無力」であることに途方に暮れている存在だからである。だから、身体のことを忘れてしまう瞬間にカタルシスをおぼえる。
生き物の身体は、世界に対する「違和」として存在している。「一体化=同期」しているのではない。意識は、世界に対する「違和感」として発生する。そしてその「違和感」は、世界と一体化することによってではなく、みずからの身体(存在)が消えることによって解消される。
そのとき赤ん坊は、お母さんと「一体化」しているのではなく、みずからの身体を「消去」しているのだ。
赤ん坊は、自分の手とお母さんの手が同じものだと思っているだろうか。思っているはずがない。大きさといいかたちといい、まるで違うものじゃないか。鏡を見たこともない赤ん坊が、自分の顔がお母さんの顔と同じようになっていると自覚しているだろうか。自覚しているはずがない。顔、という自覚すら持っていないかもしれない。
そのとき赤ん坊は、自分を忘れて、お母さんの顔や手になりきっているのだ。
この「自分を忘れる=身体を消去する」というところに赤ん坊の、そして無力な存在である人間のカタルシスがある。
「学ぶ」とは、自分を消して他者になりきることである。
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赤ん坊の集団では、誰かひとりが泣き始めると、みんないっせいに泣きはじめるということがよく起こるらしい。
ではこのとき彼らは、内田先生がいうように、他人の「心=悲しみ」を模倣しているのか。悲しければ泣きたくなることくらい、赤ん坊でも知っている。そのとき彼らは、泣くという行為を「共有」しようとしている。自分も泣こうとして、自分の悲しみで泣いている。赤ん坊に、他人の悲しみなんかわかるはずないじゃないか。
われわれだって、他人の悲しみなんかわからない。ただ自分の悲しみでもらい泣きしているだけである。人間は、行為を「共有」してゆこうとする衝動を持っている。「模倣」するのではない。一緒に泣きたいのであって、泣くのを真似しているのではない。内田先生に、この違いのニュアンスがわかるかなあ。
無力な存在として世界に対する違和感(=嘆き)を根源的に負っている人間は、「自分=身体」を消去しようとする衝動を持っている。「自分=身体」を消去して他者と行為を共有してゆく。無力な赤ん坊ほど、この衝動は切実である。
それは、「模倣」するのではない、「自分を忘れる=身体を消去する」行為なのだ。
「人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである」だって?何をくだらないことをほざいてやがる。人間は「固有性を形成」なんかしない。「人間的な厚みを増して」ゆきもしない。「自分らしさ」にこだわっているのは、おまえじゃないか。
人間は、「自己を形成」しない。自己なんか、死ぬまで混乱している。
人はただ「自分=身体」を消そうとしているだけだ。その消してゆくところに生きてあることのカタルシスがあり、消してゆくタッチを持っているイノセントな人をわれわれは魅力的にも思うのだ。
「自己を形成」しているつもりのおまえらが魅力的なのではない。ぶさいくなやつらだ。
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だから僕は、深く嘆いている人こそ深く人間に気づいている、人間であることの真実は、そういう人に問う、といっているのだ。
であれば先生の次の言い草なんかもう、俺に対する当てこすりか、と思ってしまうのだ。
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外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。ところが、「自分らしさ」イデオロギーはこれとまったく逆転した人間観に基づいている。「自分らしさ」イデオロギーによると、「私」は誕生の瞬間においてもっとも純良な「自分らしさ」をすでに達成している。それ以後の成長過程で外部から外付けされたものはすべて「自分らしくないもの」である。それゆえ「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる。これは言い換えると、「私は知るべきことはすでに知っている。私がこれから実現すべきことのすべてはすでに胚芽的なかたちで私に内在している。私が私であるために外部から新たに採り入れなければならないものは何もない。私が所有すべきすべての知識と技術を私はすでに所有している」ということである。
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僕は、先日のこのブログの「エクリチュール」という記事で、「大哲学者のいっていることなんか、すべての人間が(無意識的に)すでに知っていることだ」と書いた。
こういう言い方は、先生の「学びの理論」には反するらしい。
そうしていやみたっぷりに「原初の清浄」だなんて、僕がここでずっと書いてきたことに対する当てこすりかい、といいたくなってしまうではないか。
おまえには、「イノセント」な人間に対する敬意はないのか。僕は、右翼でもなんでもないが、この国の「イノセント」な人間のお手本は「天皇」にある、と思っている。そういうかたちでの天皇に対する敬意は持っていなくもない。
おまえなんか、自分の「イノセント」のなさに居直っているだけじゃないか。そんなくだらないことをいって、「イノセント」を持っていないすれっからしの自分を正当化しようとわめき散らしているだけじゃないか。
そうして、正当化したいやつらが、大挙して内田先生の言説にすがっていやがる。
「自分らしさ」に執着しているのは、おまえらなんだぞ。なのにその愚劣さを若者や子供たちにおっかぶせて、自分を正当化しようなんて、まったく意地汚いにもほどがある。
ようするに、自分が「イノセント」を持っていないことを隠蔽し居直っているだけじゃないか。自分のちんちんが立たないのを女のせいにしているようなものだ。そうやって女子供をさげすんでばかりいやがる。
「原初の清浄」にこだわるなんて、「ただの左翼的朝日新聞的な古臭い思考だ」と先生はおっしゃる。そうやって、他人を安く見積もって安心しようとする。そんなこといったって先生、あなたはほんとうに僕に対して、僕よりも深く人間の根源に対して思考の錘を垂らしている、といえる自信がありますか。あなたがどんなにわれわれをさげすもうと、われわれはそれに対して無限に反論してゆく用意がありますよ。
われわれは、あなたみたいな鈍くさい運動オンチでもなければ、インポオヤジでもない。少なくともあなたよりは人間の中の「原初の清浄=イノセント」に対する敬意を持っている。それの、どこがわるい?
われわれは、あなたみたいに意地汚く居直るというようなことはしない。みずからを嘆きながら生きている。そして、人間とはもともとそういう存在だと思っている。
赤ん坊にだって「嘆き」はあるんだぞ。それは、生き物の、存在そのもののかたちなのだ。
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ことばの起源について考えるなら、「ことばの本質は伝達の機能にある」とかなんとかといっている前に、人と人がおしゃべり(会話)に夢中になるのはどんな状況だろうか、という問いからはじめるべきなのではないだろうか。
日本列島の古代人は、この国は「ことだまのさきはふ」ところである、といった。「ことだま」とはことばの「霊力」である、というようなくだらないことを歴史家たちは大合唱しているのであるが、「ことだまのさきはふ」とは、ようするに「おしゃべり(会話)が盛り上がる」ということだ。つきつめていえば、そういうことさ。そして、そういうことのほうが、「霊力」などと陳腐なことをいっているよりも、ずっと深いことばの本質を宿しているのである。
おしゃべり(会話)を盛り上がらせる根源的な力のことを「ことだま」という。
では、どういう状況でおしゃべりは盛り上がるのか。
「こうしなさい」「はい、わかりました」では、おしゃべりは盛り上がらない。こんなこと、おしゃべりの範疇にも入らないだろう。
「これはりんごという果物です」「そうですか、教えてくれてありがとう」と、こんなふうに伝達するだけのことでおしゃべりが盛り上がることなんかありえない。それは、そのようにして人類のことばが生まれ育ってきたのではない、ということを意味する。
おしゃべり(会話)のダイナミズムこそ、ことばが生まれ育ってきたことの原動力だったはずである。
伝達することなんか、ことばの二次的な機能にすぎない。
楽しい話で盛り上がる、という。しかしそれを長続きさせることは難しい。一晩中、というわけにはゆかない。話だけじゃ持たないから、一緒に歌を歌ったりゲームをしたり、ということも挿入してゆかなければならない。
一晩中続くというのは、嘆きを語り合ったり、人の悪口を言い合ったり、議論をしたり、というようなときだろう。
悪口を言うのも、「あいつはどうしようもないやつだ」というひとつの「嘆き」である。
議論をするのも、おたがいに「なぜ?」と問う「嘆き」を交換し合うことである。
おしゃべり(会話)が盛り上がることの基本は、「嘆き」にある。「嘆き」こそが、おしゃべり(会話)を盛り上がらせる。そしてそれを、やまとことばでは「ことだま」という。
ことばにこめられた生きてあることの「嘆き」、それを「ことだま」という。
ことばには、生きてあることの「嘆き」がこめられている。人類の歴史のそういうところから、ことばが生まれ育ってきたのだ。
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「嘆き」とは、「世界に対する違和感」のことだ。
われわれの生は、「世界に対する違和感」の上に成り立っている。命は、そこにおいてはたらいている。
われわれの身体は、動かなければ(生成しなければ)生きてあることができない。息をすることが息苦しさを消すことであるように、そうした「世界に対する違和感=嘆き」を消去してゆくことが、身体(=命)のはたらきである。
「世界に対する違和感=嘆き」がなければこの生は成り立たないし、「世界に対する違和感」が深ければ深いほど、それが消去されるカタルシスも深くなる。この生(命)のダイナミズムも、そこにこそある。
びっくりすれば、「おお」とか「わあ」とか「きゃあ」というような声が思わず口からこぼれ出る。
人類のことばは、まずそのようにしてはじまった。
それは、「世界に対する違和感」の表出であり、「嘆き」の音声である。
そして人は、そういう「違和感=嘆き」を心の底に深く抱えているから、親しい人や懐かしい人と出会えば、「やあ」という音声がこぼれ出る。そうして、「なあ」と語りかけてゆくし、語りかけられれば、「ああ」とか「うん」という音声を投げ返す。
音声は、世界に対する違和感からこぼれ出る。人は、その違和感がことに深いから、さまざまな音声を洩らす存在になっていった。
だから、「嘆き」の会話がいちばん盛り上がる。
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人類史におけることばは、知能が高いものによって生み出されてきたのではない。誰いうとなく語られはじめたその音声を集団のみんなが「共有」してゆくことによって、はじめてことばになる。ことばは、誰かが発明したものではない。すでにみんなが発している音声がことばとして共有されたのだ。あとからことばであることに気づいていったのだ。
直立二足歩行の開始がみんないっせいに立ち上がったことにあったように、ことばもまた、集団のみんなが生み出していったのだ。
ことばは、必ず集団のありようが反映されている。だから、世界中の集団ごとに違う。
ことばが個人的な「知能」によって生み出されるのなら、世界中たいして違いはないだろう。集団のありようが反映され、集団によって生み出されるから、世界中違うことばになった。集団のありよう、すなわち集団によって共有されている感慨(=世界に対する違和感)からことばが生まれてくる。
極北のネアンデルタールの集団は、寒さに対する嘆きと、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることの嘆きと、洞窟などに定住することの嘆きを共有していた。
そしてそれらは、同じころのアフリカのサバンナで暮らすホモ・サピエンスには無縁の嘆きだった。つまりアフリカのホモ・サピエンスには、ことばが生まれてくる契機が希薄だった。彼らは、北のネアンデルタールとは対照的に、温暖な地域を家族的小集団で移動生活をしていた。そういう集団では、どんなに知能が発達していてもことばが生まれてくる契機は希薄である。家族はひとまず、いわなくてもわかり合える集団である。
ネアンデルタールのほうが、はるかにことばが生まれ育ってくる契機を備えていた。
ネアンデルタールはたぶん、とてもおしゃべりな民族だった。洞窟の中にみんなで肩寄せあって焚き火を囲んでいれば、自然に語らいが生まれてくるだろう。
狩に出ている男たちの留守をあずかる女たちの井戸端会議も、きっとかまびすしかったにちがいない。
寒い中でじっとしていると、どんどん体温は下がってゆく。じっとしながら体温を上げようとするなら、もうおしゃべりをするしかない。
また、男たちが、タフで危険な、マンモスなどの大型草食動物の狩に熱中していったのも、そのために相当広範囲に歩きまわっていたのも、つまりはそれが体温を上げるのに有効だったからだろう。
とすれば、ネアンデルタールのことば文化は、そういう方法を持たなかった女たちの主導で育っていったのかもしれない。
彼らは、そのさまざまな嘆きとともに、さまざまな音声(ことば)を持っていたにちがいない。少なくとも、アフリカのホモ・サピエンスよりはずっと。
ネアンデルタールは、そのとき人類でもっとも、おしゃべり(会話)が豊かになるような条件のもとで暮らしていた。
人類史におけることばが、原始言語から文節を持ったおしゃべり(会話)へと発展してゆくメルクマールは、ネアンデルタールの出現にあった。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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